今回取り上げるのは、禁門の変です。
八月十八日の政変により政治権力を失った長州藩は、事態打開のために動き始めます。
しかし、この戦いを機に、長州藩はさらにまずい展開に陥ってしまうことになります。
- 禁門の変はどのようにして起こったのか?
- この戦いの主導者のその後は?
- この戦いの際、西郷隆盛は幕府を裏切った?
といった事柄について、特に詳しく見ていきます!
そしてこの戦いの陰で奔走していた、ある秀才の存在とは・・・!?
目次
禁門の変とは?
禁門の変は、1864年に起きた武力衝突で、長州藩が会津藩主である松平容保の排除を目的として挙兵しました。
この背景としてまず注目すべきは、前年の「八月十八日の政変」です。
この政変では、孝明天皇、会津藩、薩摩藩などが、三条実美らの公家と長州藩を京都から追放してしまいます。
この時、長州藩主親子は謹慎を命じられてしまい、長州藩は政治権力を失ってしまいますが、根強い攘夷派の一部が、勢力の立て直しを狙っていたのです。
今回の禁門の変は、そんな長州藩のなかでも急進的な尊王攘夷派が中心となって起こります。
厳しい状況の打開のためには武力が必要であるとした進発論は来島又兵衛や真木保臣といった人物が唱えていましたが、当初は藩内は慎重論に傾いていました。
しかし、公武合体派の多くが京都を離れたことと新選組に長州藩士が殺されたという報が入ると、一気に進発論が優位となります。
そして、三家老であった福原元僴や益田親施、国司親相などの積極派が挙兵を決定し、兵を集めて入京しようとします。
朝廷は退去命令を出しますが、来島や真木らはこれに反対し、ついに挙兵しました。
京都市中は戦火によりかなり損害を受けましたが、戦闘そのものはなんと1日で終わり、長州藩の敗北となりました。
来島は自決し、真木は敗走ののち立て籠もりましたが、仲間の兵とともに火薬に火を放って自爆して果てました。
この戦いでは、長州側が御所に向かって発砲したため、長州藩は朝敵となってしまいます。
その後幕府により2度の長州征討が行われますが、長州藩はその政治的復権を目指してさまざまな動きを展開していくのです。
禁門の変と蛤御門の変は同じ事件?
禁門の変と蛤御門の変は、同一の事件です。
「禁門」とは、禁裏の門のことです。
この戦いの激戦地が御所の御門の周辺だったので、このように名づけられました。
蛤御門は京都御苑の西側にあります。
次の章では、三家老のその後について見ていきます。
三家老の切腹は長州藩が命令した?
前の章で登場しましたが、三家老とは福原元僴・益田親施・国司親相の3人です。
彼らは長州藩の国家老として藩主を支えてきました。
彼らは武力による事態の打開に対して積極的であり、それが禁門の変を引き起こした原因となりました。
この戦いでの敗北に対し3人はそれぞれ責任を負います。
特に国司は、引責の最良の方法を藩主に命じてもらおうと考え、玉砕をせずにあえて帰還しています。
第一次長州征討が終了すると、責任をとるという意味で、長州藩の命により三家老は自害することとなりました。
ちなみに、この3人の自害を長州藩に対して要求したのは、西郷隆盛だったのです。
次の章では、そんな西郷隆盛の、この戦いでの動きを見ていきます。
彼は幕府を裏切ったのだと言われていますが、その真相やいかに・・・!?
禁門の変で西郷隆盛が幕府を裏切った?
禁門の変において重要な役割を果たした人物の一人が、長州藩のライバルともいえる薩摩藩を代表する人物・西郷隆盛です。
幕府としては、この事件に際して薩摩藩には見事長州藩が入京する前に撃退してほしかったわけですね。
しかし、西郷はなんと、徳川慶喜の出兵命令を断り、皇居の守護のみに注力しようという判断をしました!
つまり、幕府を裏切っていたのです!
それでも、いざ皇居周辺で長州軍と幕府軍とが衝突すると、西郷は救援として薩摩兵を派遣して、長州勢の撃退に大きく貢献したのです。
西郷がとったのは、結果的には「中立策」ということになります。
これには、長州だろうが幕府だろうが、朝廷を独占すべきでないとした彼の考えがあったのです。
次の章では、桂小五郎の改名と禁門の変の関係について見ていきます!
桂小五郎の改名は禁門の変と関係がある?
桂小五郎は、明治期には「木戸孝允」として通っている人物ですね。
彼は実は、この禁門の変を契機に改名したのです。
彼は長州藩において、来島や真木とは対照的に、慎重論を唱えていました。
その後戦闘が始まると、獅子奮迅の活躍を見せるのですが、会津藩などによる長州藩の残党狩りから逃れるため、潜伏生活を始めました。
桂は、幕府から指名手配されることとなります。
そんな折、長州藩の藩論は倒幕に傾いてきて、高杉晋作によって彼は長州藩の統率者として迎えられます。
この状況下で、長州藩主である毛利敬親により、桂は「木戸」の姓を与えます。
これは、幕府から指名手配とされている桂を、藩の代表者に据えるわけにはいかなかったからです。
つまり、禁門の変を契機として、桂は名字を改めざるを得なかった、と言えるでしょう。
ちなみに、彼は幕府の手を逃れるため、10以上の名前を使っていたとも言われています!
次の章では、当時の長州藩きっての秀才であった、久坂玄瑞という人物について見ていきます!
禁門の変で自害を遂げた久坂玄瑞ってどんな人?
久坂玄瑞は、松下村塾に入塾した吉田松陰の門下生であり、長州を代表する秀才とされていました。
1859年の安政の大獄により、師匠である松陰が刑死したのち、彼は松下村塾生や水戸藩士らと結束を高めて尊王攘夷運動を開始します。
それでは、彼は禁門の変の前後にはどのような動きをしていたのかについて見ていきます。
彼は当初、桂小五郎や高杉晋作らとともに、長州藩の勢力回復のためには慎重な行動をとるべきだと主張し、来島又兵衛やらの進発論を抑制していました。
しかし、公武合体派が京都を離れた際、これを好機ととらえ、彼は進発論に傾いていき、来島たちと出兵を行います。
このまま一気に開戦を望むのかと思いきや、朝廷からの退去命令を受けることで、彼の戦意は変化します。
すぐに進撃を開始しても援軍も得られないと見込まれ、そもそも藩主の無実を示すために行動しているのだから自分たちから戦闘を開始するのは本来の志ではない、というのが彼の主張でした。
つまり、彼は慎重論と進発論に揺れることはあっても、君主の無実の罪を晴らす、という本来の目的を果たすために、最善を尽くしてきたと言えるでしょう!
しかし、開戦にはやる来島はそんな彼を卑怯だとし、真木保臣も来島に同意したことで、彼はやむなく参戦します。
彼はこの戦いで、自害して果てました。
彼の優秀さは、各地の著名人にも知れ渡っていたようです。
高杉晋作は彼を「天下の奇傑」と呼び、中岡慎太郎は「第一卓見なる者を久坂玄瑞と云う」と表現しています。
まとめ
それでは、もう一度禁門の変について振り返ってみましょう。
禁門の変(別名蛤御門の変)は1864年に起きた戦いで、長州藩が会津藩主・松平容保の排除を目的として挙兵しました。
当時長州藩は政治権力を実質奪われており、その勢力回復も狙っていました。
進発論を唱える来島又兵衛や真木保臣、そして三家老などの意向で開戦をしますが、1日で決着し、長州藩が敗北しました。
この戦いにより長州藩は、朝廷に楯突いたとして「朝敵」となり、長州征討が行われることとなります。
三家老は禁門の変と長州征討の責任をとり、藩の命により自害しました。
また、この禁門の変では、薩摩藩の西郷隆盛が中立策をとっており、幕府からの即時出兵の命を断ったという点で、幕府を裏切っていましたね。
桂小五郎は、禁門の変ののちに藩の代表者として扱われることになりますが、幕府から指名手配されていたことが考慮され、藩主・毛利敬親により「木戸」姓を与えられ、改名しました。
また、禁門の変で自害を遂げた久坂玄瑞という人物は、当時著名な秀才であり、藩主の無実の罪を晴らすために奔走していた人物でした。
長州藩がこの難局をどう切り抜けていくのか、そして他の雄藩がどのような動きをしていくのか、今後の展開にもご注目ください!