禁中並公家諸法度とは?簡単に解説!発布した本当の理由とは?

大坂の陣で豊臣家が滅亡し、名実ともに天下を取った徳川家康

それにあたり、武家の行動を制限した法律『武家諸法度(ぶけしょはっと)』に対して、朝廷や公家の行動を制限した法律『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を制定。

(ちなみに『禁中(きんちゅう)』とは朝廷のこと)

 

表向きは、完全に天下を取った徳川が、朝廷や公家の行動を制限した法律といわれていますが、本当のところはどうだったのか!?

武家諸法度や僧侶を取り締まった『諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)』とはどう違うのか!?

 

詳しく見ていこうと思います。

禁中並公家諸法度とは?

禁中並公家諸法度は、徳川家康の参謀格であった金地院崇伝(こんちいんすうでん)を中心に作られました。

そして、1615年9月9日、当時前関白であった二条昭実(にじょうあきざね)、大御所・家康、2代将軍・徳川秀忠の署名で発布された法度(はっと)、すなわち法律のことを言います。

 

正しくは禁中方条項目(きんちゅうがたじょうこうもく)

1613年に制定された『公家衆法度(くげしゅはっと)』をベースに作られました。

 

これによって、天皇は

  • ひたすら学問に打ち込むように指示
  • 公家の養子縁組や性関係を規制
  • 天皇や公家は学問や文化を次世代に継ぐことを専門とされられる

 

といったように江戸幕府の政治に口出しができなくなり、江戸幕府の260年の太平の世の一因となります。

 

実はこれは、のちに詳しく話す『猪熊事件(いのくまじけん)』によって、朝廷や公家の特に性的な風紀が乱れていることを知った幕府が、朝廷の風紀を正すことを口実に自分たちが、『天皇自身の許可も得て、性的に乱れ切った朝廷や公家も正し、正しく世を治める正義の味方』ということを知らせるために作ったものでした。

 

方や天皇側も、先ほど述べた猪熊事件をきっかけに『性を中心に公家の風紀が乱れまくり、私が好きな女性の浮気が続くぐらいなら、正義の御旗を受け渡してでも徳川に彼らの行動を規制してもらいたい』という思いがあったとされています。

 

まず、原文についてみていきます。

原文

原文は漢文で書かれており、全17条。

原本は1661年2月14日の御所火災(ごしょかさい)で燃えてしまい、副本をもとに復元されています。

 

次に、その内容についてみていきます。

内容は?

1条から12条までが朝廷と公家が守る諸規定、13条からが彼ら名義で与えられる僧侶の官位についての諸規定となっております。

内容を簡潔に記すと、

 

1条:天皇は学問一筋に打ち込み、政治には口を出さないこと。

2条:公家がなれる上級の三職、太政大臣、左大臣、右大臣は、親王(しんのう。天皇の一族)より上。

3条:公家が2条の三職を辞任した場合、親王より下となる。

4条:平安時代に主に摂政・関白を務めた藤原道長の一族であっても、無能な人間は摂政・関白はもちろん、三職になってはならない。

5条:摂政・関白が高齢であっても有能ならやめなくていいし、再任もOK。

6条:公家同士はもちろん武家から養子をとることも可能だし、親戚から養子をとることもできるが、女性は家督を相続できない。

7条:征夷大将軍をはじめとする武家向けの官位は、公家とは別物とする。

8条:元号を変える場合、中国の言葉からいいものを選ぶこと。

(天皇が亡くなってから元号を変えるというシステムは明治になってから定まり、この時代は1人の天皇が生きている間に、世直しの意味で複数元号を変えることも可能でした。

つまり昨今の生前退位は異例中の異例といえましょう。)

9条:天皇の礼服は『御紋十二章』という服でいくこと。

10条:公家の昇進は、その家のおきてに従うこと。

11条:関白のほか、幕府配下である武家の奉行の命令に下の公家が従わない場合は、彼らを流罪にすること。

12条:罪の重い軽いの判断は、先例に従うこと。

13条:元関白が出家して僧侶になった場合、元親王が出家して僧侶になった人間より下とする。

14条:どんな人間を寺の住職にするかは、先例に従うこと。

農・工・商の人間であっても、実力があるなら住職にしてもかまわないが、この場合、天皇名義で就任した住職とは別物にすること。

15条:住職を補佐する僧都を選ぶ際も先例に従うこと。

元農・工・商の人間を僧都にする際は必ず寺名義で届け出ること。

16条:紫衣(しえ。僧侶の中でも特に優れたものに贈られる紫の衣)は最近やたら出されており、モラルハザード(倫理の欠如)が起きている。

今後紫衣を与える場合は、その人間が相応の知恵と人望を持っているかをよく判断し、慎重に出すこと。

17条:質のいい僧侶のレッテルである『上人(しょうにん)』を選ぶ際も、天皇名義で出すこと。

未成年でも出すことは可能だが、その人間が性的に不適切なことをしたら、流罪にすること。

 

特に僧侶の称号の授与に関しては、『僧侶は結婚できない』という従来の掟もあってか、かなり厳しく配慮されています。

 

次に、禁中並公家諸法度の目的についてみていきます。

目的は?

江戸幕府の朝廷に対する対処は『陽尊陰圧(ようそんいんあつ)』であり、これが目的。

つまり、表向きは尊敬して敬意を払いつつ、裏で様々な圧力と法律をかけてその行動を抑え込むものだった、と言われています。

 

もともと家康は太平の世を作るにあたり、天皇や公家も抑えておきたいところでした。

しかしながら天皇は、表面上は『正義の象徴』。

つまり天皇の許可を得て政治を行ったり、天皇の名目で戦をしたりするものが官軍、『正義の味方』として世の中に認められることになるのです。

 

そうしなかった場合は『賊軍』として世の中から悪者扱い。

(それで今日でも『勝てば官軍負ければ賊軍』と言われます)

 

実は奈良時代の701年に作られた『大宝律令(たいほうりつりょう)』から始まる、天皇がトップとして国を治めるシステム『律令(りつりょう)制』。

もちろんこの時代においては事実上消滅していましたが、表向きはまだ残っているとされており、律令制をそのままに鎌倉幕府と室町幕府ができておりました。(明治になってから正式に廃止)

 

実は武家政権のトップとして幕府を作るための地位『征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)』も天皇の命令で受けているのです。

家康も、それ以降の徳川将軍もそう。

そこで、自分は天皇の許可を得て政治のトップに立ってるんだぞ、ということを天下に知らせたかったのです。

 

徳川が天皇及び朝廷を『陽尊』していたのは事実のようで、3代将軍家光の時、家光は妹の和子(かずこ)を後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の妃とし、自分を天皇の義理の兄とすることで格を高めようとしました。

 

一方、天皇は名目上は『生まれついての正義』なのですが、彼自身も彼の一族も彼に使える公家も、自前の武力、そしてそれらを集める財力も持たないがため、彼ら自身だけでは人々を屈服させることができません。

それどころか自分自身の命も危うい。

 

そこで、武家のトップとなった徳川の法律である禁中並公家諸法度の法律を認めることで、正義の御旗を渡すかわりに、徳川の保護を受けようと考えていました。

 

『自分の生活を保障してもらう』これが公家側の目的。

いわばここでも『ギブアンドテイク』、つまり持ちつ持たれつの関係ができていたというわけです。

 

この後、明治天皇を神輿として担ぎ上げた薩長が、江戸幕府を滅ぼすことになります。

(そのため、明治維新をクーデターと取る人も現代はいます)

 

次に、誰が発布したかを見ていきます。

だれが発布したか?

禁中並公家諸法度を発布した時の署名は

 

  • 徳川家康(当時は大御所)
  • 徳川秀忠(二代将軍)
  • 二条昭実(にじょうあきざね。当時の前関白)

 

以上の3人。

つまりこの3人の責任で発布されたとされていますが、問題は順番。

実はこの署名、昭実が1番に行っており、秀忠、家康の順に署名。

 

関白は平安時代に藤原氏がよくなった役職で、『成人した天皇を助けて政治を行う役職』で、事実上天皇政権のナンバー2。

しばしば天皇の代理人として、署名などもしており、今でいうなら総理のナンバー2である官房長官といったところでしょうか。

 

今の官房長官と同じ関白が先に署名したのですから、この法度は朝廷側が真っ先に賛成したものとして世間には伝わり、公家は自ら進んでその法律を守るようになっていきます。

 

なぜ公家側が真っ先に署名したか、というより、署名しなければならなかったかは、これから話す朝廷の性的スキャンダル『猪熊事件』にゆらいします。

 

これから猪熊事件について語っていきます。

幕府が禁中並公家諸法度を発布した本当の理由!?

実は幕府が、そのような正義とは名ばかりで力のない朝廷と公家を統制しようという背景には、公家の主に女性関係に対するだらしなさを現した朝廷のスキャンダルがあったためでした。

 

1609年、江戸幕府が体制を固めていたころに起きた『猪熊事件(いのくまじけん)』がそれです。

 

公家の猪熊教利(いのくまのりとし)は、『源氏物語』の主人公・光源氏(ひかるげんじ)にも例えられた評判の美男子。

しかしながら女癖が悪く、多数の女性と関係を持ち、『公家衆乱行随一(くげしゅうらんぎょうずいいち)』と言われてきました。

 

当時の天皇であった後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は一度彼を京都から追放したのですが、彼はいつの間にやら京都に戻っていました。

 

そんな折、別の公家であった花山院忠長(かざんいんただなが)が後陽成天皇の愛していた広橋局(ひろはしのつぼね)に恋をしました。

そして、ひそかに天皇に隠れて体を重ねていたのですが、それを聞いた猪熊は、この2人を誘い出し、友人の公家や女中も交えて乱交パーティーを様々な場所で行ったのです。

 

今でも3人や4人の男女で性行為を行うことを『3P』『4P』といいますが、それをも上回る規模の乱交で、計測不可能なぐらいの『P』だったと思われます。

 

が、このような乱行が明るみに出ないわけもなく、1607年9月に後陽成天皇の耳に入り、怒り狂った彼は九州まで逃げた猪熊ら、乱交にかかわった者たちをとらえます。

 

後陽成天皇自身は、乱交にかかわった人間全員を死刑にしたかったようですが、今までの公家向けの法律では死罪がなく、しかも天皇自身には刑を強制する武力も金もない有様でした。

 

さらにはこの乱交パーティーに、思いのほか多くの人間がかかわっていることが分かり、全員死刑にすれば大混乱になる可能性がありました。

結果、死刑は猪熊ら2名にとどまり、花山院や広橋局ら9名を流刑にする形でまとまりました。

 

以上のような朝廷に仕える公家の女性スキャンダルに衝撃を受けた江戸幕府。

正義の象徴である朝廷に、二度とあのようなスキャンダルが起きないよう、きちんと朝廷や公家の習慣を正さないといけない』と思うようになりました。

その結果、禁中並公家諸法度を作ることに動き出すのです。

 

実は朝廷から幕府に依頼していたという説もあるのですが、おそらく、天皇自身は公家たちを統率することができず、武力を持つ武家にそれを頼みたかったことは推測できましょう。

 

次に、その説についてみていきます。

実は朝廷から幕府に依頼していた?

朝廷とそれに仕える公家(くげ)も実は、先ほど言ったように正義の象徴とそれに仕える一団ではありました。

ですが、自分自身さえ守る武力もそれを集める財力もありません。

 

応仁の乱以降、天皇は財力もなくなり、就任式が20年遅れたという逸話からも、天皇の一族がいかに貧窮していたかの象徴と思われます。

やはり応仁の乱以降、ほとんどの公家は今まで持っていたものを売って金に換えて生活の足しにしており、物乞いにまで落ちぶれた公家も。

 

そこで、この法度を認める代わりに自分たちを幕府と武家に接近させ、親戚を結婚させることで、飾り物の正義の御旗だけで飢えと寒さに泣くことはなく、親戚となった武家の援助を受けやすくしたのです。

 

先ほど述べた猪熊事件が起こらないよう、最大の武力を持つ徳川の力を借りたいという思いもありました。

 

実は幕末の『公武合体(こうぶがったい)』、つまり天皇家と将軍家のつながりを強くする方策は、今まで幕府がやってきたことの焼き直しでしかありませんでした。

しかもその時の孝明天皇(こうめいてんのう)や、実際に将軍・徳川家茂のに嫁入りすることになった和宮(かずのみや)の気持ちを考えないまま強引に進めたため、かえって尊皇派の反発を招き、倒幕の遠因となるのです。

 

次に、この法度を作るうえでのリーダーとなった『黒衣の宰相』こと金地院崇伝(こんちいんすうでん)についてかたっていきます。

黒衣の宰相と呼ばれる人物が実は企画していた?

金地院崇伝
金地院崇伝

禁中並公家諸法度は家康自身ではなく、『黒衣の宰相』と名乗る人物がリーダーで作られました。

『黒衣の宰相』とは、家康の参謀格で京都・南禅寺(なんぜんじ)の僧侶でもあった金地院崇伝(こんちいんすうでん)のことです。

 

江戸幕府ができてから6年後の1608年に家康に招き入れられ、主に外国との交渉に携わっていましたが、大坂の陣の発端となった方広寺鍾名事件で、『国家安康(こっかあんこう)』『君臣豊楽(くんしんほうらく)』の下りが家康を呪うものと豊臣に言いがかりをつけたのは彼自身だったともいわれています。

 

南禅寺は当時もっとも格式の高い寺で、天皇や公家も一目置いており、そこの住職、つまり寺のトップなのでしたから、彼自身天皇や公家のことに詳しく、また彼らも僧侶の言うことには聞き従わざるを得なかったでしょう。

 

ただ、先ほど述べた豊臣家への言いがかりや、政治のトップである家康にすり寄ってるというイメージが巷では強かったからか、『黒衣の宰相』『悪国師(あくこくし)』とも呼ばれていました。

 

『国師』とは天皇名義で送られる称号で『格の高い僧侶』の意味、『悪』とは悪人の意味ではなく、『強い人、猛々しい人』という意味です。

 

平安時代によく使われ、保元の乱で崇徳上皇方についた藤原頼長(ふじわらのよりなが)は『悪左府(あくさふ)』、源義朝の子義平(よしひら)は『悪源太(あくげんた)』と呼ばれていました。

 

この禁中並公家諸法度が破られ、なおかつ関係者は厳しい罰を受けた事件として有名なのが、発布の12年後に起きた『紫衣事件(しえじけん)』なのです。

 

次に、『違反したら厳しい罰が待っていた』ことが嘘かほんとかを話していきます。

違反したら厳しい罰が待っていた?

実は、禁中並公家諸法度には、『朝廷と公家はどうあるべきか』について記しているだけで、『違反した場合の罰の内容』についてはあまり具体的に書かれていません。

 

11条に『関白や奉行の命令に下の公家が従わない場合、彼らを流罪にすべき』

12条に『どこまでを罪とするかは先例に従うべき』

とある程度。

 

最初にこの法度を破った事件として、発布の12年後、1627年の『紫衣事件(しえじけん)』がありました。

 

先ほど述べましたが、法度16条に、『モラルハザード防止のため、紫衣は相手の僧侶が相応の知恵と人望を持つ人間であるかどうかをよく考えて渡すこと』とありましたよね。

 

1627年、当時の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は幕府に相談なく、当時京都大徳寺(だいとくじ)の住職であった沢庵らに紫衣を与えます。

怒った当時の将軍徳川家光は、彼らの紫衣を取り上げ、当然ながら反発した沢庵たちを流罪に処します。

結果、『幕府の命令は天皇の命令に勝る』というパブリックイメージが広がり、幕府が天皇を実質的なトップということを天下に知らせることになりました。

 

ただしこれ以降は、禁中並公家諸法度を破った公家や彼らに対する罰についてはあまり広まっていません。

おそらく、これによって朝廷も公家も、自分たちに力がないと実感して委縮し、法度を犯す気になれなかったものと思われます。

 

この後、後水尾天皇はやる気を失ったのか、「もう勝手にやってくれ」と言わんばかりに徳川和子(とくがわかずこ。家光の妹)との間に生まれた興子(おきこ)に天皇の座を譲り、彼女が明正天皇(めいしょうてんのう)と呼ばれるようになります。

 

後味の悪い結末ですが、この紫衣事件を機に、『禁中並公家諸法度』を破ったら罰が下されるというイメージが朝廷にも公家にも広まり、本格的に彼らは徳川に従うようになるのです。

 

幕府も比較的出来たばかりのため、厳罰等の力技も必要なのは事実。

また、将軍の姪が天皇になった分、家光自身も天皇の親戚として家格も上がるというもの。

結果オーライといいましょうか。

 

なお、この後1632年、大御所・徳川秀忠の死により恩赦が出され、紫衣事件の受刑者は許されました。

特に沢庵はこの後、家光の側近かつブレーンとして、その知恵を十分に生かすことになるのです。

 

次に、禁中並公家諸法度と武家諸法度の違いについてみていきます。

禁中並公家諸法度と武家諸法度の違いは?

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武家諸法度は武家向け、禁中並公家諸法度は公家向けとよく言われています。

 

ただ時代が進むにつれ、朝廷・公家と武家の親戚同士が結婚するということが多くなり(家光の妹・和子も天皇と結婚しています)、公家と武家を簡単に区別するのが難しくなっていきます。

 

正しい違いは、『武家諸法度は幕府消滅まで何回か改正されたが、禁中並公家諸法度は一度も改正されなかった』といったところです。

 

次に、僧侶を取り締まる法度とされ、1665年に発布された諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)との違いを見ていきます。

禁中並公家諸法度と諸宗寺院法度の違いは?

禁中並公家諸法度は公家向けの法度。

諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)は僧侶向けの法度というのが最大の違いといったところでしょうか。

 

公家は、

  • 本人が俗人の時は禁中並公家諸法度
  • 彼らが出家して僧侶になった場合は諸宗寺院法度

 

によってその行動を取り締まられます。

 

ほかに、彼らを監視する担当役職も違います。

禁中並公家諸法度に違反しないよう監視する役目は当初は京都所司代(きょうとしょしだい)配下の京都郡代(きょうとぐんだい)、後に京都代官(きょうとだいかん)でした。

 

諸州寺院法度が正式に発布されたのは、4代将軍徳川家綱のころの1665年。

それまでは、金地院崇伝自らが寺の僧侶を取り締まり、崇伝の死後、1635年幕府配下の寺社奉行(じしゃぶぎょう)が設けられ、暗黙の了解で僧侶が取り締まれた後、諸州寺院法度が正式に発布されるとともに、正式に寺社奉行が僧侶を取り締まることが決まったのです。

 

公家に比べて、なぜここまで僧侶を取り締まる掟を作るのに時間がかかったのでしょうか。

それは、やはり宗教というものが、人々の心の支えであってコミュニケーションのよりどころであるがゆえに、僧侶自身のみならず信者からの反発も恐れてうかつに発布できなかったからでしょう。

 

そこで、当初はカリスマ僧侶の崇伝、次に幕府配下の寺社奉行の下において、彼らとコミュニケーションをとらせて十分に信頼させてから発布させました。

 

私自身プロテスタント教徒なのですが、日曜日の教会の礼拝で、同年代の人間はもちろん、年の離れた老人や子供ともコミュニケーションをとることが多く、同時に宗教の点で話を合わせやすいのです。

 

日本史においてもそうで、平安時代有名な寺は、その財力で僧兵を組織して武力も交えて朝廷に圧力をかけました。

そして、戦国時代においては、特に京都の本願寺(ほんがんじ)や一向宗(いっこうしゅう。親鸞の浄土真宗の別名)が農民たちを宗教思想で束ね、一揆という形で周辺の大名に揺さぶりをかけたりしました。

 

宗教をつかさどる寺院に比べて、いかに朝廷と公家が名ばかりだったかがわかります。

まとめ

  • 朝廷と公家を取り締まる代わりに、公家を尊敬し保護する。
  • 性的スキャンダル『猪熊事件』の二の舞が起きないようにする。
  • 天皇にとっては、正義の象徴というイメージが汚れないようにする。

 

これが禁中並公家諸法度の本当の目的といえましょう。

つまり天皇・公家と、徳川・武家ともにウィンウィンの関係を築くためであり、果たしてそのような結果になったわけです。

 

自前の財力がなかった天皇と公家は、この後この法度で統制されながらも、接近した武家と親戚同士を結婚させることで貧しさに泣くことも反発することもなく、ぎりぎりながら暮らしていけるようになります。

 

(ちなみに幕末の岩倉具視も貧乏公家の出ですが、違法賭博の主催者となることで金を集め、討幕の資金源としております)

 

やがて幕府の支配が揺らぎ、水戸学(みとがく)によって『天皇こそがトップとなり、正義の味方として自ら支配する存在なのだ』といういわば『尊王』の考え方が広まるまで、朝廷も公家も幕府に反乱することなく、260年の太平の世を維持する一因となるのです。

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