今回ご紹介するのは、岩崎弥太郎です。
動乱の幕末期にビジネスの世界に入り、明治期日本のビジネス界で最も成功したと言える人物です。
のちに三井・住友とともに「三大財閥」を形成する三菱を設立しています。
- 岩崎弥太郎の生涯とは
- 岩崎弥太郎の子孫の現在とは
- ハーバードでも学ばれている三菱財閥の成功のカギとは
今回は以上の点について特に詳しく見ていきますので、ぜひご注目ください!
目次
岩崎弥太郎と子孫の現在は?
岩崎弥太郎は、明治期に政商として大きな富を築き、三菱財閥の創業者にして初代総帥を務めた人物です。
彼と彼の弟である岩崎弥之助の2家系の子孫は、代々三菱の重役として活躍しています。
それでは、弥太郎の生涯に迫っていきます!
年表も合わせてご覧ください。
岩崎弥太郎とは?
岩崎弥太郎は1835年に土佐で生まれました。
1854年に江戸に出ると、安積艮斎という人物のもとで学びます。
その後吉田東洋の開いていた少林塾に入塾テストし後藤象二郎らと知り合うなどしましたが、遊興に溺れて資金を失い、官職を失ってしまいます。
27歳で喜勢という女性を娶り、吉田が暗殺されると犯人の探索を行うなどします。
1867年、土佐藩営の開成館長崎商会へ派遣された彼は、ここで鰹節などの藩の特産物の輸出や武器の買い付けなどについて外国商人と取引を行うようになります。
これが、のちに事業家として活躍する彼の礎となったと言えるでしょう。
明治に入ると、開成館は九十九商会となり、高知—神戸航路、東京—大阪間の海運で大きな実績を残します。
九十九商会は1872年に三川商会、翌年に三菱商会となり、さらに翌年本店を大阪から東京に移し、三菱蒸汽船会社と改名を重ねます。
この時彼は現在三菱のマークとして広く知られている「スリーダイヤ」を作りました。
彼が大きな富を得るのは、新政府が紙幣貨幣の全国統一化を図ったときのことです。
明治政府は紙幣貨幣の統一のため、各藩が発行していた紙幣である藩札を買い占めることとなります。
これを弥太郎は事前に察知して藩札を買い占め、新政府に売りさばくことで巨利を得たのです!
ちなみにその新政府の情報を弥太郎に漏らしたのは後藤でした。
その後、江藤新平による佐賀の乱、西郷隆盛による西南戦争のほか、台湾出兵や江華島事件などで、彼は現地に兵士や軍需品の輸送に貢献しました。
この功績から、彼の三菱会社は政府の船の払い下げ・委託を受け、日本の海運界のドンとなったのです!
しかし、三菱の海運業の独占が強まるにつれて、三菱に対する批判も起こってきます。
農商務卿の西郷従道は、三菱が巨額の利益を得ていることを「国賊」とまで言っているほか、三井などの反三菱財閥が共同運輸会社を設立して三菱と対抗しました。
三菱と共同運輸会社との闘争は約2年も続き、これにより運賃が以前の10分の1にまで落ちることとなりました。
海運業のみならず、吉岡銅山や三菱製鉄所、三菱為替店など多くの事業を手がけた彼は、1885年に50歳でこの世を去りました。
なお、彼の死後に三菱と共同運輸会社は合併し、日本郵船が成立しています。
年表
年 | 出来事 |
---|---|
1835年 | 岩崎弥太郎生まれる |
1854年 | 江戸遊学 |
1855年 | 安積艮斎に学ぶ |
1858年 | 吉田東洋の少林塾に入門 |
1859年 | 長崎に派遣される |
1867年 | 開成館長崎出張所へ |
1870年 | 九十九紹介開設 |
1874年 | 台湾出兵 |
1877年 | 西南戦争 |
1882年 | 共同運輸会社創設 |
1883年 | 三菱と共同運輸会社の競争が始まる |
1885年 | 弥太郎死去 |
次の章では、弥太郎の妻について見ていきます。
弥太郎の妻
弥太郎の妻・喜勢(きせ)は1845年に生まれました。
1862年に弥太郎と結婚し、以後長らく弥太郎や弥太郎の母によく仕えました。
1874年に東京に移ると、自邸内に「雛鳳館」を作り、子女の教育にあたりました。
この「子女」の中には、弥太郎の妾腹の子もいたのですが、喜勢はみな分け隔てなく育てたといいます。
1923年に亡くなるまで、岩崎家を力強く支え続けました。
次に、弥太郎の子孫の現在について見ていきます。
家系図もご参照ください。
子孫の現在
実は、弥太郎の血統は断絶の危機にあります。
少し遡って見ていきます。
弥太郎の嫡孫である岩崎寛弥氏は1930年に生まれました。
1953年に東京大学を卒業すると三菱銀行に入社します。
1967年に父の彦弥太が死去したことで岩崎弥太郎家の4代目当主となると、1983年に三菱銀行の取締役となります。
寛弥氏には実子がいなかったため岩崎透氏を養子に迎えたのですが、のちに縁組を解消してしまいました。
2008年に寛弥氏が亡くなったため、岩崎家は断絶の危機にあるのです。
ただ、弥太郎には多くの子供がおり、その子孫は現在も各界で活躍しています。
弥太郎の次女・磯路(いそじ)と結婚した木内重四郎の子孫である孝胤氏は、希望の党の元衆議院議員です。
弥太郎の曾孫にあたる泰頴(やすひで)氏は地球科学者であり、熊本大学の名誉教授を務めています。
家系図
次に、岩崎家の家紋についてご紹介します。
岩崎家の家紋
岩崎家の家紋は以下のようなもので、「重ね三階菱」と呼ばれます。
ちなみに、土佐藩主山内家の家紋は「丸に土佐柏」(以下の画像)であり、この柏の部分を菱形にしたものが現在のスリーダイヤであり、両デザインには関わりがあるようです。
次の章では、弥太郎の残した名言をいくつかご紹介します。
岩崎弥太郎の名言
弥太郎の残した名言をいくつかご紹介します。
- 「小事に齷齪するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし。」
目の前の小さなことばかりに気をとられるのではなく、大きな目標に向かって突き進むことが大事だということです。
- 「部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。」
利益を多く部下にも分け与えることがその後の成功にもつながることを見据えています。
- 「機会は魚群と同じだ。はまったからといって網を作ろうとするのでは間に合わぬ。」
機会が訪れてからそれを活かす準備をしたのでは間に合わないということを言っています。
多くの事業を成し遂げてきた実績から、このような名言が生まれてきたのです。
次に、弥太郎の生家をご紹介します。
岩崎弥太郎の生家
弥太郎の生家は、高知県安芸市にあります。
この家は、弥太郎の曽祖父によって1795年頃に建てられたようです。
庭石が日本列島を模して設置されているのが見どころの一つとなっています。
次に、記念館となっている旧岩崎邸庭園について見ていきます。
岩崎弥太郎邸庭園と記念館
旧岩崎邸庭園は、東京都台東区にある都立庭園です。
開園は2001年と比較的新しいですが、弥太郎が敷地を購入したのは1878年のことでした。
1923年の関東大震災の際には避難所として解放されたり、第二次世界大戦後にはGHQに接収され、諜報機関の本部となったりした経緯があります。
現在は国の重要文化財に指定され、通年公開されています。
次に、弥太郎の墓についてご紹介します。
岩崎弥太郎の墓
弥太郎の墓は、東京都豊島区にあります。
弥太郎の墓のある敷地の隣には、多くの著名人が葬られている染井霊園があります。
弥太郎も当初はこの染井霊園に葬られたのですが、その後隣の三菱社宅の敷地に移されました。
現在は一般に公開されてはいません。
次の章では、三菱財閥の成功の秘訣に迫ります!
ハーバードでも学ばれる三菱財閥成功の秘訣とは?
弥太郎の生き様は、ハーバード・ビジネススクールでも取り上げられています。
三菱と同じく巨大な財閥を形成する三井・住友が長い歴史を持っていたのに対し、三菱は弥太郎が作り、彼が一気に成功させました。
つまり、三菱財閥の成功の秘訣は、弥太郎自身の生き方にあると言えるでしょう。
弥太郎は当初貧しく、強い反骨精神のもとで学問を究めました。
そして、木こりから算術を学びます。
金勘定は武士道に反するとされた当時は、算術を学んだ武士はほとんどいなかったのですが、彼はそんな世間の風潮に流されずに算術を修めます。
また、今でこそ問題になっていますが、彼は政府役人との接待を得意とし、コネを作り上げました。
そして、政策にうまく対応して事業を展開し、成功に導いたのです。
良いと思ったことをどんどん取り入れたこと、人との繋がりを大切にしたことが、彼と三菱財閥の成功のカギでしょう。
次に、三菱創業の経緯について見ていきます。
三菱創業の経緯
土佐藩が1870年に九十九商会を立ち上げて海運業の展開を開始し、弥太郎がその経営に携わったことが、三菱の誕生と言えます。
九十九商会はその後三川商会となり、弥太郎が社長となった1873年からは、社名は色々と変わりつつ「三菱」を冠するようになります。
1885年には反三菱の共同運輸会社との激しい闘争が始まり、2年半もの間続きました。
1885年に社長となった岩崎弥之助は海から陸へ事業展開を行っており、現在の丸の内ビジネスセンターの礎を築いています。
三代目の岩崎久弥は、総務、造船、営業などの各部を置き、営業の合理化を図っています。
現在のキリンビールやAGCが創設されたのも彼の時代です。
1916年には岩崎小弥太が社長となり、事業部制をさらに進め、今日に残る多くの会社を発足させました。
これらは重化学工業を中心としており、「技術の三菱」と言われるようになります。
第二次世界大戦後の1945年、GHQによる財閥解体が決定され、三菱本社は解散しました。
次に、弥太郎が現在ハーバードで学ばれている、その理由について言及していきます。
なぜ今でもハーバードで学ばれているのか?
ハーバードビジネススクールの科目の中に、弥太郎について学ぶものがあります。
これは、弥太郎の生涯を軸として日本の明治維新について見ていくというものです。
国の発展のためには社会制度が整えられることが必須であり、西洋諸国は国民の所有権を保護して国が所有税を得るようになったことが発展につながりました。
しかし、日本は国民が旧来の社会制度をそのままひっくり返してしまったのです。
その中心となったのは、下級武士たちでした。
早く欧米諸国に追いつこうという原動力となった彼らを代表する一人が、弥太郎なのです。
弥太郎の豪快でユニークな生き方から生まれる強烈なキャラクター性も、いっそう彼が注目される一因なのです。
次に、弥太郎と渋沢栄一の違いについて見ていこうと思います。
岩崎弥太郎と渋沢栄一の違い
弥太郎の同時代人で、同じく実業家として名を馳せた人物として、渋沢栄一がいます。
両者の違いは、富を受けるべき対象の違いにありました。
- 弥太郎:商業主義を追求し、能力のある個人が富を得られる仕組みを目指した
- 渋沢:個人の利益よりも公益を優先するべきだと考えていた
両者は仕事以外の面では仲が良かったようですが、このような考え方の大きな違いから、会社の経営などについての話題ではあまり折り合いがつきませんでした。
次に、NHK大河ドラマ『龍馬伝』における弥太郎について見ていきます。
龍馬伝での岩崎弥太郎
2010年に放送されたNHK大河ドラマ『龍馬伝』において、弥太郎は坂本龍馬の幼馴染として登場し、主要キャラクターの一人となっています。
龍馬が脱藩し、後藤象二郎に追っ手に命じられますが、弥太郎は龍馬を捕えられず、むしろその後龍馬の活動に手を貸すようになります。
自らの商売にとって龍馬が障害となってきたところで、弥太郎は龍馬との決別を決意しており、その後は巨万の富を築いて大出世を果たしています。
龍馬と決別したといっても、彼が殺害された時には、「わしの龍馬を返してくれ!」と泣き叫んでおり、龍馬に対する憧れの気持ちは途絶えることはありませんでした。
次に、実際の弥太郎と龍馬の関係について見ていきます。
実際の岩崎弥太郎と坂本龍馬の関係は?
『龍馬伝』では、弥太郎と龍馬は幼馴染であるという設定でした。
しかし、記録上での両者の最初の接点は、龍馬が脱藩の罪を赦され、龍馬が中心となって結成した海援隊の経理を、弥太郎が担当することとなった時のことです。
弥太郎も龍馬も同じ土佐藩の出身でしたが、弥太郎は身分の低い家の生まれであるのに対し、龍馬は比較的裕福な家庭で育っており、両者の交流が早くから始まっていたとは考えにくいようです。
弥太郎の日記には、龍馬と酒を酌み交わし、将来の夢を語り合ったという記述もあるため、知り合ってからは仲が良かったのかもしれません。
次の章からは、弥太郎に関連した書籍をご紹介していきます。
岩崎弥太郎関連の書籍
弥太郎を扱った書籍はいくつもあります。
- 南條範夫著『豪商 岩崎弥太郎の生涯 暁の群像 上・下』(2010年、文藝春秋)
- 嶋岡晨著『小説 岩崎弥太郎 三菱を創った男』(2009年、河出書房新社)
- 河合敦著『岩崎弥太郎と三菱四代』(2010年、幻冬社)
- (漫画)本宮ひろ志著『猛き黄金の国』(1990年〜1992年、集英社『ビジネスジャンプ』にて連載)
これらのうち、今回は『岩崎弥太郎と三菱四代』『猛き黄金の国』をご紹介します!
まずは、『岩崎弥太郎と三菱四代』です!
岩崎弥太郎と三菱四代
『岩崎弥太郎と三菱四代』は、岩崎弥太郎による三菱の創始と、その後続く岩崎家3代の活躍を描きます。
今日まで続く三菱グループが、戦前までにどのような発展を遂げたのかが分かり、現代のビジネスにも通じるところが多いことでしょう。
著書である河合敦氏は、日本テレビ「世界一受けたい授業」など、テレビ出演もしている人物です。
次は、漫画『猛き黄金の国』です!
漫画 猛き黄金の国
漫画『猛き黄金の国』は、弥太郎の生涯にスポットを当て、三菱の創業までを描いた作品です。
三井グループの発展に寄与した三野村利左衛門が競争相手として登場し、住友グループを作り上げた広瀬宰平は弥太郎と苦労を分かち合った仲であると描かれています。
漫画であるためとっつきやすそうですが、しっかりとビジネスに役立つ中身を持っています。
なお、この作品は2001年に宝塚歌劇団によって舞台化もされています。
まとめ
いかがでしょうか。
それでは、おさらいもかねて、岩崎弥太郎についてもう一度振り返ってみましょう。
1835年に土佐で生まれた岩崎弥太郎は、幕末期は安積艮斎や吉田東洋らのもとで学び、開成館長崎商会へ派遣されてから本格的にビジネスを開始します。
明治期に三菱を創業した彼は、新政府が紙幣貨幣の全国統一化を図った際に大きな富を築いたほか、西南戦争や台湾出兵などで物資・兵の輸送を行い貢献します。
三菱に批判的なグループが共同運輸会社を設立すると、三菱との間に熾烈な競争が起こりました。
この競争のさなかの1885年、弥太郎は50歳でこの世を去り、その後三菱と共同運輸会社は合併して日本郵船が成立しました。
弥太郎が27歳の時に結婚した喜勢という女性は、自分が生んだ子も弥太郎の妾腹の子も分け隔てなく育て、長らく弥太郎と弥太郎の母を支え続けました。
弥太郎の嫡孫である岩崎寛弥氏は2008年に亡くなり、彼に実子がいなかったため岩崎家は断絶の危機にあると言われていますが、弥太郎の娘婿の子孫は現在も幅広く活躍しています。
岩崎家の家紋は「重ね三階菱」です。
弥太郎の残した名言としては、「小事に齷齪するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし。」や「機会は魚群と同じだ。はまったからといって網を作ろうとするのでは間に合わぬ。」などがありましたね。
弥太郎ゆかりの地としては、高知県安芸市にある生家や、東京都台東区にある旧岩崎邸庭園、東京都豊島区にあるお墓などがあります。
弥太郎の成功の秘訣は、良いと思ったことをどんどん取り入れて算術を学んだり、政府役人らとのつながりを大切にしたことにあり、明治期日本を作り上げた主要人物のひとりとして、現在もハーバードビジネススクールで学ばれています。
三菱は弥太郎の死後、二代目弥之助、三代目久弥、四代目小弥太と続き、第二次世界大戦後の1945年の財閥解体により、本社は解散しました。
弥太郎と同時期に実業家として活躍した人物として渋沢栄一がいますが、弥太郎が能力ある個人が利益を得られるべきとしたのに対し、渋沢は公益の追求に重きを置いており、両者には違いがありました。
2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』では、弥太郎は坂本龍馬の幼馴染として登場していますが、実際のところは龍馬が脱藩した罪を許された後に両者の交流が始まっているようです。
弥太郎に関連した書籍としては、『岩崎弥太郎と三菱四代』や、漫画『猛き黄金の国』などがありましたね。
ぜひ一度手に取ってみてください!