藤原道長の歌「この世をば」の真の意味とは?経歴や政治と逸話についても

今回解説していくのは藤原氏の最盛期を築き上げた藤原道長

 

摂関政治を行い天皇を凌ぐ権力を手に入れましたが、今回はそんな藤原道長について

  • 藤原道長のあの歌の意味
  • 藤原道長の経歴と年表
  • 藤原道長のエピソード
  • 藤原道長が行った摂関政治とは?

 

などについて詳しく解説していきたいと思います!

藤原道長の歌「この世をば」の真の意味とは?

藤原道長の有名な歌である

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば

 

百人一首にある「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ」とは対照となる句なんですね。

 

要するにあの満月のように私は完全なのであるという意味であったのですが、その歌を詠んだということは藤原実資が書いたとされる「小右記」には記されていますが、道長本人が書いたとされる「御堂関白記」には記されていません。

実はあの歌は道長の娘である威子が後一条天皇の妃となった時のお祝いの席で即興的に詠んだ歌で道長にとったら全く深い意味がないようなものでした。

 

ちなみに、道長はこの歌を詠んだ時に同席している人に対して返歌をしてくれと言われていたのですが、実資はこの歌を詠んだ後に

「こんな歌素晴らしすぎて返歌できません!そんなことするよりもこの歌を復唱しましょう!」

と言って返歌をすることを免れたと言われています。

 

実際この小右記は道長のことを批判している場面が多い日記でした。

 

道長からしたら特に深い意味がなかったこの世をばという歌。

しかし、場所が場所であったが為に道長が権力を握った象徴的な意味だとされているのです。

藤原道長とは?

藤原道長
藤原道長

藤原道長は平安時代中期の1000年ごろに活躍した貴族です。

彼は自分の娘を皇族に嫁がせて自らはその外戚として権力を握る摂関政治を駆使して朝廷内での権力を確立。

上でも紹介したあの短歌のように何も欠点がない状況を作り出し、藤原氏の全盛期を築きあげました。

 

また、

  • 娘の彰子の為に源氏物語を書いた紫式部
  • 歌人として知られてきた和泉式部
  • 栄花物語の作者である赤染衛門

 

などの名だたる女流作家や女流歌人を女房として登用。

日本の文学育成のバックアップをして、国風文化が隆盛を迎える地盤を作ったのです。

 

ちなみに、彼の日記である御堂関白記から道長のことを御堂関白と呼ぶことがあるのですが、彼は摂政にはなっているものの、関白にはなっていません。

 

ここを試験や入試でよく問われることが多いので、十分に気をつけてください。

家系図

藤原道長は平安時代の前期と中期に天皇と並び立つほどの権力を持った藤原北家の出身です。

要するに道長は名門中の名門の家系の生まれだったのです。

 

ちなみに、道長は藤原氏の始祖となる中臣鎌足のから数えて11代目となっています。

その後息子である頼通が引き続き藤原氏のトップとして君臨することになるのですが、道長から数えて5代目の藤原忠道の時に北家は五つに分裂。

いわゆる五摂家と名前を変えて、朝廷の重職として活躍していくことになるのでした。

息子

道長には後に平等院鳳凰堂を建立することになる頼通を始め、7人の息子がいました。

 

道長の後継者となる頼通は道長がなることがなかった関白に就任し、道長と同じように藤原氏の全盛期を築き上げました。

 

他の息子達もほどほどに出世しており、例えば

  • 次男である藤原の頼宗は従一位右大臣に
  • 四男の能信は正二位権大納言に
  • 五男である教通は頼通の死後に関白に就任

 

斜陽ながらも藤原氏を盛り立てるために奔走していました。

頼通だけがなにかと有名になりがちなんですが、頼通以外にも藤原氏の一族として政治的権力を確立していたのですね。

ちょっと変わったエピソードや逸話

藤原道長は若い頃はとても豪胆な性格であったと言われており、それがたたって一回父から勘当を受けていたと言われています。

 

父であった兼家が何事にも優れている人のことを羨んで、自分の息子は全く有能ではなくその影さえ踏めず残念であると嘆いていると道長は若干イラっとしたのでしょうか。

道長は父の目の前で「そんな奴のこと影など踏まずに面を踏んでやる!」と言ったんだそうです。

 

出世した後であったらそんなこと余裕で言えたかもしれませんですが、まだまだ出世の見込みがない時にそんなことを言ったとなりますと彼の凄さだと思います。

藤原道長の経歴

藤原道長は966年に藤原兼家の五男として生まれました。

 

最終的には藤原長者として3人の娘を天皇の后にするのですが、前半生のことはあまり分かっておらず、五男だったこともあってかあまり注目されていなかったのではないかと言われています。

それでも藤原北家の本筋であったこともあり、道長は徐々に出世していき、988年には権中納言に就任して晴れて公卿に昇進しました。

 

そして990年に父である兼家が亡くなるのですが、その後を継いだ長男の道隆が藤原長者となり、その下で道長は権大納言に就任。

955年に都で疫病が流行して道隆と後を継いだ道兼が亡くなると、遂に道長に出世のチャンスが巡ってくることになります。

 

道長には道隆の息子である伊周というライバルがいました。

道長と伊周は非常に仲が悪く、藤原氏の頂点を巡って激しく争うことになります。

 

ですが、一条天皇の母であり、道長からしたら姉に当たる、藤原詮子が道長のバックアップに当たったことによって道長に軍配が上がります。

そして、道長は天皇より先に公的な手紙を見ることができる内覧という地位を得て、遂に政治の実権を握りるようになります。

 

さらに伊周が花山天皇を間違えて射るというとんでもない大ポカをやらかし、太宰権帥に左遷。

こうして政敵がいなくなった道長は摂関政治を確立する為に自身の娘を天皇家に嫁がせ始め、中宮という正室を2人いても大丈夫というとんでも制度を確立させて、一条天皇に娘である彰子を中宮として入内させます。

 

さらに、藤原妍子を三条天皇の中宮に、藤原威子を後一条天皇の中宮にさせて娘3人を天皇の后とする前代未聞のことをやり遂げてしまいます。

こうして天皇を凌ぐ権力を握った道長。

 

その後道長は朝廷のことを嫡男である藤原頼通に全て譲り政務から引退して出家。

晩年は極楽浄土に行けるようにする為に仏教を厚く信仰し始め、法成寺を建立するなどさまざまな仏教の保護を行なっていくようになります。

 

こうして権力を握ってまさしく完全なる生涯を送った道長。

そんな道長も晩年は糖尿病を患ったと言われており、その合併症によって62年の生涯に幕を閉じました。

 

道長は死の間際になると無量寿院に入り九体の阿弥陀如来の手から出ている糸をしっかりと握りながら僧侶たちの読経の中で極楽浄土に行けるように願いながら亡くなったそうです。

年表

966年 藤原北家出身の藤原兼家の五男として生まれる

995年 長男の藤原道隆と三男が死去。右大臣に就任

996年 長徳の変 おいの伊周を太宰権帥に左遷して左大臣に就任

1000年 娘の彰子が一条天皇の中宮となる

1008年 娘の彰子が敦成親王を出産

1016年 敦成親王が後一条天皇として即位 道長は摂政になる

1018年 三女の威子を後一条天皇の中宮とする

1028年 糖尿病によって死去

藤原道長の政治の仕組み

藤原道長が天皇を凌ぐ権力を持った理由の一つに摂関政治によって内覧に就任したことにありました。

 

内覧とは天皇が裁可を出す書類を天皇より先に見る役職のことで、この役職によって藤原道長は権力を握ったのです。

娘を天皇の妃にして権力を握った?

平安イメージ

藤原道長は娘を天皇の妃として嫁がせ、自身は権力を握ることになりました。

実はこの摂関政治が成り立つ重要な理由にこの頃の日本の結婚の形態が妻問婚というものがあったのです。

 

妻問婚というのは簡単に言えば夫が妻の家に訪ねて結婚をするということ。

この頃の結婚というのは今みたいな協議を重ねて両性の同意を得て成立するのではなく、妻の家に許可をもらってようやく結婚が成立するルールだったのです。

こんなルールであったため、基本的に力が強いのは母方の家系の方でした。

 

例えば子供の養育の義務は基本的に妻の家庭にありましたし、財産の分与も妻の家系の方が多い傾向にあったのです。

そのためは母の一族である藤原氏のもとで養育された皇族の子供が、成長した時に天皇になった時には育ててくれた藤原氏の意向に従うようになるのです。

道長の晩年ぐらいになると妻問婚という形も若干薄れ始めていき、子供の養育は父方の家系で行うようになりました。

 

この妻問婚の制度の変化が摂関政治の衰退を招いてしまったという説があるほど、妻問婚というのは摂関政治にはなくてはならないものだったのです。

摂関政治とは?

摂関政治とは自身の娘を天皇家に嫁がせ、その生まれた子供を天皇にし、自分は外戚として権力を振るう政治体制のことです。

 

外戚となった後、摂政と関白という地位についたことから一文字づつ取って摂関政治と呼ばれるようになりました。

上にも書いた通り、この頃の日本は妻問婚という形であったため母の家系の方が強い状態にありました。

藤原氏はここに漬け込み天皇の外戚となり、天皇が幼い時には摂政に、天皇が成人したら関白に就任し、天皇を凌ぐ権力を握ることになりました。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

 

  • 藤原道長のあの歌は即興で作ったものであまり深い意味はなかった
  • 藤原道長は五男ということもあってか前半生は注目されていなかったが、政争に勝ったことによって藤原長者となった
  • 藤原道長は結構豪胆な性格であった
  • 藤原道長は自分の娘の天皇の后として自分は天皇の外戚として入るという摂関政治という政治を行なっていた

 

最後になりましたが、藤原道長は平安時代の政治を動かしただけではなく、国風文化の発展の地盤を作ることも行いました。

道長はまさしく平安時代を代表する人物だったのですね。

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