今回は薩長同盟について解説していきます!
- 薩長同盟とは?
- 関わった人物や締結した場所
- 裏書について
- 薩長同盟の立役者は坂本龍馬?
その他、薩長同盟の長州側の思惑や、薩長同盟の目的は倒幕ではなかった?についてわかりやすく解説していきたいと思います!
まずは、薩長同盟とはどんな同盟だったのか説明していきますね!
薩長同盟とは?
薩長同盟とは1866年(慶応2年)、薩摩藩と長州藩との間に結ばれた政治的、軍事的同盟のことを言います。
別名薩長盟約、薩長連合とも言います。
この同盟を結ぶ前は薩摩藩と長州藩は非常に仲が悪く、犬猿の仲でした。
では、なぜ薩摩藩と長州藩はこの同盟を結んだのでしょうか。
実はそこ至るまでの背景がありました。
薩摩藩は薩長同盟以前は、幕府と同じ考えの「公武合体(幕府と朝廷が手を結んで政局にあたること)」の立場から、幕府の開国路線を支持しつつ幕藩体制を求めていました。
一方の長州藩は「破約攘夷(日米修好通商条約を破棄し、外国を排斥する考え)」を持ち、過激な反幕的姿勢を強めていきました。
両者は正反対の考えを持っていたのです。
1863年(文久3年)には「八月十八日の政変」が起こり、薩摩藩は会津藩と協力して京都から長州藩勢力を追放します。
また1864年(元治元年)に薩摩藩は抗議をするために京都に出兵した長州藩を攻撃して、長州藩を朝敵(天皇の敵)にしました。
これを「禁門の変(蛤御門の変)」と言います。
その後、朝敵となった長州藩に対し、幕府は朝廷から長州追討の勅許を得て、「長州征伐」を指揮します。
さらに、翌月には下関戦争の報復として、アメリカ、フランス、イギリス、オランダによる四カ国連合の攻撃を受けて、圧倒的な戦力の前に降伏。
この敗北により、長州は攘夷から倒幕へと考え方を変化させていきます。
長州藩は朝敵となり京都から締め出され、幕府側の薩摩藩に大惨敗し、外国からも攻撃され絶体絶命の状態だったのです。
こうして両藩の間には修復不可能と思われるような亀裂が入ったのです。
しかし、薩摩藩は幕府に絶対的信頼を持っているわけではなく、幕府も薩摩藩の影響力は脅威だったため、薩摩藩の力を削るために、薩摩藩に「長州征伐」を命じました。
薩摩藩は長州藩と戦えば財政も兵力も消耗してしまいます。
しかも、長州藩を潰した後は、薩摩藩が幕府の標的になる可能性があり、長州藩とは戦いたくはないというのが本音でした。
その頃、生麦事件から「薩英戦争」が勃発。
薩摩藩はイギリスのあまりの強さに圧倒され、外国の強さを思い知らされました。
イギリスも薩摩藩が意外と強かったので、これから先イギリスと薩摩藩は仲良くなり、貿易を始めます。
薩摩藩はイギリスから大量の最先端の武器を輸入し、武力を強化していきます。
薩摩藩は外国に対して弱腰の幕府はもう役に立たないと考え、どんどん倒幕へと傾いていきました。
しかし、薩摩藩だけでは倒幕は難しいと考えていて、仲間になってくれる藩が欲しかったのです。
そこで、同じく倒幕を考えている長州藩と和解し、協力体制を整えるために薩長同盟を結ぼうということになったのです。
薩長同盟の内容は
- 長州が幕府と戦争になったら薩摩藩はただちに2000ほどの兵を向かわせること。
- 長州藩が幕府軍に勝ちそうな展開であれば、薩摩藩は朝廷に講和を働きかけること。
- 万が一長州藩が負けた場合は長州藩を滅亡させないために、薩摩藩は必ず長州藩を助ける為に尽力すること。
- 戦争が終わったら薩摩藩は朝廷に対して長州藩の無実を訴え、名誉挽回に尽力すること。
- 幕府側の大名である会津藩や桑名藩などの藩が長州藩や薩摩藩を攻撃したら即座に決戦に及ぶこと。
- 長州藩の冤罪が晴れたなら、薩長双方は誠意を持って一致団結し、日本のために尽力すること。
このように薩長同盟は、薩摩藩が長州藩をいかなる時も支援するという内容で結ばれました。
ではこの後は薩長同盟の成立には、どのような人物が関わっていたのか解説していきますね。
人物
薩長同盟締結に関わった人物を挙げていきます。
薩摩藩士・・・西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、吉井友実、島津伊勢、桂久武、奈良原繁
長州藩士・・・桂小五郎、品川弥次郎、三好軍太郎
長州藩士(仲介役)・・・坂本龍馬、中岡慎太郎
場所
現在の京都府上京区にあった薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷で締結されました。
現在は近衛家別邸御花畑屋敷跡として碑が立っています。
裏書
裏書とは、薩長同盟を結ぶ会談は秘密裏に設けられた会談だったので、誰も記録を取っていませんでした。
そのため、後日桂小五郎(木戸孝允)が坂本龍馬に「あの時の会談はこのような内容でしたよね?」と薩長同盟の内容を6項目にまとめて手紙(尺牘)を書いて確認を求めました。
翌月、龍馬がその裏に返書として、「表の内容に間違いありませんよ。」という内容を朱書で返答したもののことを言います。
この裏書のおかげで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩は、薩長同盟を結ぶことができたのです。
では次に、薩長同盟の立役者は坂本龍馬だった?について解説していきますね!
薩長同盟の立役者は坂本龍馬?
もともとの薩長同盟の構想を考えたのは、土佐脱藩志士の中岡慎太郎、土方久元でした。
彼らは尊王攘夷思想を持っていて、幕府の志士への不当な弾圧や雄藩同士の無益な争いといった現実に直面し、雄藩同士が争いをやめ、一致団結できれば必ず倒幕は果たせるという考えに至りました。
こうして仲が悪かった薩摩と長州の関係を修復するため薩長同盟の締結を目的とした動きを起こしていきます。
そして、これに賛同し共に尽力したのが坂本龍馬だったのです。
大村藩志士・渡辺昇に薩長同盟の話を力説した龍馬は、渡辺経由で長州の桂小五郎(木戸孝允)らと会うことが叶います。
龍馬が桂らを説得し、中岡が西郷隆盛を説得します。
そして、ついに下関で薩長会談が実現することになりました。
しかし、当日になっても西郷隆盛は現れません。
なぜかというと、幕府が「第二次長州征伐」の決行を朝廷に打診しており、朝廷がそれに賛同することを阻止しに京都に向かってしまったからです。
この事態に桂は激怒します。
長州を「禁門の変」で朝敵にした薩摩にまたもや裏切られたと感じ、憎しみが増幅したのです。
この時点で薩長同盟の実現はかなり厳しい状況になりました。
しかし、龍馬と中岡は諦めませんでした。
この二人がもう一度薩摩と長州の間を取り持って、次は京都で会談を開くことになりました。
ですが、この会談ですんなり薩長同盟が締結したかといえば、そのようにはなりませんでした。
龍馬が会談の場所に行くまでの10日間、長州と薩摩はお互いに同盟の話を切り出さず、意地を張り合いながら、ただ豪華なご馳走を食べているだけの会談を続けていました。
桂ら長州からすると、自分から同盟の話をすれば天敵であった薩摩に助けを求めることになり、藩の面目は丸潰れとなるので、自分からはどうしても話を切り出すことはできませんでした。
西郷も西郷で策士なので、同盟の条件を有利に進めるために、長州から同盟の話を切り出させようという思惑があり、中々進展しなかったようです。
龍馬はその現状に驚いて、西郷の元に走ります。
「なぜ薩摩側から話を切り出さないのか?長州の現状を察して薩摩から同盟の話を切り出してほしい!」と西郷を一喝します。
龍馬の一喝によって西郷は、改めて同盟の話は自分から切り出すと約束したと言われています。
このように薩長同盟は決して坂本龍馬一人の功績ではなく、中岡慎太郎などの尽力も大きかったと思います。
ただ、いっこうに同盟が締結されない状況の中、西郷を一喝し、薩摩側から同盟の話を切り出せたというのは龍馬にしかできなかったことではないでしょか?
龍馬の熱意と行動力が風穴となり、過去に因縁のあった薩摩藩と長州藩を和解へと導いたのです。
次は薩長同盟の長州側の思惑とは?について解説していきますね!
薩長同盟の長州側の思惑とは?
薩長同盟の長州側の思惑として考えられるのは「武器」の入手でした。
なぜかと言うと、「禁門の変」により朝敵になってしまった長州藩は武器の購入が禁じられていたからです。
武器を買うには幕府の許可が必要ですが、朝敵となっている状態では了承してもらえるはずもありません。
国内外から攻撃されて疲弊しきっていた長州藩にとって、武器が入手できないまま再び攻撃を受ければ、藩の存続が危ぶまれます。
それに、倒幕を目指すためにも武器が必要です。
薩長同盟を結べば、龍馬の結成した「亀山社中(のちの海援隊)」の仲介で、薩摩藩名義で大量の武器や蒸気船を購入し、長州に引き渡すという武器購入のためのルートを確保することが約束されていました。
ここでも龍馬の交渉術が活きているのです。
支払いは長州でしたが、武器の購入ができなかった長州にとってこれはありがたいことだったでしょう。
こうして武器が喉から手が出るほど欲しかった長州は薩長同盟を結んだのです。
次は、薩長同盟の目的は倒幕ではなかった?について解説していきますね。
薩長同盟の目的は倒幕ではなかった?
薩長同盟締結後、大政奉還や戊辰戦争が起きたため、薩長同盟の目的は倒幕であったと書かれている書籍などを見かけます。
ですが、この段階で両藩とも思想としては倒幕という考えはあったにせよ、武力倒幕を行動に移すということは考えていなかったようです。
薩長同盟の内容にもあったように、幕府による長州藩処分問題に関して長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、長州に対する朝敵認定を取り消しするために交渉するし、その他にも色々協力しますというものでした。
そして、決戦の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく「橋会桑」(当時京都政局を制圧していた一橋慶喜、会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬)の三者であり、いわゆる一会桑政権であったと言われています。
この時点で薩長が考えていたのは、お互いの協力体制を構築して、藩の力を強化していきましょうというのが目的だったのです。
1866年4月、第二次長州征伐の際、この同盟が結ばれていたため薩摩藩はこれに参加しないという態度を貫きました。
以後薩長の連携関係は深まっていくこととなります。
そして、幕府軍は薩摩不在のまま長州に攻め込み、連戦連敗。
1866年7月には14代将軍・徳川家茂が大坂城で亡くなってしまい、幕府は強引に休戦を推し進めます。
1867年10月15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、明治天皇に政権を返上。
1868年鳥羽伏見の戦いでは、大将である慶喜が大阪から逃げてしまい幕府側の大敗、その後の戊辰戦争でも幕府サイドの藩は薩長を中心とした新政府軍に敗戦を喫していくのです。
薩長同盟締結により薩長が協力したからこそ、このような一連の流れになっていったと考えると、薩長同盟は新時代への一つのターニングポイントだったと言えるでしょう。
最後に薩長同盟についてまとめをしていきますね。
まとめ
薩長同盟についてまとめます。
- 薩長同盟とは1866年(慶応2年)薩摩藩と長州藩との間に結ばれた政治的、軍事的同盟のことをいう
- 薩長同盟締結に関わった中心人物は薩摩藩は西郷隆盛、長州藩は桂小五郎(木戸孝允)、仲介役として坂本龍馬、中岡慎太郎がいた
- 薩長同盟は、薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷で締結された
- 裏書とは桂小五郎の薩長同盟の内容確認の手紙の裏に、坂本龍馬が朱書で返書したもののことをいう
- 坂本龍馬の最後の一押しで、薩長同盟締結に踏み切ることができた
- 長州側の思惑は武器を手に入れることだった
- 薩長同盟の目的は倒幕ではなく、薩長の協力体制の構築だった
まとめてみると少しわかりやすくなったでしょうか?
薩長同盟は締結されるまで紆余曲折あり、坂本龍馬の行動力や交渉術があったからこそ成立まで行き着いたと考えると、坂本龍馬は薩長同盟の立役者と言えるでしょう。
このように、国内外の軋轢が多くあった幕末の時代、江戸幕府の弱体化もあって、幕府の統率力が低下してきていたときに、薩摩と長州が和解し、一致団結して薩長同盟が締結されたのは、日本の新時代の幕開けに大きな役割をもたらした同盟であったと言えます。
薩長同盟締結は、まさに歴史が動いた瞬間だったのです。