今回解説していくのは大宝律令の制定に関わり、藤原氏の権力を確立した藤原不比等!
この人と息子達が藤原氏を盛り立てていくのですが、今回はそんな藤原不比等について
- 藤原不比等の系図と藤原不比等と皇室の関係
- 藤原不比等が持っていた二つの顔
- 藤原不比等と竹取物語の車持皇子との関係
- 不比等が日本書紀を改竄した疑惑
などなど詳しく解説していきたいと思います!
目次
藤原不比等と系図について!
藤原不比等は中大兄皇子と共に大化の改新を推し進めていった中臣鎌足の次男として生まれました。
しかし、中大兄皇子の右腕であった中臣氏は壬申の乱で大友皇子側についたことによって没落。
藤原不比等はまだこの頃は幼かったため罪には問われなかったのですが、この一件のせいで不比等はおろか、藤原氏も没落してしまいます。
その後不比等は刑部省の下級役人からスタートすることになりました。
ただ、皇族出身である県犬養三千代のバックアップを得たこともあり、自身が使えていた草壁皇子の息子を天皇に擁立し権力を確立。
さらに自身の娘を積極的に天皇家に嫁がせ、娘の藤原宮子は文武天皇の妻となり聖武天皇を出産。
さらに藤原光明子を聖武天皇の皇后とさせ日本史上の皇族出身以外の皇后を誕生させる偉業も成し遂げました。
藤原氏はこうして天皇家に溶け込みはじめ、不比等の息子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)へとバトンタッチした後も朝廷で絶大な権力を誇り、平安時代に朝廷を牛耳ることになる名門藤原氏の基礎を打ち立てたのでした。
藤原不比等とは?
藤原不比等は中臣鎌足の次男として生まれ、朝廷に仕え始めた時は下級役人だったのですが最終的には朝廷のトップ2である右大臣にまで昇進しています。
その理由の一つに彼の最大の功績である大宝律令の制定に大きく関わったことにあると思います。
大宝律令自体は刑部親王中心で制定されたのですが、不比等はこの朝廷の一大事業に積極的に参加。
さらに、皇室との関係を深めていき、朝廷の信頼を完全に勝ち取った不比等は朝廷の重鎮としての地位までに上り詰めたのでした。
その後は、自身の娘を天皇の妻にするなど藤原氏の権力基盤を確固たるものにしていき、その傍で興福寺の建立、養老律令の制定に携わりました。
しかし、不比等は養老律令の実施前に死去。
藤原氏は息子である四兄弟がさらに盛り立てていくことになるのです。
系図
藤原不比等は中臣鎌足の次男として生まれ自身の娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせました。
ちなみに、藤原不比等の息子である四兄弟も不比等の娘であった藤原光明子を聖武天皇の皇后にさせるなど朝廷と藤原氏の関係を強化させていきます。
藤原氏は自身の娘を天皇に嫁がせて自身は摂政や関白になる摂関政治を行い権力を固めていきましたが、藤原不比等やその息子たちも同じようなことをやったのですね。
藤原不比等には2つの顔がある?
藤原不比等には二つの顔を持っていたと言われています。
不比等は元々次男という立場もあってかなかなか藤原氏の長者になることもなく、自身は法律について学んでいた学者の下で暮らしていました。
そのため、この頃アジアの大帝国であった唐の法律を学ぶことができ、藤原不比等は最初は刑部省(法律に関わる省)の下級役人としての生活を送る様になります。
つまり、元々藤原不比等は政治家ではなく、法律を扱う判事として朝廷に入ったというわけなんですね。
ちなみに、藤原不比等の業績の一つである大宝律令を制定したのはこの法律学者としての時代の頃なんです。
しかし、藤原不比等が仕えていた草壁皇子の息子である軽皇子が天皇になれる地位に来ると不比等はこの皇子を必死に擁立。
大宝律令を制定したということもあってか、朝廷からの信頼は厚く、さらには皇族出身であった県犬養三千代のバックアップもあり、軽皇子は文武天皇として天皇として即位。
次男筋であるにもかかわらず、朝廷内で強大な権力を手に入れ、藤原氏の本筋として認定を受けたのでした。
藤原不比等は最初は政治家としてはパッとせず、法律家としての道を歩んでいきましたが、軽皇子を擁立したことで政治家としての道も歩んでいったということなんですね。
墓の場所
藤原不比等の墓は2つあるとされています。
このようになったのは藤原不比等が埋葬された場所が明確に示されていないことがありました。
墓と言われている一つは奈良県にある聖武天皇陵の近く。
その陵の前には藤原不比等を讃える顕彰碑がありました。
もう一つは同じく奈良県の談山神社内にある淡海霊廟。
淡海というのは藤原不比等が亡くなった時に贈られた諡でした。
日本書紀で歴史を捏造?
古代日本を知る上で重要な手がかりとなる日本書紀。
しかし、日本書紀のような歴史書というのは基本的に作者やその本のテーマとなる人物を過剰に英雄視したり、逆に敵であった人を徹底的に貶したりしている可能性があるため一律的に信用していいのかは断言できないのが事実なんです。
日本書紀の場合だと、中心的な編纂者に藤原不比等がいました。
しかし、藤原不比等は中臣鎌足の息子であり大宝律令の制定など天皇中心の国家を建設していたこともあり、天皇よりも権力を持っていた豪族たちが言ってしまえば都合が悪い存在だったのです。
特に、古代日本は蘇我氏が強い権力を持っており、一時期は天皇よりもはるかに凌ぐ強大な権威を持っていました。
そのため、不比等は蘇我氏の功績をなくして、その代わりにその功績を天皇や皇子などがやった風に書き換えたという説があるのです。
この書き換えたことによって誕生したのがいわゆる聖徳太子だと言われています。
聖徳太子はもしかしたら藤原不比等によって作られた存在だったのではないかと言われているのです。
かぐや姫の登場人物?
現時点では日本初の物語である竹取物語。
その登場人物の1人に車持皇子という人がいました。
車持皇子はかぐや姫と結婚する条件として出されたミッションである蓬莱の玉の枝を取りに行くというものを職人に作らせてかぐや姫に披露したものの、最終的にはバレてしまい笑い者になってしまう間抜けな皇子としての描かれています。
この間抜けな皇子が藤原不比等をモデルにしているという説があるのです。
まず、藤原不比等の母は車持氏。
これだけでも結構説としては有力なものなんですが、しかし藤原不比等は皇族ではありません。
実はこれにはこの当時の不比等の噂が関係しており、不比等は実は天智天皇(中大兄皇子)の御落胤だったのではないか?という噂が流れていたのです。
竹取物語がいつ書かれたのかについての詳細な記録はありません。
ですが、奈良時代や平安時代であればこの説はかなり信じられていたそう。
竹取物語の作者はこの噂を基にして車持皇子というキャラクターを作ったのではないかと思います。
藤原不比等と長屋王との関係
奈良時代初期には藤原氏のほかに様々な朝廷の有力者がいました。
その中の1人に長屋王という皇族出身の人がいました。
長屋王といえば教科書では裕福な豪邸を持っていたとされ、奈良時代初期の貴族の例としてあげられるほどの豪勢な生活を持っていたとされますが、のちに藤原氏によって長屋王の変という形で自害に追い込まれてしまいます。
しかし、この長屋王の変を起こしたのは藤原氏は藤原氏でも不比等の息子のあの四兄弟の時代。
藤原不比等の頃は関係は良好な方であり、不比等の娘が長屋王の妻になったりするほどのものだったそうです。
しかし、権力基盤を固めはじめた藤原氏にとったら長屋王は邪魔だったのでしょうかね。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめに入ります!
- 藤原不比等は中臣鎌足の次男であり、壬申の乱もあって最初は下級役人からのスタートだったが、大宝律令の制定などで活躍して朝廷に重用されるようになった
- 藤原不比等には法律家と政治家の二つの顔を持ち合わせていた
- 藤原不比等は竹取物語の登場人物である車持皇子のモデルという説がある
- 藤原不比等は天皇中心の国家づくりのために日本書紀を改竄したという説がある
- 藤原不比等は長屋王との関係はよく、自身の娘を嫁がせたりしてきた
最後になりましたが、藤原氏はここから次男の北家を中心として平安時代に大きく栄えることになりました。
その裏にはやはり、藤原不比等のただならぬ活躍があったからなんでしょうね。