今回解説していくのは日本が中国との関係を結ぶようになった遣隋使について!
この遣隋使がのちの遣唐使に繋がっていき、大陸文化が日本にやってくるようになるのですが、今回はそんな遣隋使について
- 遣隋使の目的や理由について
- 遣隋使が使った船やルートなど
- 隋の皇帝を怒らせた手紙の真相
- 小野妹子の国書紛失事件について
- 最後の遣隋使は誰なのか?
について詳しく解説していきたいと思います!
目次
遣隋使とは?
遣隋使とは、推古天皇の時代の時の日本が当時アジアで一番栄えていた国である隋の文化や制度、そして隋との関係を結ぶために送られた使節のことです。
この遣隋使を送る主導者となったのが当時推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに政治の補佐をしていた聖徳太子でした。
この遣隋使は5回送られましたが、中国に使節を送ることはのちの遣唐使の方針にもつながっていくことになります。
目的は?
当時、隋との関係を結ぼうとしただけではなく、隋の文化や政治システム、そして中国ではかなり前から発展していた仏教に関する知識などを取り入れるためにも派遣されていました。
そんな隋に派遣された人材の1人に高向玄理や旻(みん)という学者達がいますが、この人たちはその後、隋で学んだ知識を活かして日本を発展に導くのでした。
遣隋使はどのような船に乗って大陸を渡ったのか?
遣隋使が乗っている船に関する資料は残念なことに正確なものは今は残っていません。
しかし、嬉しいことにその後送られるようになった遣唐使船の船は残っており、また隋側の記述にも断片的には残っています。
それによると、遣隋使船は長さ約30メートルの平底船だと言われており少し荒れる日本海に耐えれるように頑丈な作りとなっていたそうです。
そこに遣隋使達が大体150人ぐらい乗船しますからかなりストレスが溜まりそうですよね。
本当にご苦労様です。
大陸を渡ったルートは?
遣隋使は当時の都から近い住吉津という港から出発して瀬戸内海、対馬沖、そして朝鮮半島を伝って山東半島に上陸。
そしてそこから陸路で隋の都に到着しました。
方位磁石などがないこの頃の航海はまさに命がけ。
そのため、航海する時は陸地からなるべく近いルートを通っていたのですよ。
無事に大陸を渡った船は何隻?
遣隋使は遣唐使の後期とは違い、海で難破することはほとんどありませんでした。
この頃の使節というと、阿倍仲麻呂や鑑真などが代表例とされるように難破することが多々あると思いがちですが、そのような結果となってしまったのは日本と仲が悪い新羅が朝鮮半島を統一してから。
遣隋使の頃は日本とは友好的な関係であった百済があったため、途中で補給することができたり、陸地に接するように航海ができたのでした。
聖徳太子が遣隋使を派遣した目的は?
日本が古墳時代から飛鳥時代へと移り変わっていた時代、アジアでは西晋の混乱以降五胡十六国時代や南北朝時代などで分裂していた中国大陸が北朝系の隋によって統一されたり、朝鮮半島においては高句麗と新羅と百済の3国がお互いに対立したりするなど混迷を極めていました。
しかし、日本(この頃は倭と呼ばれていたけどわかりやすさを重視して日本に統一します)はこの頃九州地方で国造である磐井が反乱を起こしたり、物部氏と蘇我氏が仏教を受け入れるか受け入れないかで大揉めしたり、するなどとても外交に構っている暇はありませんでした。
日本はこのようなアジア情勢の変化や外国への進出の出遅れを非常に気にしており、隋との関係を結ぶことを決定。
隋と関係を結ぶことで当時日本と敵対していた高句麗と新羅を牽制しようとしたのでした。
しかし、600年に第一回遣隋使を送った際には、国際的なマナーを全くできていなかったこともあり失敗に終わります。
そして遣隋使の行方は聖徳太子に任せられるのでした。
聖徳太子の手紙はなぜ煬帝の怒りを買ってしまったのか?
こうして聖徳太子は隋との関係を結ぶために600年の第一回遣隋使の反省を生かして第2回遣隋使を派遣しましたが、この頃の隋の皇帝である煬帝は非常に短気な性格でめんどくさい人物でした。
この第2回遣隋使の大使である小野妹子は聖徳太子の手紙を煬帝に献上したことによって彼の逆鱗に触れることとなります。
聖徳太子の手紙には『日出づる処の天子、書を日没する天子に致す、恙無しや』(現代訳文:日が昇るところにいる天子が日が沈むところにいる天子に手紙を送ります。お元気ですか)と書かれていました。
この手紙を見て煬帝は大激怒。
それもそのはず、手紙の中にある天子という言葉は皇帝と同意義の言葉。
隋からしたら天子と呼ばれるにふさわしい人は煬帝しかいませんので東にある未開の国であった日本のリーダーが天子と名乗ることは許せないものだったのです。
さらに、よりにもよって隋のことを日が没するところの国と書いたことによって「隋という国は日が沈むように滅びそうな国だよね」という意味にも捉えられることができます。
そのため、一時は大使である小野妹子は処刑されそうになるのですが、隋にも隋なりの事情というものがありました。
小野妹子の手紙紛失事件の真相とは?
さて、聖徳太子の手紙によって煬帝は大激怒しましたが、大使の小野妹子を処刑することはなく、それどころか日本に対して裴世清という使節を送ったりもしました。
実はこれには訳があってこの当時隋という国は朝鮮半島北部にあった高句麗と丁度戦っている最中であり、かなり苦戦を強いられていました。
そのため、隋が大使を処刑することによって隋と日本の関係が悪くなったら日本が高句麗と手を結ぶという隋にとっては最悪の展開が恐れられていたのです。
そのため、隋の煬帝は小野妹子を無事に日本に返すのですが、なんとこの時、小野妹子は隋から日本に帰る途中で煬帝からの返書を紛失するという大失態を起こしてしまいました。
外国関係の重要な書物である国書の紛失は普通に考えて死刑ものです。
小野妹子も最初は聖徳太子によって流罪に処されてしまうのですが、なんと不思議なことにその流された直後に罪が許されるどころかこの当時の日本の最高位である大徳に就任してしまうのです。
これは、小野妹子が紛失した国書が日本にとって不都合なことが書かれていたから聖徳太子の命令によって捨てられたという説もあるのですが、真相は闇の中です。
最後の遣隋使は誰?
遣隋使はその後第5回まで送られることとなるのですが、最後は犬上御田鍬が遣隋使の大使として派遣されたことによって終わりを迎えます。
実はこの時期隋ではクーデターが勃発して煬帝が暗殺。
その混乱の最中李淵という将軍が隋に変わって新たなる王朝である唐を建国したのでした。
そして時代は遣隋使から遣唐使の時代へと変わっていくことになったのでした。
それではまとめに入りましょう。
まとめ
まとめに入りたいと思います!
- 遣隋使は日本が隋と関係を結ぶために送られた使節のこと
- 遣隋使は遣唐使に比べて陸地を伝っていたことにより難破することは少なかった
- 大使の小野妹子は「日出ずる国の天子」から始まる手紙が隋の皇帝の煬帝の逆鱗に触れてしまったが高句麗との関係を考慮してなんとかすんだ
- 小野妹子は日本に帰る途中で国書を紛失してしまったが、最終的には大徳という地位についた
- 犬上御田鍬が最後の遣隋使として派遣され、その後隋が滅んだことによって遣隋使は遣唐使へと変わっていった
最後になりましたが、その後日本は遣隋使から遣唐使へと変わっていったものの、中国から様々な文化を吸収していき、日本の発展へとつなげていきました。
遣隋使はその日本の発展の第一歩だったのかもしれませんね。