今回ご紹介するのは、卑弥呼です。
日本史上最大の謎とも言われるのが邪馬台国、そしてその女王であった卑弥呼です。
そんな卑弥呼はいったいどんな人物で、そして彼女が生きていた頃にはどのようなことが起きていたのでしょうか。
- 卑弥呼はどんな人物だった?
- 卑弥呼と天皇の関係は?
- 卑弥呼の墓の場所は?
今回は特にこのような点について詳しく見ていくので、是非ご注目ください!
目次
卑弥呼について詳しく解説!
卑弥呼は、邪馬台国の女王であったとされる人物です。
邪馬台国は2世紀から3世紀に存在したとされる国であり、卑弥呼は3世紀中頃の王の一人でした。
卑弥呼が王となる前、日本では争いが起こっていましたが、卑弥呼を王とすることでこの争いは収まりました。
その政治は占いを基にしていたと言われています。
ですが、王となった後の卑弥呼は、ただ一人の男子を除いて目にする者は少なかったようであり、謎に包まれています。
卑弥呼が亡くなった際には、巨大な塚が作られ、奴婢が100人以上殉葬されたようです。
卑弥呼とは
前述のように、卑弥呼は邪馬台国の女王でした。
邪馬台国については、今でもさまざまな議論がなされていることで有名です。
その場所は畿内なのか九州なのか、のちの大和朝廷との関係はどのようなものなのか、などの点はよく論争されています。
そんな邪馬台国を治めた卑弥呼は、即位時はすでに高齢であり、弟に政治の補佐をしてもらっていたようです。
その政治は占いをもとにしていたと伝えられています。
次の章では、卑弥呼は実在したのかどうかについて見ていきます。
本当に実在したのか?
実は「卑弥呼」の名前は、当時の中国で付けられた名前です。
そのため、当時の日本で彼女が「卑弥呼」と呼ばれていたという確証はないのですが、「卑弥呼」に該当する人物が存在したのは確かなようです。
その人物の候補はいくつかあるのですが、そのうちの一人として有名なのが、天照大神です。
学者によっては、卑弥呼と天照大神の生きていた時代は重なるとされています。
また、天照大神にも弟スサノオがおり、卑弥呼が弟に政治を補佐させた点とも符合しているようです。
しかし、天照大神は男性であるという考えもあり、この説が正しいとは言いきれないのです。
次に、卑弥呼や邪馬台国にとっての貴重な史料である『魏志倭人伝』について見ていきます。
中国の歴史書『魏志倭人伝』
邪馬台国および卑弥呼についての貴重な史料と言えるのが、『魏志倭人伝』です。
これは『三国志』のうちの「魏書」東夷伝倭人条のことであり、中国で3世紀末頃に書かれました。
ここでは当時の日本の様子が記されており、前述の卑弥呼の特徴も、この「魏志倭人伝」において述べられていることなのです。
しかし、ここでの記述は不明瞭な部分も多いため、邪馬台国の場所などについて今も論争が絶えないのです。
次に、卑弥呼の政治を助けたとされる彼女の弟について見ていきます!
卑弥呼の弟
卑弥呼は王となった時、すでに高齢であったようであり、弟に政治を補佐してもらっていました。
卑弥呼は民衆の前に姿を現わすことはほとんどなかったようですが、弟は卑弥呼の伝言のために、表に出ていたのです。
卑弥呼が天照大神であり、弟がスサノオである、という説を先の章で述べましたが、ここでもう一つの説をご紹介します。
スサノオは、出雲で王となったとされており、邪馬台国の支配には関与していないというのです。
つまり、卑弥呼の政治を助けていたのは、スサノオではありません。
天照大神にはもう一人の弟、ツクヨミがいました。
そのツクヨミこそが、卑弥呼を補佐した人物なのではないか、という説なのです!
しかし、これらは『古事記』や『日本書紀』の記述から唱えられた説ですので、確証はないのです。
次に、卑弥呼の死因について見ていきます。
死因は?
卑弥呼は、誰かに殺されて亡くなったという説があります。
当時日本にあった狗奴国と邪馬台国が対立し、狗奴国の王である卑弥弓呼によって殺されたという説です。
また、当時の日本では皆既日食が見られたようであり、これが卑弥呼の「魔力」の衰えと捉えられ、殺されたという説もあります。
次に、卑弥呼がいた当時の世界の状況を簡単に解説します。
卑弥呼の時代は?
卑弥呼の生きていた時、日本は弥生時代でした。
当時の世界の主な出来事を簡単に見ていきます。
中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となりました。
ヨーロッパではローマ帝国が広大な領土を有していましたが、何人もの皇帝が廃立される軍人皇帝時代でした。
いずれも、国内において統一した政権の基盤が整っていなかった、ということが言えそうですね。
次の章では、卑弥呼と天皇の関係について迫っていきます!
卑弥呼と天皇の関係
卑弥呼が現在の天皇とどのような関係にあるのかについても、議論が行われています。
そのことに関連して、邪馬台国と大和朝廷の関係性についての議論があります。
日本は昔「倭」と呼ばれており、その後「日本」と改名したとされています。
ですが、中国の書物『旧唐書』には、日本は倭国を併合して日本と改名した、という記述があります。
また、書物に「日本国」の名前が登場するのは、650年頃のことです。
つまりこの論理から考えると、邪馬台国の王統は650年頃まで続き、これを境に大和朝廷の王統に移ったということです。
卑弥呼と現在の天皇には繋がりがない、という結論となりますね。
ただ、異説もあり、断定はできない状況にあるのです。
次に、卑弥呼と天照大神が同一人物であった、という説について見ていきます。
卑弥呼=天照大御神?
卑弥呼=天照大神であるという説を先の章でご紹介しました。
そもそも天照大神は、日本神話に登場する神様です。
『日本書紀』では「天照大神」、『古事記』では「天照大御神」と表記されています。
天照大神には弟としてスサノオやツクヨミがいるので、天照大神と卑弥呼が同一人物である可能性は十分にあるのです。
しかし、卑弥呼の死後起こった争いを収めたのも女王であり、その女王こそが天照大神であるという説もあります。
さまざまな解釈が存在しますが、確たる証拠はまだ見つかっていないのです。
次に、卑弥呼の墓の位置について言及していきます。
卑弥呼の墓はどこ?
卑弥呼の墓の場所は、邪馬台国の位置と同様、多く議論されている点の一つです。
これまでは、奈良県に存在する前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説が強かったようです。
『魏志倭人伝』に記載されている円墓の直径と、この箸墓古墳の後円部の直径が一致していると言われているからです。
しかし、巨大な前方部についての記載がないことが不自然であるとして、異議も唱えられてきました。
そして近年注目されるようになったのが、福岡県赤村にある前方後円墳と思われる丘陵です。
こちらも『魏志倭人伝』に書かれている大きさと一致しています。
- これこそが卑弥呼の墓なのではないか
- 邪馬台国も九州の地にあったのではないか
という説が浮上してきたのです。
次の章からは墓の候補地とされる場所について見ていきます。
まずは福岡県赤村にある丘陵です。
福岡県の赤村
前章で述べた、一躍卑弥呼の墓の候補として挙げられた、福岡県赤村の丘陵ですが、実際にはどうだったのでしょうか。
実のところ、この丘陵についての調査はあまり進んでいないのです。
現地の人々の中には発掘に反対する意見もあるため、発掘に踏み出せないようなのです。
現地の自治体の文化財担当者たちは、丘陵は自然の地形であるとして、前方後円墳であるという見方を否定しています。
真偽は謎のままになっているということですね。
次に、奈良県の箸墓古墳について見ていきます。
奈良県の箸墓古墳
箸墓古墳は奈良県桜井市に存在する前方後円墳です。
この古墳は、宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されていますが、卑弥呼の墓ではないかとする研究者もいます。
前述のように、
- 円部分の大きさが正しいとみられる
- 箸墓古墳は大規模な古墳の中では最も早い時期に築造されている
これらのことなどが、この説を支えています。しかし、
- 古墳の前方部の記述が『魏志倭人伝』にないこと
- 箸墓古墳の築造時期は卑弥呼が亡くなってから少し後のこと
と推定されており、年代的に矛盾することなどから、この箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという可能性は低くなっているのです。
箸墓古墳の発掘も実は最近許可が降りたばかりなので、これから新事実が発見されることに期待したいところですね。
次に、もう一つの候補地として挙がっている、ある神社について見ていきます。
徳島県の八倉比賣神社
八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)は徳島県徳島市にある神社です。
実は、邪馬台国の位置の候補地として、この徳島県も名乗りを挙げているのです。
この「邪馬台国徳島説」では、「卑弥呼=天照大神」と考えられています。
八倉比売神社は、徳島県で最も神格が高い神社であり、「八倉比売命」は天照大神の別名であるとしています。
境内には卑弥呼の墓とも考えられる岩が存在します。
つまり、「卑弥呼=天照大神=八倉比売命」ということであり、この神社は卑弥呼に関係するという考えがあるのです。
真偽のほどは定かではありません。
ですが、この徳島市には約200もの古墳が集まっている地域があり、大昔から発展していた地域であることは間違いないようです。
次の章では、卑弥呼が亡くなった際に行われたとされる殉葬について見ていきます。
卑弥呼の墓に100人が生き埋めに?
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が亡くなった際、100人以上の人々が殉葬されたようです。
当時、殉葬は生き埋めにする習わしがあったとされているため、とても悲惨な現場となったのではないかと言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、卑弥呼について振り返ってみましょう。
卑弥呼は、3世紀に存在したとされる人物で、邪馬台国の女王でした。
3世紀と言えば、中国は三国時代、ローマ帝国は軍人皇帝時代であり、いずれも混乱の時期であったと言えます。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は占いにより政治を行っていたようで、彼女の弟が彼女の政治を補佐していました。
卑弥呼の実在を証明するものは出そろっているとは言えませんが、彼女にあたる人物は本当に存在したと言われています。
卑弥呼は天照大神と同一人物であったという説があり、天照大神にも弟としてスサノオやツクヨミがいたことなどがその根拠でしたね。
卑弥呼は当時存在した狗奴国との対立などが原因で殺されたという説があり、卑弥呼が亡くなった際には100人以上の人々が生き埋めにされたとも言われているのです。
邪馬台国の王統が続いたのが650年頃までであり、その後大和朝廷の王統に移ったという説が正しければ、卑弥呼と天皇には関係がないということになります。
卑弥呼の墓の場所としては、奈良県の箸墓古墳や福岡県の前方後円墳と思われる丘陵、徳島県の八倉比売神社などが候補として挙がっています。
古墳の発掘調査はこれから本格的に行われていくと思われるので、最新の情報にも注目してみてください!