島津斉彬の死因や子孫と家系図について!経歴や生涯と西郷隆盛との関係も解説

今回解説していくのは薩摩藩を近代化に導いた島津斉彬

 

彼がいたからこそ西郷隆盛大久保利通が活躍できるようになったと言われるほど屈指の名君として知られていますが、今回はそんな彼について

  • 島津斉彬の急死の真相
  • 島津斉彬の生涯
  • 島津斉彬の生まれと家紋
  • 島津斉彬と西郷隆盛などの関係
  • 島津斉彬ゆかりの地について

 

など詳しく解説していきたいと思います。

島津斉彬の死因の真相について

島津斉彬
島津斉彬
(出典:ウィキペディア

島津斉彬は幕府の薩摩藩を語る上にはなくてはならないほどの有名人でした。

あの西郷隆盛や大久保利通などを取り立てたまさしく名君中の名君として知られています。

 

しかし、彼の行動は周りの嫉妬や対立を生んでしまうこともしばしばありました。

さらにはそれが発展して暗殺説も出ることにも繋がるようになってしまうのです。

弟の久光が黒幕か?

島津久光像
島津久光像

そんな斉彬の暗殺説なんですが、その犯人だと言われているのが後に文久の改革を行って薩摩藩を主導していく島津久光

 

当時薩摩藩ではお由羅騒動という一大御家騒動が起こっていました。

島津久光は家督を継げそうになった土壇場で斉彬のものになったという過去があるためきっかけは十分にあります。

 

しかし、久光と斉彬の関係はなんだかんだで良好なものとして伝えられています。

斉彬の死因も流行病のコレラということもありかなり自然なものだったと言われています。

 

斉彬は発病から1週間は耐えたと言われており、さらには毒殺ではあり得ない症状もあったため暗殺による殺害説は可能性は低いものと言えるでしょう。

島津斉彬の生涯

島津斉彬は1809年に薩摩藩第10代藩主であった島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれました。

 

しかし、斉彬は、父の影響は全く受けず、その分おじいちゃんであった島津重豪からの影響を大きく受けて育つことになります。

実は斉彬のおじいちゃんである重豪は藩の人をドン引かせるほどの西洋通。

重豪自らオランダ語を話すことができ、シーボルトなどと会見を行うほどのオランダ贔屓出会ったこともあり「蘭癖博士」とみんなからは言われていたんだとか。

 

しかし、斉彬はそんなおじいちゃんであった重豪のことが大好きで重豪と一緒にお風呂に入っていたそうです。

重豪も斉彬才能をすぐに見抜き、わずか4歳にして将来の跡取りとしての指名を受けます。

 

しかし、この重豪のオランダ贔屓が過ぎたせいで藩の財政状況は火の車。

さらに弟の久光との家督争いであるお由羅騒動が起きることになってしまい、首謀者13名が切腹となったのを始め、100人以上が処罰されることになります。

ちなみに、この時大久保利通の父親が処罰されていました。

 

最終的には、幕府老中首座であった阿部正弘なや松平春嶽の助けもあってこのお由羅騒動は終結し斉彬が次期当主となります。

斉彬は藩主になってすぐに、おじいちゃんと同じく西洋化に邁進。

アジア初の近代洋式産業である集成館事業というプロジェクトを打ち立てて洋式造船などを様々な技術の習得や運用を手がけ、藩の富国強兵に努めました。

 

その後は、

  • 養女となった天璋院篤姫を徳川将軍家に嫁がせる
  • 西郷隆盛や大久保利通などを登用する
  • 将軍の跡目争いに介入して一橋慶喜を支持する

 

など薩摩藩と幕政になるべく関与しようと頑張るのですが、この跡目争いのために江戸に登ろうとした時に斉彬は急死。

死因はコレラなどの感染病だと言われていますが、暗殺説があるなど真相は分かっていません。

経歴と年表

1809年 江戸藩邸にて生まれる

1826年 シーボルトと面会する

1849年 お由羅騒動

1851年 薩摩藩の藩主に就任 集成館事業を開始する

1856年 天璋院篤姫を徳川家定の正室にする

1858年 京に上洛する直前で急死

家系図

島津斉彬の父は第10代藩主である島津斉輿という人。

弟が後に文久の改革を行うことになる島津久光で、島津家の本筋は弟の方へと受け継がれていくことになります。

子孫について

島津斉彬には11人の子供がいました。

しかし、成人したのはわずか4人な上、四女のみが子供を出産していません。

 

島津家はのちに斉彬の弟である島津久光の家系でつながっていくのですが、斉彬の家系は女系で三菱財閥や三井化学の社長と結婚しながら今に至ります。

家紋

島津家の家紋と言えば十字紋

 

丸に十字の場合もあればただ単に十字の場合もありますが、この十字は実は龍が交わっているのが変形したもの。

元々島津氏は龍の家紋を使っていましたが、鎌倉時代に入ると十字に変更してそのまま幕末まで使うことになりました。

名言

国中の者が豊かに暮らすことができれば人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭よりも勝る。

福昌寺は1394年に第7代当主である島津元久が創建した島津家の菩提寺であり、戦国時代に活躍した島津義弘や今回の主人公である島津斉彬もここで静かに眠っています。

 

残念ながらこの福昌寺は廃仏毀釈のせいで廃寺されましたが、今では島津家の墓所がたたずんでいます。

島津家別邸「仙巌園」

島津家別邸として有名な「仙巌園」は日本の別邸の中では日本三大名園には少し及ばないものの、とても広大な大名庭園として知られています。

桜島をバックアップした雄大な庭園に加え殿様が暮らした御殿などが復元されており、薩摩藩主が愛した風景を楽しめることができます。

 

また、見どころの一つと言えるのが旧集成館の跡地を使って島津家の歴史や南九州の文化を紹介する博物館

実は集成館の建物は日本最古の石造洋式機械工場ということもあってか『明治日本の産業革命遺産』の構成資産の一つとして数えられています。

島津斉彬と西郷隆盛との関係は?

西郷隆盛
西郷隆盛の銅像

今でも鹿児島の英雄として知られている西郷隆盛

しかし、彼が活躍する地盤を作ったのが島津斉彬でした。

 

そもそも西郷隆盛は薩摩藩では下から二番目に当たる地位にいるほどの下級武士でした。

しかし、斉彬は西郷隆盛の能力を見抜いて彼を庭番として登用。

こうすることによって身分関係なく非公式で会うことができるようになり、最終的には篤姫の輿入れのための準備役という大役を与えるまでにしたのでした。

 

西郷からしたら斉彬は自分のことを見抜いてくれた上に大役を与えてくれたまさに大恩人。

西郷は斉彬が亡くなることを聞くと殉死を考えるほどだったそうです。

島津斉彬とジョン万次郎の関係は?

ジョン万次郎
ジョン万次郎

斉彬は上にも書いた通り日本で一二を争うほどの西洋通の藩主。

この藩主の性質によって助けられた人が一人いました。

その人こそが日本人で初めてアメリカの土を踏んだジョン万次郎だったのです。

 

ジョン万次郎は当時薩摩藩が従属させていた琉球に上陸してその後薩摩藩に着きます。

ただ、斉彬はアメリカから日本に帰国したジョン万次郎をひっ捕らえながらも彼のことを気に入っていました。

 

洋式の造船法を提供してもらい、藩士にそれを学習させたりするなどジョン万次郎の知識を徹底的に吸収。

彼を処罰するどころか高待遇でもてなし、薩摩藩は洋式帆船「いろは丸」を完成させたりしました。

 

ジョン万次郎が日本に帰国後も活躍できたのは斉彬の時代の薩摩藩に到着したからこそだったのですね。

島津斉彬と井伊直弼の関係は?

井伊直弼
井伊直弼

島津家は斉彬の養女となった篤姫が第13代将軍である徳川家定の正室になったことによってかなりの権力を握るようになりましたが、なんとこの家定かなりの病弱。

 

そのため家定の後を継ぐ人を選ぶことになるのですが、やはりいつの時代でも跡目争いが起こるものでこの時水戸徳川家から一橋家の養子となりかなりの聡明として知られていた一橋慶喜と紀州藩出身の徳川慶福のどちらに将軍としてなってもらうのかという論争が発生。

この時一橋慶喜を支援したのが斉彬であり、慶福を支援したのが井伊直弼だったのです。

 

この争いは朝廷問題にまで発展したのちに、井伊直弼は大老という職を使って無理矢理慶福を第14代将軍として就任させた後、反対する大名などを謹慎に追いやってしまいます。

いわゆる安政の大獄です。

 

松平春嶽や徳川斉昭などが謹慎に追いやられる一方で斉彬は亡くなってしまいました。

島津斉彬はルイヴィトンが好きで愛用していた?

島津斉彬は日本人として初めてルイヴィトンを使った人だと言われています。

ルイヴィトンが創業したのは1854年ですからかなり早くにゲットしたことになりますね。

 

斉彬は蘭癖大名と呼ばれていたり、薩摩藩は琉球を通じて海外と貿易していたためルイヴィトンをゲットするルートはあったと思います。

ただ、実は薩摩藩とルイヴィトンには意外な接点がありました。

 

1867年のパリ万博の時に当時出店していた薩摩藩の家紋を見たルイヴィトン関係者がこれを採用。

ルイヴィトンの十字柄のモノグラムのモデルとしたのでした。

「篤姫」はなぜ島津斉彬の養女になった?

斉彬が篤姫を養女として取り立てた訳には一つの島津家の課題がありました。

 

この頃、将軍家ではペリー来航などで揺らいでいた幕府の跡継ぎを産んでほしいという思いがありました。

例え外様大名でも世継ぎを産んで将軍となればその瞬間に薩摩藩は幕府と強い繋がりが生まれ安泰は間違いなし。

 

また、例え篤姫が世継ぎを生まなくとも篤姫の力を借りて斉彬が推している一橋慶喜に将軍になって欲しいという思惑があったのでした。

島津斉彬の子供の「哲丸」について

歴史の陰にはかわいそうな境遇を迎えることになってしまう人がたくさんいます。

 

斉彬には11人の子供がいましたが、五男までは早世しており、六男である哲丸は斉彬の後継者として大切に育てられてきました。

薩摩藩もこの哲丸が成人したら藩主とする予定でした。

 

ですが、残念ながらこの子も1859年に亡くなり、斉彬の血筋で成人した男子は最後まで出ることはありませんでした。

島津斉彬の父「島津斉興」はどんな人?

島津斉彬の父親である島津斉興ですが、彼は斉彬とは全くそりは合わなかったようです。

 

斉興自身は祖父の重豪のオランダ贔屓をはじめとした投資で積み重なった500万両の借金を調所広郷という家臣を取り立てて帳消しにしたり、幕末の島津家の活躍の土台を築き上げることに尽力するのですが、問題なのは斉彬が祖父のようなオランダ贔屓だったこと

 

斉興からすれば斉彬が藩主となればせっかく帳消しとした借金がまた復活するかもしれません。

最終的にお由羅騒動という薩摩藩を揺るがしてしまう大騒動を起こしてしまう結果となり、引退しました。

島津斉彬を題材にしたおすすめの作品

島津斉彬は西郷隆盛や大久保利通などの才能を発掘したり、幕末の薩摩藩の基礎を打ち立てたりしたこともあってかいくつか彼を題材にした作品が多くあります。

大河ドラマ

幕末の薩摩藩を題材にした大河ドラマがたくさんありますが、その中でも特に有名なのが彼の養女になった2008年の大河ドラマである『篤姫』。

 

第13代将軍である徳川家定の正室となった島津斉彬の養女である篤姫の生涯を写した作品で、幕末を題材にした大河ドラマの中でも特に評価されている作品となっています。

キャスト

上で紹介した『篤姫』では桃太郎侍などで有名な高橋秀樹さんが演じています。

時代劇でおなじみのその風貌で斉彬の卓越した政治能力や彼の思いを見事に演じています。

島津斉彬のことをもっと知りたいのであれば彼が残した言葉を家臣である市来四郎が編纂した『島津斉彬言行録』がオススメです。

 

この本では斉彬がどのような事を考えており、彼が望んでいた薩摩藩のビジョンなどが詳しく知ることができますので一度読まれてみてはいかがでしょうか?

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

  • 島津斉彬は暗殺説などがあるが実際にはコレラによって亡くなったと言われている
  • 島津斉彬は薩摩藩の近代化に努めて活躍する土台を築き上げた
  • 島津斉彬は鎌倉時代からの名門である島津家の出身
  • 島津斉彬は西郷隆盛や大久保利通を登用してジョン万次郎の協力を得たが、井伊直弼とは対立した
  • 斉彬が建てた集成館は今では世界遺産に登録されている

 

最後になりましたが、島津斉彬がいたからこそ幕末に薩摩藩が活躍できるようになったと思います。

まさしく斉彬は日本屈指の名君だったのですね。

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