尊王攘夷とは?中心人物や尊皇攘夷運動をわかりやすく解説!反対派についても

幕末から明治維新にかけて志士たちの間で一世を風靡した『尊王攘夷(そんのうじょうい)』。

 

『尊王』すなわち君主ないし天皇を尊び、『攘夷』すなわち異人、つまり外国人を追い払えというもの。

 

このような考え方を持つ人間たちが、のちに倒幕へと傾き、そして明治維新の中心人物になっていくのですが、

 

  • なぜ、このような考え方が起こったのか!?またその意味は!!?
  • なぜ攘夷が倒幕にすり替わったのか!?
  • 中心人物は!?
  • なぜ公武合体と相容れなかったのか!?

 

詳しく解説していきたいと思います!

尊王攘夷とは?

『尊王』とは、もともと幕府が支配するうえで取り入れていた儒教の思想から来たもの。

 

王をトップとし、仁徳による統治を『王道(おうどう)』、その統治による王を『王者(おうじゃ)』。

これに対して、王以外の人間が武力や策略等の力技や寝技で支配していく統治を『覇道(はどう)』、覇道によりトップについたものを『覇者(はしゃ)』といいます。

 

覇道・覇者を排除して王道・王者による統治を進めていくのが、儒教における尊王というものでした。

 

江戸幕府は統治手段として儒教の思想を使っていましたが、そもそも武士同士の争いで天下を取った江戸幕府は『覇者』そのものであり、大きな矛盾が生じていました。

 

しかし江戸幕府のトップである征夷大将軍が天皇名義で渡されていることや、3代将軍徳川家光が天皇の親戚になっていること、および幕府の支配が安定していることも相まって、おおむね享保の改革のころまでは幕府の権威は保たれていたのです。

 

しかし、5代将軍綱吉のころ、水戸黄門で有名な徳川光圀(とくがわみつくに)が『大日本史(だいにほんし)』を編纂したことが、尊王論の遠因になります。

 

この史書は、日本神話の時代に生きている最初の天皇『神武天皇(じんむてんのう)』の歴史から始まり、日本書紀の中に書かれているエピソードも混ぜながら、最後は

『事情あって幕府が天皇に政治を任される形で統治しているが、本来は天皇こそがトップとして天下を支配するべきなのだ』という形でまとまっています。

 

また、8代将軍吉宗以降、飢饉(ききん。食糧不足)続きで、当時は飢饉等の自然災害は、主君の徳がないから起こると思われていたこともあって、幕府の支配に疑問を抱く人間が増えてきます。

特に幕府が奨励していた儒学の頼りなさを批判する人間が増え、日本古来の文化を研究する人間が増えます。

 

仏教や儒教が生まれる前の日本人の考え方を研究しようとする『国学(こくがく)』が、本居宣長(もとおりのりなが)を中心に進み、地主や町人に広まっていきます。

これがやがて日本の八百万の神々を崇拝するという『神道(しんどう。日本古来の神々を崇拝するという宗教で、今の護国神社も神道)』と結びつき、これが熟して尊王論に結びついていきます。

 

光圀の大日本史や、国学、神道がないまぜになった儒教思想は『水戸学(みとがく)』と呼ばれるようになりました。

特に大日本史を編纂した光圀の子孫である徳川斉昭(とくがわなりあき。江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の父)は、水戸に弘道館(こうどうかん)を建て、水戸藩士に水戸学を広めていきます。

 

幕末の尊王論は、儒学・国学が混ざった水戸学の考えの結晶といえましょう。

特にその中の『敬天愛人(けいてんあいじん。天を敬い人を愛するという考え方)』という考えは吉田松陰や西郷隆盛に大きな感銘を与え、維新の原動力となっていきます。

 

かたや外国人、つまり『異人』を追い払うという、『攘夷』。

もともとこれは、儒教における『中華思想(ちゅうかしそう)』がもと。

 

すなわち、自分たちの国が一番豊かで文明的で、それ以外の者は皆貧しく野蛮なものとする考え方。

一種のナショナリズムというべきものですが、それで今の中国も『「中華」人民共和国』と名乗っているわけです。

 

日本における攘夷の考え方は、それまで江戸幕府の下で禁止されてきたキリスト教が、外国人によって入ってくるのを恐れたためであるとも考えられております。

 

『神のもとに人間皆平等』というキリスト教の考え方が、『士農工商』をはじめ人々の身分を固定して秩序を守ろうとする封建社会の妨げになるというのが大きな原因でした。

 

やがて国学の発展によって中華思想が濃くなり、同時に強大な武力を背景に幕府が諸外国と不平等条約を結んだことから、攘夷論が強くなっていくのです。

 

次に、その意味についてみていきます。

尊皇攘夷の意味は?

井伊直弼
井伊直弼

元々尊王攘夷運動は、桜田門外の変において暗殺された井伊直弼の独断専行に対する反発によって起きたものです。

 

まず、当時の天皇であった孝明天皇(こうめい)の意向を無視して、13代将軍徳川家定の跡継ぎを一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。のちの幕府15代将軍徳川慶喜)ではなく、徳川慶福(とくがわよしとみ。後の14代将軍徳川家茂)に決めたこと。

 

次に、外国人嫌いの孝明天皇の意向に反し、外国の圧力に負けて不平等条約である日米修好通商条約を結んでしまいます。

 

つまり当初は、直弼のスタンドプレーの連発に対する大きな反発を、天皇を神輿にする形で大きく盛り上げたのが、『尊王攘夷運動』といえましょう。

 

直弼は尊王攘夷を合言葉に自身を批判する志士たちを、安政の大獄で力づくで弾圧しようとしますが、桜田門外の変で反発した彼らに暗殺され、失敗に終わります。

 

しかしながら彼らもまた、外国の使者を暗殺したことなどが原因で怒った外国の、最新式の武力に自分たちが完敗していくのを見て、今のままでは攘夷は難しいと考えるようになり、

「天皇の言うとおり、幕府も諸藩も一致団結して、外国の技術を取り入れつつ外国に対抗しないといけない」と考えるようになります。

 

ですが、実現するうえで無能な癖、保守的な幕府という壁にぶち当たり、倒幕に傾いていきます。

 

次に、倒幕の意味についてみていきます。

倒幕とは?

勝 海舟
勝 海舟(出典:ウィキペディア

文字通り『幕府を倒す』という意味で、尊王攘夷思想を持つ志士たちが、やがて倒幕の主力となっていくのです。

 

しかし先ほど述べたように尊王攘夷とは、『天皇をたっとび外国を打ち払う』ものであって、幕府と両立できるスローガンではありました。

つまり幕府を倒す必要など全くなかったのです。

 

実は、当初薩摩藩は公武合体(こうぶがったい。後で説明します)論者であり、土佐や長州もあくまで『尊王攘夷』論者で、倒幕しようなどとは全く考えていませんでした。

 

ところが、禁門の変以降、天皇の命令が「幕府と力のある藩、つまり雄藩(ゆうはん)が協力して攘夷してほしい」と言い換えると幕府と雄藩が対等な関係で協力してほしいと求めているにもかかわらず、幕府高官たちは、徳川と自分の立場しか考えられないという状態でした。

 

それより前に咸臨丸(かんりんまる)で欧米の状況を見てきた勝海舟榎本武揚といった面々が帰国。

勝達留学生は、薩摩からも幕府からも来ていてばらばらだったのですが、それでは『お国はどこですか』と聞かれたときに都合が悪いので、『日本』という言い方で統一してきたといいます。

つまりこの時点で勝達の中には、幕府や薩摩といった観点よりもっと大きい、『日本』という概念が出来上がっていたようです。

 

外国に対抗するために、自ら軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう。軍艦や海軍を管理する役職)となり、神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)を開いて西洋式の武力を取り入れ、外国の力に対抗しようとした彼ですが、操練所に長州などの反幕府勢力に同情する人間が多かったということで、禁門の変をきっかけにお役御免となり、神戸海軍操練所も閉鎖されます。

 

幕臣は視野が狭すぎる。

幕府も諸藩と一致団結して『日本チーム』として外国に対抗する必要があるのに、幕府は力がない癖自分の立場を守ることに汲々としていて、コップの中の争いを繰り返している。

 

このような考えの中、勝は2年間の謹慎生活の中で、幕府に対し何の期待もしなくなりました。

 

もともと勝は、当時の幕府高官の多くを占めていた由緒正しい家柄ではなく、祖父の代に幕臣の身分を金で買った『金上げ侍(かねあげざむらい)』なだけに、旧来の幕臣にはない視点もあり、また、由緒正しい家柄でふんぞり返っていた輩に対し冷めた目線もありました。

 

これが、欧米を留学して「幕府には人がおらず、外国にも無力な癖、旧来の権威だけでトップに立とうとしている」という思いに拍車をかけたと取れましょう。

これがやがて、彼と親しかった西郷隆盛や、彼の弟子であった坂本龍馬をも刺激します。

 

「外国にも弱腰で無力なのに、自分たちには下であることを求める幕府。

このような人間がいては『日本チーム』として一致団結ができない。

260年も続いた幕府と旧体制を一掃すべきだ

 

という方向に考えが傾き、やがて薩長同盟を皮切りに倒幕へと傾きます。

 

次に、そのような人物についてみていきます。

尊王攘夷派の藩や人物は?

まずは水戸学が盛んであった水戸藩についてみていきます。

 

・水戸藩

『水戸の3ぽい』、つまり、『理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽい』とされた水戸の人間達の中から尊王攘夷派が真っ先に出てきました。

(このエネルギッシュさは、今日でもサッカーチーム・鹿島アントラーズのサポーターに受け継がれていると考える人もいます。)

 

・徳川斉昭(とくがわ なりあき)

徳川光圀の子孫で、御三家でありながら貧しかった財政を立て直し、雄藩としての力をつける一方、水戸学を弘道館(こうどうかん)等の学校で広め、尊王攘夷志士たちを育成します。

 

家定の跡継ぎには慶喜を押し、不平等条約の締結にも反対だったのですが、これが直弼の不興を買ってしまう羽目になり、安政の大獄で永蟄居(えいちっきょ。無期の自宅謹慎)処分。

桜田門外の変の翌年に、そのストレスでなくなります。

 

・金子孫二郎(かねこ まごじろう)

桜田門外の変の首謀者。

 

徳川斉昭のもとで郡代(ぐんだい)として年貢(ねんぐ。米による税金)による収入を安定させ、水戸藩の財政を立て直します。

 

また、斉昭とともに慶喜を押し、外国との不平等条約も破棄するようにと直弼を批判していました。

が、直弼が安政の大獄で斉昭を永蟄居の刑にするとついに不満を爆発。

十九人の下手人を招き入れて桜田門外の変を起こし、見事直弼を討ち取ることに成功。

 

しかし幕府の追手からは逃れられず、翌年に処刑されます。

水戸藩は桜田門外の変等であからさまなテロを行い、それによって数多くの人間が処刑され、人材が枯渇した水戸藩は倒幕・維新の中枢から外れていきます。

 

・長州藩

水戸藩と同じ幕末で財政を立て直した藩である長州にも、尊王攘夷志士が多く出ます。

実はもともと長州藩は、関ヶ原の戦いで西軍に与して徳川家康に抗い、領地を半分以下に減らされた毛利家の子孫であり、その時の恨みもあって倒幕に傾くのは比較的早かったといわれています。

 

・吉田松陰(よしだしょういん)

ご存知松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾頭であり、幕末や明治維新の考え方に大きな影響を与えた人物。

特に『敬天愛人(けいてんあいじん)』というフレーズを合言葉にしていたといわれます。

 

わずか9歳で明倫館(めいりんかん。水戸の講道館と同じ日本三大学府の一つ。)の師範(しはん。先生)になったほか、13歳には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅の演習を実施。

 

江戸時代の軍学にも詳しかったのですが、中国の清(しん)がアヘン戦争でイギリスに大敗したことを知ると、江戸時代の軍学が時代遅れであることをいち早く察知。

 

西洋軍学を学ぶため、長崎、江戸と行き、江戸にて師匠の佐久間象山(さくましょうざん)と出会います。

象山は『東洋道徳西洋芸術(とうようどうとくせいようげいじゅつ)』という持論の持ち主でした。

すなわち、『倫理観は日本や東洋の精神で、技術力や兵力は西洋のものを取り入れるように』という持論で、これがのちの明治政府の『和魂洋才(わこんようさい)』という形で受け継がれます。

 

彼に感化されたことや、1853年のペリー来航における黒船を見てその技術力の差に衝撃を受けた松陰は、

 

「やみくもに西洋の文化を受け入れるのでも、日本という殻に閉じこもるようでもいけない。

まずは速やかに開国し、西洋の技術と軍事力を吸収するだけ吸収し、諸外国に相対できる実力を持ったところで初めて攘夷に踏み切るべきだ」

 

という考えを持つようになっていきます。

 

当初は帰国しようとするペリーの黒船に乗り込んで、一緒にアメリカに行って現場を見ようとするも失敗し、許可なく日本から出ようとしたということで投獄。

その3年後に実家に戻り、松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞といった面々を教育します。

それは一方的に教えるものではなく、弟子が松陰と討論したり、登山や水泳なども行う『生きた学問』であったといわれています。

 

1858年に不平等条約である日米修好通商条約が締結されるとこれに反発。

井伊直弼の側近であった老中・間部詮勝(まなべあきかつ)に抗議、それが受け入れられなければ討ち取るという事実上の老中暗殺計画を出します。

 

しかしながら安政の大獄において投獄され、そこで仲間を守るために暗殺計画を進んで言ってしまったため、1859年11月21日に処刑されることになりました。

30歳でした。

 

・久坂玄瑞(くさか げんずい)

藩の医者の子として生まれたのですが、黒船の恐怖に刺激され、いち早く攘夷論に傾きます。

とはいえ血気盛んな反面、猪突猛進な点が多く、外国の要人を元寇の時のようにいち早く斬って相手を挑発し、人々の目を覚まさせるべきだという持論の持ち主。

 

「西洋と不平等条約を結んでしまった以上、まずは西洋の文明を取り入れ、国力が対等になった時に攘夷に踏み切るべき」

という持論の松陰と、手紙を通じて侃々諤々(かんかんがくがく)の争いをした後、松下村塾に入ります。

 

松陰は久坂を高く評価していたようで、久坂は高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)とともに『松下村塾四天王(しょうかそんじゅくしてんのう)』と呼ばれ、さらに松陰の妹・杉文(すぎふみ。のちの楫取美和子(かとりみわこ))を久坂に嫁がせます。

 

松陰の死後は彼の遺志を継いで攘夷に傾き、長州藩が公武合体に傾いた時には桂小五郎のほか、土佐の武市半平太(たけちはんぺいた。このとき彼の手紙を送ったのが坂本龍馬といわれます)、薩摩の西郷隆盛と談義をしながら抗議し、長州藩を攘夷論者に変更させます。

 

その一方、品川に合ったイギリスの公使館焼き討ち等、力技に等しいテロ行為も行うようになり、さらに外国船を撃破するため、のちに奇兵隊となる『光明寺党(こうみょうじとう)』を結成します。

 

主に朝廷においても三条実美(さんじょうさねとみ)を中心に裏工作を行うようになりますが、それを警戒した幕府は、会津藩や薩摩藩と手を組み、長州派の一掃を行います。

 

1863年8月18日に行われたこのクーデターは『八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)』と呼ばれ、実美ら長州派の公家は追放。長州藩は朝廷の警護ができなくなりました。

 

長州藩の一部は、『武力を持って上京し、長州藩の無実を訴える』という武断派の持論を持っていましたが、当初久坂は桂小五郎と共に、必死にこの持論を抑えていました。

 

ところが、池田屋事件によって仲間の吉田稔麿が新選組によって討ち取られたのをきっかけに武断派の不満が爆発、久坂も武断派につかざるを得なくなり、1864年8月20日、禁門の変(きんもんのへん)が勃発。

 

しかしながらこの武力クーデターは世間の同情を引かず、長州藩側も考えがバラバラ、2000人の自軍に対して幕府や薩摩、会津などの連合軍は20000人、あえなく敗退します。

 

最後の力を振り絞って天皇の補佐役である関白(かんぱく)・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)に長州の無実を訴えようとしますが、鷹司の屋敷がこの戦いで焼けたこともあって拒絶されます。

 

関白に拒絶された=天皇に拒絶された、ということであり、絶望した久坂はその場で自害して果てました。

25歳でした。

(ちなみにこの時、仲間の入江も戦死しており、四天王で残ったのは高杉だけとなります)

 

・高杉晋作(たかすぎしんさく)

1852年に藩校の明倫館に入った後、1857年に松下村塾に入塾。

 

四天王と呼ばれ、剣は柳生新陰流(やなぎゅうしんかげりゅう)免許皆伝、1858年には江戸に行き、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ。のちの東京大学や筑波大学の前身)で学びますが、翌年に松陰が安政の大獄でとらえられると、獄中の松陰の世話をし、藩からの命令で長州藩に戻る途中の10月、松陰は処刑。

彼の遺志を継ぎ、外国にわたる決意をします。

 

1862年に薩摩の五代友厚(ごだいともあつ)とともに長崎を経由する形で上海に行き、アヘン戦争に敗れた中国の清が欧米の植民地化されていく様や、それに反発して起きた太平天国の乱を見つつ、日本が清のようにならないことを期待して帰国。

 

1863年に起きた下関戦争(しものせきせんそう)で長州が諸外国に惨敗した折、高杉は下関の防衛を任されつつ奇兵隊を結成します。

 

しかし1863年に八月十八日の政変で長州藩と彼らを推薦する公家が朝廷から遠ざけられた後、1864年7月には禁門の変で仲間の久坂が自害。

 

長州藩は孝明天皇から朝敵(ちょうてき。朝廷に刃向かう悪者・賊軍のレッテルを張られる)とみなされ、ピンチに陥ります。

 

8月には長州がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊に敗れた後、高杉は和平交渉の役を任されますが、この時に長州藩の植民地化を拒絶することに成功。

長州は外国の領地にならずに済みます。

 

そして、朝敵の汚名を着せられた長州藩が1864年に幕府に征伐されそうになると、自身の正義を証明するため幕府と一戦しようとしますが、保守派の圧力に負けて10月に福岡に逃れます。

しかし自分が作った奇兵隊が集まったことを知ると、ついに保守派に対しクーデターを起こし排除。

藩の実権を握ります。

 

1866年に高杉ら尊皇派が長州藩の実権を握ったことを知った幕府は、再び長州征伐に乗り出しますが、これより前、坂本龍馬の仲介によって薩長同盟がひそかに結ばれていました。

 

薩摩の経済力と外国産の武器を手にした長州藩は、幕府と一戦。

数で圧倒的に劣るにもかかわらず、最新式の兵器を手にした長州はついに勝利。

 

折に江戸幕府14代将軍徳川家茂が死去したこともあって、圧倒的な数の幕府はついに負けを認めて長州から撤退。

幕府の力はさらに弱まり、大政奉還へとつながることになります。

 

しかしこの時、高杉は日ごろのだらしない生活がたたって、当時不治の病である肺結核にむしばまれていました。

そして1867年5月17日に死去。

享年29歳。

 

辞世の句は、「面白きこともなき世を面白く」

下の句のないこの句は、高杉の太く短い人生を一言で表したといえましょう。

 

・土佐藩

土佐勤王党(とさきんのうとう)を立ち上げた武市半平太こと武市瑞山をはじめ、土佐にも尊王攘夷志士が現れますが、瑞山の切腹によって土佐の尊王攘夷派は事実上壊滅。

 

以降は乾退助(いぬいたいすけ。のちの板垣退助)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)といった公武合体派が力を増していき、特にこの2人は明治維新において重要な役職を務めるようになります。

 

ちなみに坂本龍馬は勤王党に加盟しましたがすぐさま脱藩(だっぱん。藩主の許可なく班を出ていくことで、浪人になる上に重罪)し、開国派で幕臣の勝海舟に弟子入りしてしまいます。

 

また、『幕末四大人斬り』の一人と呼ばれた岡田以蔵(おかだいぞう)は、のちに龍馬の世話で勝のボディーガードを務めたこともあったので、この2人は尊王攘夷派の部類から外します。

 

・武市瑞山(たけち ずいざん。『半平太(はんぺいた)』の名で知られます)

小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)の免許皆伝を授かった後、故郷で道場を開き、120人の門弟を集め、これが土佐勤皇党の母体となります。

 

安政の大獄によって藩主・山内容堂(やまうちようどう)が井伊直弼によって隠居させられた時には激しく怒り、のちに桜田門外の変によって直弼が暗殺されたときには感激し、暗殺者を忠臣蔵の赤穂義士になぞらえております。

 

特に長州の久坂、および彼の師匠である松陰に心酔した武市は、彼らに遅れてはならじと1861年8月に土佐勤皇党を結成。

坂本龍馬を筆頭に、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、岡田以蔵など192人が集まります。

 

武市はまず、当時容堂に代わって土佐藩の政治改革をしていた吉田東洋(よしだとうよう)と直に会って必死に議論をするのですが、経済重視の東洋はむしろ開国派で、まったく聞き入れてもらえませんでした。

 

東洋を憎む保守派のそそのかしも相まって、武市はついに東洋暗殺を決意。

1862年に4月8日、勤皇党員を下手人として東洋暗殺に成功、『藩政改革の名目で民衆を苦しめ、外国人の侵略を許そうとした極悪人』として、その首を罪人としてさらします。

 

これ以降土佐藩は尊王派となり、武市はその中心人物として容堂とも謁見しながら、主に朝廷相手に意見書である『建白書(けんぱくしょ)』を送ります。

この中には『江戸幕府を廃止する王政復古』など、時代に先んじたものが少なくなかったといわれます。

 

その一方で勤王党員、特に岡田以蔵を使って安政の大獄で志士たちをとらえた者たちや、幕府の人間を『天誅(てんちゅう。天に代わって罰を与えるという正義の意思表示)』の名のもとに次々と殺害します。

 

(現代で言うとオウム真理教(現・アレフ)の『ポア(チベット語の「ポーワ(生まれ変わる)」から来ていて、悪事を働かせる前に生まれ変わらせるという意味)』みたいなものでしょうか)

 

しかし実際は容堂は武市を快く思ってなかったようで、八月十八日の政変後、尊王攘夷派が朝廷内から衰退する中で武市ら土佐勤皇党の逮捕状を出します。

 

1863年9月21日に投獄された武市は、長い拷問と獄中生活に、仲間とともに耐えきって口を開きませんでしたが、翌年4月に天誅の下手人として使っていた岡田以蔵ら4人が捕らえられ、自白を繰り返したことによって状況は一気に悪化。

 

この時に武市が保身のために以蔵の毒殺を図ったエピソードは有名ですが、近年では作り話という説が有力で、以蔵に毒の入った食べ物が贈られたこともなかったようです。

 

以蔵達による自白があったものの、武市自身は口を開かなかったので、しびれを切らした容堂は1865年閏5月11日、彼自身の名義で『主君に対する不敬行為』という罪で武市に切腹を命じます。

 

自白した以蔵ら4人は、その日に罪人として打ち首。

そして武市もまた、身を清めて、それまで誰もできなかったとされる『三文字に腹を裂く』というやり口で切腹を遂げました。

37歳。

 

武市の切腹後、代わって土佐藩を動かすことになったのは、皮肉にも彼の敵だった吉田東洋の教え子である、乾退助、後藤象二郎、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)といった『新おこぜ組』でありました。

 

つまり東洋の教え子が土佐藩を支配し、明治維新においても重要な役職に就くのです。

 

・薩摩藩

有馬新七をはじめ尊王攘夷派がやはりいましたが、やはり寺田屋事件(てらだやじけん)において事実上壊滅。

 

この後は西郷隆盛をはじめ、長州などと敵対する公武合体派が主流となりますが、やがて幕臣の勝の影響もあって幕府に失望し、薩長同盟を機に倒幕へと傾きます。

 

・有馬新七(ありま しんしち)

勝海舟も極めた直心影流(じきしんかげりゅう)免許皆伝、朱子学においてもその人ありと言われた秀才で、文武両道でした。

 

桜田門外の変においては水戸藩の暗殺者に加盟しようとしましたが、薩摩藩の同意が得られなかったため身を引きます。

 

薩摩の石谷村(いしたにむら。後の鹿児島市石谷町)を支配したこともありましたが、過激な尊王攘夷活動を続けてきた結果、薩摩藩主・島津久光(しまづひさみつ)の逆鱗に触れてしまいます。

 

寺田屋において攘夷活動の相談をしていたところ、久光の命を受けた者たちに『上位討ち(じょういうち。主君の命令に従わぬものを成敗すること)』として処刑されます。

 

次に、公武合体について語っていきます。

尊皇攘夷の反対派、公武合体とは?

公武合体とは、朝廷である『公』と、幕府すなわち『武』を接近させ、朝廷と幕府を親密にし、かつそれぞれの立ち位置を再認識させようという、尊王攘夷派に対する妥協案でした。

 

しかしながら幕府の立場を守るためのデモンストレーションとみられていき、尊王攘夷運動は逆に激化していきます。

 

次に、主な尊王攘夷運動についてみていきます。

主な尊王攘夷運動

当初の尊王攘夷運動は、以蔵の天誅や、数々の外国人襲撃事件のように、開国派の人間や外国人を暗殺するというものでした。

 

しかしながらこれに怒った外国や公武合体派の人間の制裁を食らって、暗殺という形では行わなくなりました。

代わりに捲土重来(けんどちょうらい。一度敗れたものが力をつけて戻ること)を誓って西洋の技術を導入し、幕府や諸藩と一致団結する形で外国に対抗しようとします。

そこで保身に走る幕府を見て、倒幕へと傾きます。

 

代表的な十津川の変(とつかわのへん)、生野の変(いくののへん)、禁門の変(きんもんのへん)とみていきます。

十津川の変

天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)とも呼ばれるこの運動。

土佐勤皇党の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)を中心に結成された天誅組(てんちゅうぐみ)によって、1862年に大和国(やまとのこく。現代の奈良県で、天皇一族が誕生した場所として有名)起こされた乱です。

 

実はこの乱は、尊王攘夷派の幕府に対する挙兵という点では初めてで、短期間で静まったものの、代官の屋敷が堂々と襲撃されたことは幕府や諸大名に衝撃を与え、幕府の力をさらに弱めることになるのです。

 

もともと寅太郎は武士ではなく、名字帯刀(みょうじたいとう。武士でない身分だが名字を名乗ることと刀を差すことを許された者)を許された庄屋の生まれでしたが、武市半平太が土佐勤皇党を結成すると真っ先に加盟。

 

しかし血気盛んな彼は、少人数でも幕府を突き動かして、少人数でも上位を行おうという持論の持ち主であり、藩が一致団結して尊王攘夷を行うべきとする武市とは相いれませんでした。

 

やむなく彼は少数の仲間とともに土佐を脱藩。

途中寺田屋事件に巻き込まれ、土佐に戻されもしましたが、再び脱藩して再起を図っていました。

 

そんなおり、1862年8月に孝明天皇が最初の天皇である神武天皇(じんむてんのう)の墓を参拝する命令を発します。

しかしそこは、幕府の直轄地。

天皇のおひざ元である神武天皇の墓が覇者である幕府の領になっているのはおかしいと考えた寅太郎は、幕府から墓を天皇のもとに奪還しようと考えます。

 

そして8月15日に仲間と天誅組を結成した寅太郎は17日、五条にあった代官の屋敷を襲撃。

天誅という名目で代官を殺害し、その首を罪人としてさらし、さらにはこの地が天皇の直営地となったとして、年貢半減を宣伝します。

 

しかしながらこれだけでは世間の共感は集められず、しかも翌年1863年の8月18日、八月十八日の政変が起こり、尊王攘夷派の公卿や長州藩といった面々が失脚・追放となり、天誅組を暴徒として追討する命令が下されます。

 

やむなく天誅組は1000人のその土地の下級武士を集めて迎え撃つ決意を固めますが、半ば強引に集めるやり方も相まって、脱走者が続出。

結局幕府ら14000人の数で勝る軍に敗北。

9月27日に寅太郎自身も銃殺され、ここに天誅組は壊滅します。

 

計画はせっかちかつ粗大だったものの、脱藩浪人に代官があっさり討ち取られたという事実は尊王攘夷派にも幕府にも影響を与え、以下に話す生野の変につながっていきます。

生野の変

福岡藩を脱藩した平野国臣(ひらのくにおみ)が、十津川の変(天誅組の変)に影響されて1863年に但馬国生野(たじまのこくいくの。現代の兵庫県朝来市生野町)で起こした乱のことです。

 

天誅組の乱に共感した国臣は、8月19日に彼らと会って意気投合しますが、翌月に天誅組は壊滅。

このことも相まって、どちらかというと国臣は穏健派でしたが、武断派の仲間に押されて武力蜂起を決意します。

 

もともと幕府直営の領だった生野は、生野銀山(いくのぎんざん)が有名ですが、幕末ではあらかた掘りつくされ銀は出ず、人々の生活は困窮していました。

 

人々の不満に付け込んだ国臣は、農民こそが自ら武器を取って攘夷すべきという『農兵論(のうへいろん)』の意見が強かったことも利用して、武断派の仲間に流されながらも2000人の農民を集めます。

そして10月12日に挙兵。

 

生野の代官が出張中だったことや、幕府領は領地が広いわりに警護が手薄だったことも相まって、代官所は無抵抗で明け渡されます。

このエピソードがまた、幕府の力のなさを知らしめる一因となります。

 

しかし天誅組の変直後ということもあって幕府の動きは早く、幕府の命をうけた姫路藩ら1900人が動いたと聞いた反乱軍は動揺。

13日に主将の澤宣嘉(さわのぶよし)が逃げ出してしまったため、だまされたと思った配下の農民は『偽浪士』と志士たちを攻撃。

 

幹部が農民に殺されたり自害したりする中、国臣は再起を図ろうと鳥取に向かいますが捕らえられ、京の六角獄舎(ろっかくごくしゃ)に送られます。

そして、これから話す禁門の変における火災において、脱獄の危険性があるということで、国臣は打ち首となりました。

禁門の変

1864年8月20日におき、『蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)』と呼ばれたこの事件は、尊王攘夷派であった長州が、公武合体派で会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)の失脚と勢力を取り返すために武力衝突を起こした事件です。

 

天皇のおひざ元で戦が行われたのは異例で、この戦いで300万戸の家が燃えたと伝わります。

前の年の八月十八日の政変で親長州派の公家とともに朝廷の中枢から追放された長州藩。

 

こののちに幕府と朝廷で諸外国の貿易拠点となっていた横浜港を閉鎖するという形で合意していましたが、横浜港は閉鎖されず、そのことも相まって長州藩では不満が高まり、来島又兵衛(きじままたべえ)や久留米藩脱藩の真木保臣(まきやすおみ。一般的には真木和泉(まきいずみ)の名で知られる)を中心に武力で長州の無実を訴えようとする人間が出てきましたが、久坂玄瑞や桂小五郎といった穏健派が必死に押しとどめます。

 

しかし、1864年6月5日におきた池田屋事件で、彼らの仲間で松下村塾四天王と呼ばれた吉田稔麿が、会津藩の配下にあった新選組に討ち取られると、ついに来島達過激派の不満が爆発。

藩論も一気に武力派に傾き、「長州藩の無実を朝廷に訴える」という目的で京都に進軍します。

 

この時朝廷を守護する役回りを負っていた一橋慶喜は水戸藩の人間で、同じ尊王攘夷の考えを持つ長州藩に強く共感していたのですが、松平容保と親しかった孝明天皇の命令を受けて、長州征伐を決意します。

久坂は朝廷の退去命令に従おうとしたのですが、来島達に押されてやむなく挙兵します。

 

8月19日に御所周辺である京都蛤御門(現在の京都市上京区)で長州藩と会津・桑名藩が激突。

会津・桑名藩に西郷隆盛が指揮する薩摩藩が加わると数の差が圧倒的になり、現場を指揮していた来島も銃撃で負傷し、自害します。

 

久坂は長州の無実を訴えようと、関白の鷹司邸に訴えようとしましたが、京の街を火の海にされた恨みから鷹司は久坂を拒絶。

絶望した久坂は自害します。

 

長州勢は長州藩屋敷に火を放ち敗走。

これによって起きた『どんどん焼き』は京都東本願寺をも焼きつくす大火災となりました。

 

強硬派の真木は天王山で残党と合流し、17人で立てこもった後、21日に会津藩と新選組に取り囲まれ、火薬に火を放って自爆します。

 

これ以降、長州は朝敵となりますが、尊王攘夷の急先鋒として長州は注目されることになります。

まとめ

  • 元々武士同士の争いで天下を取った『覇者』である江戸幕府が覇道覇者を排除する儒教を奨励していたという矛盾
  • 天災や財政難で幕府の力が弱まってきたのを背景に、大日本史、国学、神道がないまぜになった『水戸学』が下級武士の知識と思想の主流になったこと
  • ペリー来航をきっかけに諸外国に無力な幕府が不平等条約を結ばされ、人々の生活が苦しくなったがゆえに、その考えと活動が爆発したということ

 

これが、尊王攘夷が幕末で大いに流行った理由といえましょう。

 

当初がむしゃらに外国人を打ち払おうと考えていた尊王攘夷志士たちも、諸外国の圧倒的な武力を知り、幕府と諸藩で一致団結しつつ、臥薪嘗胆(がしんしょうたん。将来の成功のために屈辱に耐えること)でいったん西洋の技術を取り入れてからの攘夷という妥協案と傾いていきます。

 

しかしながらそのうえで自分達だけの立場を守ることに汲々としていた幕府に失望した彼らは、その血気盛んさから倒幕の原動力となり、ついに幕府と旧体制を一掃することに成功。

 

これがやがて明治維新の原動力となり、『和魂洋才』の考えのもと、西洋の技術力と自前の精神によって、急速な近代化、そして清とロシアといった強国への勝利へとつながっていくのです。

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