日本史を学ぶにあたってよく耳にする「改易」という言葉。
大名に下された処分の一種ですが、その内実を、あなたはどれほど知っているでしょうか。
今回は改易の実施について、詳しく見ていきます!
そして見えてくる、改易と現代の職業の関係とは・・・!
目次
改易の意味は?
まずは改易の内容について見ていきましょう。
「改易」と聞くと、多くの人が江戸時代のそれを想起することでしょう。
しかし、この言葉自体は、実は律令制度の行われていた時代から用いられていたのです!
当時は現職者の解任と新任者の補任、鎌倉・室町時代には守護や地頭の職の変更を意味していました。
そして今回クローズアップしたいのは、江戸時代の改易です!
江戸時代の改易は、大名や旗本の武士としての身分の剥奪と、その領地や城の没収を意味しています。
前の時代の改易に比べ、かなり厳しい処分ですね。
次の章では、実際に改易が行われていた時代について見ていきます!
改易が実施されていたのは何時代?
前の章でも述べた通り、改易という言葉自体は昔からありました。
その中で「大名のお取り潰し」という意味での改易は、江戸時代いっぱい行われました。
その中でも、改易が頻繁に行われた時期とそうでない時期があります。
天下分け目の関ヶ原の合戦の後、徳川家の東軍と戦った西軍の大名たちの多くが、この改易という処分を受けました。
合戦の戦後処理の意味合いもあったため、かなりの数の大名が処分を受けます。
豊臣家復活をかけた大坂の役以降、戦乱がなくなると、世継ぎがいないことや幕法の違反を理由として、改易が行われました。
この江戸時代初期の頃は、こうしてかなりの大名が処分され、幕府権力が絶対的なものとなっていきました。
しかし、その後改易の件数は減少します。
なぜでしょう?
それは、改易により職を失った「浪人」が増えすぎ、政情不安が起きたからです。
そういうことから江戸時代中期以降は、改易件数は減りました。
ちなみに、江戸時代が終わってからも改易が行われた実例があるのをご存知ですか?
請西藩の林家は、明治新政府への反逆を理由として、明治元年に改易処分を受けました。
請西藩は、戊辰戦争によって改易された唯一の藩のようです!
次の章では、どのような大名が改易されたかについて見ていきます。
ある大名は、ちょっとしたことがきっかけとなって改易となってしまい、少しかわいそうに思えるかもしれません。
改易された大名はだれ?
では、実際にどのような大名たちが改易されたのでしょうか。
関ヶ原の戦いの戦後処理として改易となった大名を中心に見ていきましょう。
西軍として参戦したのは
- 石田三成
- 小西行長
- 宇喜多秀家
- 長宗我部盛親
などの武将でしたが、彼らはいずれも改易されます。
そのうち盛親は蟄居、秀家は遠流となり、三成・行長は斬首となりました。
また、先ほど幕法違反で改易となった大名がいると述べましたが、そのうちの一人が福島正則です。
彼は幕府からの正式な許可が降りないまま、台風により破壊された広島城の石垣等を修繕したのですが、これが武家諸法度違反に問われてしまいます。
彼は雨漏りする部分を修繕しただけのようなので、少し厳しすぎる処分のように感じますね。
次の章では、改易された大名のその後について見ていきます。
ある大名は、改易されたのちに特異な人生を歩んでいきました!
改易された大名たちのその後は?
改易された大名たちは、打首または切腹となることが多かったようです。
命を絶たずに済んだ大名たちも、他の大名の監視のもとで蟄居させられました。
改易された大名の家臣たちは当然、職と給料を失って浪人となりました。
しかし、もちろん例外は存在しており、数奇な運命をたどった大名たちもいたわけです。
前述の宇喜多秀家は、改易により八丈島に流されます。
加賀前田氏や旧臣からの援助を受けつつ、彼は現地で50年間過ごしました。
彼は隔年で70俵の援助を受けることができており、また流人のなかでも比較的厚遇されていたともいわれています。
また一説には、1616年に刑が解かれたあと、前田家からの大名復帰の提案を断ったようです。
八丈島での生活は不自由であったようですから、それでもその誘いを断ったということは、彼は権力を手にすることに対して嫌気がさしていたのでしょうね。
ほかにも、有馬晴信という大名が例外として挙げられます。
彼は改易を受けて切腹したとも家臣に首を切り落とさせたともいわれていますが、なんと大名としての有馬家は存続したのです!
それは、子の直純が徳川家康の側近であったからです。
次の章では、改易と減封、転封の違いについて説明していきます!
改易と厳封、転封とのちがいとは?
改易・減封・転封は、いずれも幕府から諸大名に対する処置を表します。
改易は、大名を取り潰してしまう処罰でした。
減封は、所領などの一部を削減することを指しており、改易よりは軽い処罰です。
次に転封ですが、これは前の二つとは刑罰としての意味合いが少し薄れます。
転封とは、その大名の所領を別の場所に移すことを指しています。
江戸時代に外様大名を江戸から離れた位置に、親藩・譜代大名を江戸近辺に移動させるために行われたものが有名です。
転封が改易・減封と異なるのは、所領の削減が必ずしも行われないところにあります。
実際、関ヶ原合戦の際に見方であった有力外様大名は、むしろ加増されて転封されています。
加増とは、禄高や領地を増やすことです。
もと18万石の蒲生秀行は42万石の加増、15万2千石の池田輝政は36万8千石の加増をもって転封されています。
これだけ加増されれば、徳川家への反抗心も生まれづらいですね。
しかし、これほど加増できるだけ領地はどこにあったのでしょう?
そうです、改易・減封された大名の領地がありましたね。
徳川幕府は、こうして領地の取り上げと分け与えを上手く行って、その基盤を固めていったのです。
次の章では、現在用いられている「改易蟄居」という言葉の意味や使い方について見ていきます!
「改易蟄居」の意味と使い方は?
改易も蟄居も、江戸時代の刑罰でしたね。
蟄居とは、昼夜とも出入りを許さず、自宅の一室に謹慎させるものでした。
転じて現代では、この「改易蟄居」という言葉は、「その人の持ち場の第一線から退かせる」といった意味で用いられているようです。
例えば、「学校から改易蟄居を命じられて、アルバイト漬けの生活を送るようになった」と言えば、その人はもう学校には顔を出せなくなったということですね。
次の章では、大名の改易と現代の職業の関連について見ていきます。
意外な職業が改易と関係していることに、驚かれるかもしれません。
現代の職業は改易された大名たちのおかげで出来た?
以上のように、改易とはその当事者にとってとても重い処分であることが十分伝わったかと思います。
しかし、実は改易された大名と現代の職業の間に、大きな関連があることをご存知ですか?
これは、大名の改易に伴い、その家臣たちも職を失ったことが大きく関わっています。
まずは、学校の先生です。
当時は教員免許というものが存在しなかったので、寺子屋の先生には誰でもなれました。
特に江戸時代初期のころは、読み書きさえできれば先生として合格だったので、浪人たちにとっては絶好の職だったのです。
次に紹介するのは、かなり意外なものと思われるかもしれません。
それは、経営コンサルタントです!
幕府や藩から商家に至るまでの財政の指南役を務め、経営の改善などを行う職業であり、当時は仕法家と呼ばれていました。
特定の場所にずっと居座るのではなく、仕事ごとに場所を変えていたので、まさにプロフェッショナルですね!
まとめ
いかがでしたでしょうか。
それでは、おさらいも兼ねて、改易についてもう一度振り返ってみます。
まず、改易とは大名の領地や屋敷を没収することでした。
改易という言葉自体は昔から存在しましたが、有名なのは江戸時代のもので、関ヶ原の戦後処理として多くの大名が改易され、その後改易の件数自体は減少しました。
改易された大名として有名なのは、石田三成・小西行長・宇喜多秀家・長宗我部盛親などで、いずれも打首や遠流など、厳しい処罰が与えられました。
福島正則など、幕法違反により改易となった大名もいました。
改易された大名の多くは厳しい処遇に遭いましたが、一部は配流先で比較的自由に暮らしたり、改易の影響をあまり受けなかったという例外も存在しました。
また、減封とは領地の削減を、転封は領地の移動を指しており、改易蟄居という言葉は現在も使われています。
また、大名が改易されたことで浪人が発生し、現在の学校の先生や経営コンサルタントのような職業に就く場合が生まれました。
以上のように、改易という幕府政策が、当時の社会から現代の職業に至るまで、さまざまな場面に影響を与えてきたことがお分かりいただけたかと思います。