今回解説していくのは室町時代の初期に起きた兄弟喧嘩である観応の擾乱!
この内紛は南北朝の動乱も相まって日本中を巻き込む大騒動となりましたが、今回はそんな観応の擾乱について
- どうして観応の擾乱が起きてしまったのか?
- 観応の擾乱の原因と結果
- 観応の擾乱のキーマン
- 観応の擾乱の語呂合わせとオススメの本
などなど観応の擾乱について解説していきたいと思います!
観応の擾乱とは?わかりやすく解説!
観応の擾乱とは1350年から1352年にかけて行われた室町幕府内での内紛のことです。
室町幕府が開かれた当時、幕府内では
- 軍事的な役割:将軍尊氏
- 政務的な役割:尊氏の弟である直義
とそれぞれが役割を持って政治を行っていました。
これがとある理由で崩壊して内紛が勃発。
ただ、この内紛はこの当時分裂していた北朝と南朝を巻き込むという日本全国の大騒動に発展しました。
原因
観応の擾乱の最大の原因はなんといっても足利直義と尊氏の最大の家臣高師直との対立がありました。
元々足利直義という人は今で言うところの保守的な考えを持っている人でした。
その政治方式も鎌倉幕府を踏襲したような政治であり、さらに担当していた土地に関係する裁判の時もある程度の朝廷や公家の権益を保護するという政策もとっていました。
その一方で高師直という人は今で言うところの革新的な考えを持っていました。
公家や朝廷なんかの固定概念を思いっきりぶち破ろうというのちのバサラ大名に通じる考えを持っていたのです。
今も昔も保守的な考えと革新的な考えはどうしても反りが合わない。
さらに、南北朝の動乱も徐々に落ち着いていくと軍事よりも政治の方が優先されていくようになり、にわかに師直の立場が危うくなっていきます。
しかし、師直は「だったらやってやろうじゃねぇか!」の志で直義に反感抱いていた武士を味方につけ、楠木正成の息子である楠木正行を四条畷の戦いで討ち取るという大戦果を挙げてみせました。
そのお陰か幕府内では師直の話題でひっきりなしになり、相対的に師直の幕府内での地位がグーンと上昇することになったのでした。
でも、これに納得がいかないのが直義の方。
このようにシーソーゲームのように形勢がバタバタと変わっていくうちについに直義は師直排除に乗り出すことになります。
直義は尊氏に対して師直の不届きぶりを糾弾し、当時師直がついていた執事という役職をクビにするように脅迫をかけます。
この当時このタイミングで後醍醐天皇を裏切ったことに罪悪感を感じ始めていた尊氏は仕方なく師直をクビにすることを認めたのでした。
しかし、この動きを知った師直は急いで直義を追い落とすいわゆる逆クーデターを成功して直義を追い詰める。
尊氏はこれを受け入れて当時直義の重臣であった上杉重能を流罪にさせ、さらには直義自身も出家するという形でひとまず一連の騒ぎは終結したのでした。
しかし、日本史でもここでしか見ない『擾乱』とついているぐらいですからもちろんここで終わることはないんですね。
結果
さて、直義は師直の逆クーデターによって出家する羽目になったのですが、もちろんタダで終わらないのが直義。
直義は一発逆転を目指そうと本来なら手を組むことがない不倶戴天の敵のある勢力、南朝勢力とタッグを組むことにしたのです。
南朝側からしても尊氏の弟がつくというのは弱っていた南朝からしたら天の助け。
さあ、これによって幕府と張り合えるだけの軍事力を手に入れた直義は一気に京都に攻めのぼり師直派閥を排除。
ちなみに、師直は護送される途中、武庫川にて師直をぶっ殺すために待ち構えていた上杉能憲(師直に排除された上杉重能の養子)によって無残に殺されたそうです。
しかし、大元の元凶を倒しても尊氏と直義が元どおりの仲に戻ることはなく、再び直義は幕府を離れて、独自行動を開始しました。
尊氏としても弟をなんとかしなければどうしょうもならない。
そのため直義の最大の味方であった南朝を一時は南朝優先で朝廷を統一する(正平一統)という屈辱的な要求を受け入れながらも味方につけることに成功。
最終的には直義を鎌倉に追い詰めて幽閉に追い込みました。
ちなみに、直義はその直後謎の死を遂げることになるのですが、真相は不明だそうです。
こうして3年に渡った内紛は終わりを迎えたのでした。
人物
観応の擾乱は擾乱というぐらいですから様々な人が入り乱れるように争っていました。
しかし、ここで覚えて欲しいのが上でも結構重要な立ち位置にいた高師直と足利直義です。
高師直という人は元々足利尊氏の側近中の側近。
のちに管領と呼ばれるようになる役職であった執事という役職についており、幕府内でも指折りの権力を持っていました。
そんな彼ですが、彼の性格といえばやはり徹底的な合理主義者と言えるところ。
例えば師直は戦の時に首を取った時、鎌倉時代の時では武功の証拠として一生涯大切にしたのですが、彼は「首を取ったことを確認したらそこらへんに捨てよ」という軍令を敷いたそうで、戦に勝つには武功を捨てるという彼の信念が見ることができます。
その一方で足利直義は上にも書いた通り、保守的な考えを持っており、足利尊氏の補佐として土地に関する裁判や、調停役をしていました。
彼は高師直とは違いかなり理想主義者な点があって鎌倉幕府のような政治体制を目指したりしていたんだとか。
ちなみに、観応の擾乱が起こる前は兄弟仲はかなり良かったようで足利尊氏は直義のために石清水八幡宮に参拝するほどだったとか。
しかし、このように真逆の考えを持っているのにうまくいくはずもなく観応の擾乱という一大内紛が起こってしまったのですね。
語呂合わせなど覚え方
観応の擾乱が始まったのは1350年。
色々な年号の覚え方があるのですが特にオススメなのが『一味(13)が困る(50)観応の擾乱』
この事件は足利一族を真っ二つにしてしまい、本当に困ったと思いますからまさにピッタリな覚え方ですね。
観応の擾乱を描いた本
観応の擾乱のことをもっと知りたい!そう思ったら観応の擾乱をテーマとした本を読むのがオススメです。
観応の擾乱のことを含めて室町時代初期の日本の動乱のことを知りたいのであれば太平記という伝記があります。
また、観応の擾乱のことのみを詳しく知りたい場合であれば亀田俊和の著書『観応の擾乱』もいいかもしれません。
日本中を巻き込んだ兄弟喧嘩となった観応の擾乱。
是非とも一度読んでみてはいかがでしょうか?
さて、まとめに入りたいと思います!
まとめ
まとめです!
- 観応の擾乱とは1350年から1352年にかけて起こった足利直義と足利尊氏との間で起こった内紛のこと
- 観応の擾乱が起こった原因の一つに足利直義と高師直の確執があった
- 足利直義は南朝と手を結び、高師直を排除することに成功した
- 尊氏は直義を倒すために南朝に一時講和して最終的に直義を幽閉に追い込んで観応の擾乱は終結した
- 直義は理想主義者で高師直は現実主義者だったことが観応の擾乱が起こる一つの原因となってしまった
最後になりましたが、室町時代は内乱が多く、この観応の擾乱もそのような内乱の一つに含まれています。
室町幕府はこのような内紛を乗り越えて最盛期を迎えることになったのでした。