今回解説していくのは幕末の三舟に数えられた山岡鉄舟!
彼がいたからこそ江戸無血開城が成し遂げられたといっても過言ではありません。
今回はそんな山岡鉄舟について
- 山岡鉄舟の一生と功績について
- 彼と勝海舟や明治天皇の関係について
- 山岡鉄舟の逸話と現在でも注目されている彼の業績
- 山岡鉄舟が交渉した石碑と書籍
などを詳しく解説していきます!
目次
山岡鉄舟の一生!
山岡鉄舟は1836年に旗本であった小野朝右衛門の長男として江戸に生まれました。
そもそも両親は、
- 母の家系:あの伝説の剣豪塚原卜伝につながる由緒正しき家
- 父の家系:代々武芸を指導する家
であり、武芸の家系のサラブレッドと言える山岡鉄舟でしたが、そんな彼は北辰一刀流や槍術樫原流をマスター。
身長は188センチ、体重は105キロという規格外の巨漢に育ち大人になると幕府の家臣として活躍することになります。
山岡鉄舟は1862年に浪士組が結成されるとその取締役に就任。
山岡鉄舟は幕府が浪士組を江戸に呼び戻すと即座に帰還。
この時残っていた浪士組がのちの新撰組になるのですからもしかしたら山岡鉄舟は新撰組の一員になっていたかもしれません。
その後は幕末の動乱であったとしても剣術に打ち込み、武士道通りの生活を送っていくことになるのですが、幕府の方はというと1867年に大政奉還によって消滅。
薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を蹴散らして江戸に向かっている状態でした。
慶喜はもうこれ以上の抵抗は不可能として新政府に恭順することを表明するのですが、こうなったら誰かが新政府軍と和睦の交渉を行わなければなりません。
幕臣からは高橋泥舟を推薦する声が多かったのですが、勝海舟は気概が凄まじかった山岡鉄舟を交渉役として抜擢。
鉄舟はこれを受けて「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府にまかり通る!」と叫びながら総大将である西郷隆盛がいる駿府に来訪。
西郷隆盛にもその気迫を見せつけある程度の新政府軍の譲歩を取り付けて江戸無血開城の道を開いたのです。
無血開城後は彼は駿府藩の藩政に携わったり、明治政府の役職についたりして最終的には明治天皇の従者となります。
しかし、彼は明治時代に入っても武士道を貫き1888年53歳でこの世を去りました。
功績
山岡鉄舟の功績といえばやはり、江戸無血開城に一役買ったことでしょう。
この時期新政府軍は徳川家がいた江戸城を総攻撃しようと江戸に向かって進軍していましたが、もしも新政府軍が江戸に入ったら江戸は火の海になることは明らか。
徳川慶喜は新政府軍に恭順する姿勢を見せましたが、新政府軍は御構い無しに進軍する様子を見た勝海舟は山岡鉄舟に対して西郷隆盛に面会するように命じます。
鉄舟は新政府軍が駐留していた駿府に訪れ西郷隆盛に面会。
この地にて交渉を開始します。
この時西郷隆盛は徳川家に対して
- 江戸城の明け渡し
- 城中の兵を向島に移す
- 兵器を新政府軍に明け渡す
- 徳川慶喜を備前藩に預ける
などの条件を提示。
しかし、徳川慶喜の備前藩預かりに納得のいかなかった鉄舟は西郷隆盛に対して「島津久光がもし徳川慶喜と同じ立場であったらあなたはその条件を呑むのですか!」と反論。
西郷隆盛は敵地のど真ん中に単身乗り込んで、交渉を行う彼の姿に動かされ、将軍の身柄の安全を必ず行うと保証。
ここでは新政府軍の進軍は停止しませんでしたが、これによって奇跡的とも言える江戸無血開城が成し遂げられることになったのです。
年表
1836年 奉行の息子として生まれる
1855年 講武所に入門 ここで剣術と槍術を学ぶ
1862年 江戸幕府の浪士組の取締役に就任する
1868年 江戸無血開城を成し遂げるために駿府にて西郷隆盛と会談
1872年 明治天皇の侍従となる
1887年 子爵に任ぜられる
1888年 53歳で死去
身長と体格は?
山岡鉄舟の体格は凄まじいもので
- 身長:188センチ
- 体重:108キロ
と当時としたら桁違いの堂々とした体格の持ち主でした。
よく、体格が良いと言われる西郷隆盛でさえ180センチほどですので彼の巨漢ぶりがわかると思います。
死因と最期は?
江戸を火の海にすることを阻止して明治時代には明治天皇の侍従として活躍します。
ですが、50歳を超えると病に悩まされるようになり、1888年に胃癌にて53歳でこの世を去りました。
しかし、山岡鉄舟は最後まで武士道の精神をやめることはなく、その最後も皇居に向かって結跏趺坐をしながらという壮絶なものでした。
また、彼を慕っている人は数多く葬儀には5000人以上の参列者が見送り、明治天皇は彼が送られる様子を見ながら死を悼みました。
墓の場所は?
山岡鉄舟が眠る墓は東京都台東区谷中の全生庵にあります。
実はこの全生庵は山岡鉄舟が明治維新の時に殉じた人々の菩提を弔うために自身が創建に携わった寺。
ここに埋葬されることは鉄舟にとったら深い意義があったのですね。
山岡鉄舟と明治天皇の関係
山岡鉄舟は明治時代に入ると駿府藩の藩政に関与することになりました。
ただ、彼の能力の高さを見抜いていた西郷隆盛の推薦もあってか鉄舟は10年の期限付きで明治天皇の侍従として務めることとなります。
明治天皇は彼の剛直な性格をよく気に入っていました。
鉄舟自身も明治天皇に情愛を持ちながら、明治天皇が深酒をした時には厳しく諌めたという一面を見せながら侍従の務めを果たしたのでした。
山岡鉄舟と勝海舟の関係
山岡鉄舟と勝海舟は共に幕末の三舟に数えられています。
この2人が面と向かって対談したのは江戸無血開城の交渉を行う時であったとされています。
しかし、勝海舟は彼の才能は並大抵のものではないと確信し、彼に西郷隆盛との交渉役という大役を与えたのです。
ちなみに、幕末の三舟のもう1人の人物である高橋泥舟は彼の義理の兄に当たります。
山岡鉄舟の逸話と名言
山岡鉄舟は江戸無血開城がなされた後、徳川宗家に従い新領地である駿府に移転することになります。
そこで山岡鉄舟は農民が捨てて荒地となっていた牧之原台地の開墾に携わり、その開墾の責任者である中条金之助に対してお茶の栽培を推薦して静岡県を緑茶の一大産地としたのです。
名言
『武士というものは出所進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上は至誠もって一貫するのが真の武士でありまた武士道でもある。』
山岡鉄舟の作品は現在でも注目されている?
山岡鉄舟は交渉人として活躍しただけではなく、書道・剣術・禅にものすごく長けており、特に剣道と書道は今の残るようなものばかり。
例えば書道だと銀座に本店を置くあんぱんを作ったことでおなじみの「木村屋」の看板や山本海苔店の商品に残っており、剣術はこれまでの人を倒すための剣術に精神修行も取り入れるなど近代剣道の源流となる理念に影響を与えるたんだそうです。
山岡鉄舟の武士道は今の世にも脈々と受け継がれているのですね。
静岡にある西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑について
決死の覚悟で交渉に打って出た山岡鉄舟。
そんな彼が西郷隆盛と会談した場所は今は石碑として残っています。
場所は静岡電鉄新静岡駅から歩いてすぐ。
訪れてみたらこの当時の緊張感を味わえるかもしれませんね。
山岡鉄舟についての書籍
山岡鉄舟のことについてもっと知りたいのであれば本を読むのがオススメです。
特にオススメなのが高野澄が編訳した山岡鉄舟剣禅話と小島英記著作の山岡鉄舟決定版。
剣禅話の方は剣人としての山岡鉄舟の考えが読みやすい内容で載っており、彼が思った剣術のあり方に触れることができます。
山岡鉄舟決定版の方では山岡鉄舟がどの様な生涯を歩んでいったのかをわかりやすく解説しており山岡鉄舟をもっと深く知りたい方にはオススメの本です。
それではまとめに入りましょう!
まとめ
まとめです!
- 山岡鉄舟は武芸に優れていた家に生まれ、剣人としても活躍した。
- 山岡鉄舟は西郷隆盛との交渉をなんとかまとめた
- 山岡鉄舟は勝海舟から交渉の役を任され、明治天皇からは信頼されていた。
- 山岡鉄舟は書道家としても知られており、その作品は木村屋の看板などに残っている
- 山岡鉄舟は明治時代に入っても武士道を忘れることなく、最期は皇居に向かって結跏趺坐をしながら亡くなった。
最後になりましたが、彼の凄いところは交渉役として江戸無血開城を成し遂げる原点を作ったのもありますが、それよりも武士道を最期まで貫いたことにあると思います。
明治時代に入って武家社会が崩壊しても彼は立派な武士だったのですね。