今回ご紹介するのは、西南戦争です。
長らく続いた武士による封建社会から脱し、近代国家へと歩もうとする日本でしたが、その国策をめぐって首脳陣は対立していました。
そして、旧来の特権・矜持を奪われた士族たちの不満も高まっていました。
そんな時に起きた、日本の「最後の内戦」では、いったいどのような攻防が繰り広げられたのでしょう。
- 最大の激戦地田原坂では何が起きていた?
- 城山に籠もった西郷軍の動向は?
- 西郷隆盛と大久保利通の対立の理由は?
今回はこれらについて特に詳しく見ていこうと思います!
目次
西南戦争とは?簡単に解説!
西南戦争は、1877年に起こった、西郷隆盛を中心とした士族による反乱です。
明治政府は近代化を進めていく中で、廃刀令や金禄公債証書発行条例を発布します。
この2つの条例によって士族は帯刀・俸禄の支給が認められなくなり、士族の不満は高まっていました。
この頃立て続けに、熊本県では神風連の乱が、福岡県では秋月の乱が起こります。
これらの戦いは士族の不満から生じたものです。
西郷隆盛は、当時政変に遭って下野していたのですが、鹿児島県で私学校を創設しています。
当時鹿児島県の持っていた武器はかなり充実しており、中央政府としては前述のような士族反乱をこの鹿児島でも起こされては困るということで、武器の略奪を行います。
これに加えて、警視庁の一部の者が西郷を暗殺するという計画を立てていたことを知った私学校徒は、ついに戦争へと動き出すのです。
この戦いは西郷隆盛の切腹ののち明治政府の勝利に終わりました。
この戦いは士族反乱の中でも最大規模のものであり、双方とも6000人以上の戦死者を出しました。
また、この戦いは2019年現在、日本の最後の内戦となっています。
次に、西南戦争での写真をご紹介します!
西南戦争の写真
まず、後の章で見ていく「城山の戦い」が行われた場所での、帝国陸軍の要塞です。
次は、明治政府の征討軍のうちの、熊本鎮台の人々の写真です。
次に、西南戦争の名前の由来や発生の原因、結果や生き残りの人物について見ていきます!
西南戦争の名前の由来
「西南戦争」という名前は、この戦争が九州、すなわち日本の南西の方角で行われたことに由来します。
「南西戦争」ではないのは、当時の日本は中国の影響を受けて先に東・西を表記していたためです。
原因やきっかけ
前の章で述べたように、原因は士族の不満にありました。
それに火を点けたのが、鹿児島の保有する武器の略奪事件と、西郷隆盛の暗殺未遂事件でしたね。
西南戦争の結果
西南戦争は、明治政府側の勝利で幕を下ろしました。
どちらも6000人にも上る戦死者を出した、最大の士族反乱となりました。
生き残りは?
西郷軍は、西郷の自刃を含め、多くの指導者が戦死・自刃しています。
生き残りの一人に別府九郎という人物がいます。
彼の弟は別府晋介といい、西郷の切腹を介錯した人物でした。
九郎は、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていたため、自刃を選ばず明治政府軍に降伏しました。
九郎は懲役5年の刑を受け、明治15年に亡くなったと言われています。
次の章では、最大の激戦地である田原坂での戦いを見ていきます!
最大の激戦地!田原坂の戦い
この西南戦争の中でも最大の激戦地と言えるのが、田原坂の戦いです。
博多から熊本までの道で唯一大砲を引いて進めるのがこの田原坂でした。
そのため、ここの突破は両軍にとってかなり重要な意味を持っていました。
西郷軍は当時守勢にまわっており、一方の征討軍(明治政府軍)は山県有朋の率いる兵が博多に到着するなど、戦力が増強していました。
田原では征討軍から開戦しますが、薩軍(西郷軍)は強固な陣地を形成しており、征討軍は思ったほど進軍できません。
征討軍は田原からの突破に専念することとなり激闘が繰り広げられますが、突破できない日々が続きます。
これまでの戦いにおいて、征討軍はかなりの兵力をつぎ込んできたのですが、それに見合った戦果を挙げることはできていませんでした。
その現状を打開するためには田原坂を突破することが肝要と考え、ついに征討軍は大きな作戦を練ります。
一つは抜刀隊の編成です。
抜刀隊は、白兵戦に強い薩軍と対等に渡り合う実力を持っていたのです。
抜刀隊についてはのちの章で詳しく見ていこうと思います。
もう一つは、今までにないほどの兵力の投入です。
結果的にはこれが大きな損害を薩軍に与え、17日の戦闘の結果、ついに征討軍は田原坂を突破することに成功しました。
この田原坂の戦いでは両軍ともかなりの兵力・弾薬を消耗しており、戦地では銃弾同士が空中で衝突する行合弾という現象も起こっていたようですよ。
地図
次の章では、城山籠城作戦をとってからの戦いについて見ていきます!
城山の戦い
戦争もいよいよ終盤となり、薩軍は城山という場所で籠城作戦をとることとなりました。
当日征討軍の戦力は7万人程であったのに対し、薩軍は4百人弱しかおらず、すでに薩軍が窮地にあったことは確かでした。
それでも、薩軍は住民の助けもあり鹿児島市街をほぼ制圧しており、征討軍はまだ油断のならない状況にあったのです。
しかし、やはり戦力の格差は大きく、すぐに形勢は逆転され、城山を包囲する形となります。
以降征討軍からは降伏や自決などの勧告が出されますが、西郷はそれらを無視。
そのため、包囲されてから20日弱ほどして、征討軍による総攻撃が始まりました。
薩軍も応戦しますがここではさすがに対等に渡り合えることはありませんでした。
西郷は自刃し、他の部下たちの多くも自刃・戦士しました。
この戦いをもって、長きに渡る西南戦争は終結したのです。
次に、西郷の最期について見ていきます。
西郷隆盛の最後は?
城山籠城中、征討軍側の山縣有朋から西郷に向けた、自決を勧める書状が来たのですが、西郷はそれを無視していました。
総攻撃が開始すると、西郷も被弾して負傷します。
部下である別府晋介を見て、西郷はこの城山での自刃を決め、別府晋介はその介錯をしました。
これが、西郷隆盛の最期でした。
次に、薩軍が熊本城を攻略できたのかどうか、そしてそこに立ちはだかった意外な武将について見ていきます!
薩摩軍の熊本城攻略
当初薩軍は、熊本城の攻略を目論んでいました。
当時の熊本城は、明治政府の熊本鎮台により守られており、ここの突破は薩軍にとってのキーポイントの一つでした。
しかし、かなりの兵力を投入したにも関わらず、薩軍は熊本城を攻略できずに終わります。
この理由の一つには、熊本城を建造した戦国武将・加藤清正が関わっています。
清正は城の防御面にかなり神経を使っていたようで、熊本城の石垣は上に向かうほど勾配が険しくなるようできており、登ることができないようになっています。
西郷自身、自分は征討軍に負けたのではなく清正公に負けたのだ、と言ったようです!
次の章では、征討軍の田原坂突破に大きく貢献した、抜刀隊について見ていきます!
抜刀隊とは?
前述の田原坂突破を図る際に、征討軍は抜刀隊を編成します。
征討軍が田原坂をなかなか突破できなかった理由の一つとして、薩軍が白兵戦に強かったことが挙げられます。
征討軍は、この白兵戦への早急な対応に追われたのです。
そこで、陸軍の部隊の一つである警視隊から、剣術の優れた者を選抜し、抜刀隊を編成しました。
抜刀隊は薩軍と互角に渡り合い、田原坂の突破とその後の征討軍の進軍に大きな役割を果たしました。
抜刀隊の活躍が与えた影響は大きく、戦後剣術などの価値が再認識され、さらに日清戦争の際にも抜刀隊のような組織を作るべきだという声が上がったのです。
次に、西郷隆盛と大久保利通が対立した理由について見ていきます!
大久保利通と西郷隆盛が対立した本当の理由は?
大久保利通と西郷隆盛は、幕末には手を取り合って倒幕運動も行っていました。
武力による倒幕を図る過激派たちを抑えられるのは西郷しかいないと、大久保は信頼していたのです。
しかし明治時代に入り、両者は対立します。
それは、韓国を武力で開国させるか否かという、征韓論をめぐって起きました。
大久保が岩倉使節団の一員として欧米の視察に向かったため、日本は西郷らによる留守政府に任されることとなりました。
西郷は平和的に開国させることを第一としていましたが、もし自分が殺されでもしたらその時に戦争を仕掛ければいいだろう、という考えでいました。
ですが、欧米を視察してきた大久保は、一刻も早く内政を整えるべきだという考えであり、ここで両者は対立します。
この対立がもとで、西郷は明治六年政変で辞職し、鹿児島へと戻ることとなったのです。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、西南戦争について振り返ってみたいと思います。
西南戦争は、1877年に士族の不満から起きた最大の士族反乱で、旧薩摩軍と明治政府が交戦し、双方6000人にも及ぶ戦死者を出しつつ、明治政府の勝利となった戦いです。
直接の原因となったのは、鹿児島の保有していた武器を政府が略奪したことと、西郷隆盛を警視が暗殺しようとしたことでした。
西郷は大久保利通と、征韓論をめぐって対立しており、これが発端となった政変により下野していました。
「西南戦争」の名前は、日本の南西の方角でこの戦いが行われたことに由来します。
戦いの序盤において、薩軍は熊本鎮台の守る熊本城を攻めますが、攻略することはできませんでした。
これには、熊本城を築いた戦国武将・加藤清正が関わっていました。
また、最大の激戦地とも言えるのが田原坂での戦いで、征討軍は地の利を活かして戦う薩軍に苦戦しつつ、なんとか突破に成功します。
この田原坂突破に大きく貢献したのが抜刀隊であり、この抜刀隊の活躍は後世にも大きな影響を与えていましたね。
薩軍は戦いの最終局面で、兵力をかなり失ってしまうと、城山籠城作戦をとりました。
しかし、征討軍の総攻撃を受けている最中に、西郷は自刃し、その後まもなくして戦いは終結しました。
西郷の介錯を行った別府晋介の兄九郎は、自決を選ばず征討軍に降伏しますが、懲役5年となったようです。
今後の士族の動きは自由民権運動にもつながっていくので、是非ご注目ください!