今回解説していくのは「カミソリ大臣」と称された外交官である陸奥宗光!
彼はのちにイギリスと不平等条約の改正を成し遂げるのですが、今回はそんな彼について
- 陸奥宗光の坂本龍馬の関係
- 陸奥宗光の生涯と妻について
- 陸奥宗光の身長や名言などについて
- 陸奥宗光が条約改正できた理由
などについて詳しく解説していきたいと思います!
目次
陸奥宗光が坂本龍馬暗殺の黒幕に復讐?
陸奥宗光は坂本龍馬のことを非常に尊敬しており、海援隊のメンバーとして坂本龍馬の盟友となっていました。
そのため、坂本龍馬が暗殺された近江屋事件は彼にかなりの衝撃を与えることになります。
陸奥宗光は早速坂本龍馬を暗殺した張本人を捜索。
そんな中、龍馬が生前にいろは丸沈没事件という和歌山藩との揉め事があったことを思い出します。
このいろは丸沈没事件は龍馬が和歌山藩から多額の賠償金を得たことによって終結しますが、このいろは丸沈没事件の恨みがあり、龍馬暗殺の犯人を和歌山藩士と断定。
海援隊15人とともに紀州藩士がいた天満屋という旅館に襲撃しました。
いわゆる天満屋事件です。
陸奥宗光と坂本龍馬の関係性は?
陸奥宗光は尊皇攘夷思想を持っており、その影響もあってか宗光は江戸にて尊皇攘夷の志士と交流を持つことになります。
さらに、神戸の海軍操練所という海軍の養成所に入るとそこで塾頭として活躍していた坂本龍馬と出会うことになります。
龍馬は宗光の才能を見抜き、副隊長として引き立てられ、さらには海援隊のメンバーとして龍馬の右腕として活躍することになります。
龍馬は宗光のことを「刀を二本差さなくても食っていけるのは俺と陸奥だけだ」といったほど評価していました。
襲撃の結果
天満屋の襲撃によって天満屋は一時騒然。
この時和歌山藩士を警護していた新撰組の3番隊隊長であった斎藤一を含む新撰組の隊員とも斬り合いする事態に発展します。
その結果新撰組の隊員2名が死亡し、斎藤一も危うく落命する危機に追い込まれました。
坂本龍馬暗殺の黒幕は誰だったのか?
龍馬を暗殺した犯人の謎はいまだに解明されていません。
陸奥宗光は犯人を和歌山藩士と断定しました。
ですが、龍馬の出身地である土佐藩の藩士であった谷干城は中岡慎太郎からの証言もあってか犯人を新撰組だと断定。
それが理由となり、谷干城は新撰組の局長であった近藤勇の処刑を主張するきっかけとなりました。
しかし、未だに龍馬を暗殺した理由はまだ分かっておらず、真相は闇の中です。
陸奥宗光の生涯
陸奥宗光は1884年に和歌山藩に生まれました。
元々家は伊達家の分家でこの時の名前は伊達陽之助だったのですがここでは陸奥宗光で統一します。
陸奥宗光の家はまぁまぁの暮らしができていたのですが、父が失脚したお陰で一家全体が苦境に立たされます。
それでも 宗光は江戸に行き、同じく尊皇攘夷であった伊藤博文や桂小五郎などと交流を結ぶことになるのです。
宗光はその後神戸の海軍操練所に入門。
その海軍操練所で坂本龍馬と出会い、龍馬が作った組織である海援隊のメンバーとして活躍。
上で書いた通り、龍馬が暗殺された時には犯人と思わしき人物に襲撃するなどの過激な行動を見せるぐらい尊敬していました。
その後明治時代に入ると岩倉具視にその才能が買われ明治政府の役人として働き出します。
しかし、この当時の政府が藩閥による政治体制だったことに疑問を抱き始め政府を出奔。
さらに西南戦争の時には反政府の活動を行い、五年の禁固刑に処されまでになってしまいました。
宗光はこうして山形の牢屋にぶち込まれることになります。
ですが、彼の才能を知っていた伊藤博文が働きかけてなんとか恩赦を出し、宗光に対してヨーロッパへの留学の支援を行うとします。
宗光は2年ほどヨーロッパに留学すると外交官として働き始め、
- メキシコとの間に日本初の平等条約を締結
- 1894年にはイギリスとの間に日英通商航海条約を締結
- アメリカをはじめ欧米列強とも同じような条約改正を行う
というような活躍ぶりをみせました。
こうして日本の課題であった不平等条約の改正に成功した宗光は「カミソリ大臣」とまで呼ばれる切れ者の外交官として知られることになるのです。
その後日清戦争で日本の大勝利を見届けた後、1997年に死去。
宗光が行った一番知られている業績の領事裁判権の撤廃から3年後での死でした。
妻の陸奥亮子について
陸奥宗光は蓮子と亮子という二人の女性と結婚していました。
残念なことに蓮子は1872年に亡くなってしまったのですが、陸奥宗光はその後明治の東京で新橋の双美人と評されていた亮子と結婚。
先妻である二人の男子と亮子との間に生まれた女子を子育てし、陸奥宗光が山形監獄で禁固刑に処された時には姑の家に身を寄せながら陸奥宗光の帰りを待ったと言われています。
1886年に陸奥宗光が特赦を受けると夫である陸奥宗光は外交官としての腕を磨き始め、妻である亮子も当時日本が力を入れていた社交界にデビュー。
寝る間を惜しんで社交界に必要な教養を身につけ岩倉具視の娘である戸田極子と共に、鹿鳴館の華と評されることになります。
また、1888年に陸奥宗光が駐米大使となると亮子も共に渡米。
渡米先で亮子はワシントン社交界の華と呼ばれれことになりました。
経歴と年表
1844年 紀伊国和歌山藩にて生まれる
1863年 神戸の海軍操練所に入り、ここで坂本龍馬と出会う
1867年 海援隊に入隊する
1877年 反政府運動に加担したとして投獄される
1884年 伊藤博文の推薦もあり、ヨーロッパに留学
1888年 メキシコと始めて平等な条約を締結する
1894年 日英通商航海条約の締結。領事裁判権が撤廃させることに成功
1897年 肺結核によって死去
子孫
陸奥宗光の子供は二人の男子と二人の女子がいました。
次男は新興財閥である古河財閥の創業者の養子になりましたが、残念なことに長男の広吉以外は若くして未婚のままに亡くなっています。
その後、長男である広吉はイギリス人の女性と結婚。
宗光の孫である陸奥イアン陽之助を出産しました。
陸奥イアン陽之助はインタナショナル映画社の創業者であり2002年まで生きていたそうです。
名言
『人より少なく苦労して人より多くの利益を得ようとするのは薄志弱行の者のやることだ。
この考えが一度芽生えると、必ず生涯不愉快の境遇に陥る。』
身長
陸奥宗光の身長は一説によると五尺八寸(175センチ)であったとされています。
この頃の175センチは平均的な日本人と比べると大きい方であり、坂本龍馬と同じぐらいでした。
陸奥宗光と小村寿太郎の違いは?
よく間違えやすい人物として陸奥宗光と小村寿太郎が挙げられます。
日本に課されていた不平等条約の内容である領事裁判権と関税自主権の喪失があったのですが、陸奥宗光はそのうちの領事裁判権の撤廃に成功した人として知られています。
小村寿太郎はもう一つの関税自主権の回復をアメリカとの間で成功させたのですが、小村寿太郎は陸奥宗光のお陰で外交官に抜擢されましたので繋がりはあったみたいです。
陸奥宗光が条約改正を成し遂げることが出来た理由
陸奥宗光が領事裁判権の撤廃に成功した理由は主に二つありました。
一つ目は日本とイギリスが連携を模索し始めたこと。
日本が条約改正に躍起になっていた時、イギリスはというと当時南下政策を行おうとしていたロシアと真っ向から敵対し、クリミア戦争で激突することもありました。
ロシアはクリミア戦争によってオスマン帝国方面への南下をやめますが、これによってロシア中国や朝鮮などに進出する恐れがあったため、ロシアの影響力の防波堤となってくれる国を探していたのです。
そこでイギリスは日本と連携し始めだという訳なんです。
もう一つは日本の法整備が整えられたということ。
領事裁判権とは簡単に言えば自国に派遣された領事という人が外国人の出身国の法律で裁くということ。
日本からしたら不当な判決が出されてしまうため、不平等な内容になるため条約改正の一つの課題となるのですが、外国から見ても領事裁判権を制定したほうがいいと考える理由がありました。
この頃の日本はまだ開国したばかりであり、ヨーロッパのような近代法は見込めない。
そうなると外国人の人権がちゃんと保障されるのか不安になり、領事裁判権を制定するというのが口実となっていました。
しかし、日本のが進み、さらに大日本帝国憲法が制定されると名実と共に近代国家の枠組みが確立。
さらに大津事件によって日本の司法権の独立が確認されるとヨーロッパの列強は領事裁判権の撤廃を行うようになりました。
陸奥宗光の別邸について
日本の外交官として世界を股にかけた陸奥宗光でしたが、彼が所有していた別荘が今も台東区に存在しています。
陸奥宗光の別邸は遠くから見てもひときわ目立つ白塗りの外壁が特徴で、明治時代の洋館の様子を今にも残しています。
ちなみに、この別邸は個人の所有物であるため、内観を見学することはできません。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです!
- 陸奥宗光は坂本龍馬の事を非常に尊敬しており、龍馬が暗殺された時には和歌山藩士を襲撃した
- 陸奥宗光は明治政府の役人として活躍し、妻は社交界の華として活躍した。
- 陸奥宗光は身長175センチと日本人としたら大きい方であった。
- 陸奥宗光が条約改正することができた理由には日本の法整備や当時の英日関係があった。
最後になりましたが、陸奥宗光は外交官として一流で、外国からも非常に有能な外交官として知られていました。
日本が列強として並んだ理由には彼の並々ならぬ努力があったのですね。