鎌倉幕府とは?簡単に解説!年号や場所と滅亡の原因と理由についても!

今回解説していくのは日本初の幕府である鎌倉幕府

この鎌倉幕府によって本格的な武家社会が完成したと言っても過言ではありませんが、今回はそんな鎌倉幕府について

 

  • 鎌倉幕府とはどんな幕府だったのか?
  • 鎌倉幕府の仕組みと守護地頭
  • 鎌倉幕府の年表と将軍一覧
  • 執権政治と執権について
  • どうした鎌倉幕府が滅んだのか?

 

などなど鎌倉幕府のことについて解説していきたいと思います!

鎌倉幕府とは?簡単に解説!

「鎌倉幕府」とは、1185年から1333年まで続いた日本初の幕府のことを言います。

ちなみに、この鎌倉幕府が存在していた頃を鎌倉時代と区分することがあります。

 

この鎌倉幕府が置かれた時代は、源氏将軍による親政から北条氏による執権政治に分かれている、という特徴があります。

室町幕府や江戸幕府とは全く違う政治システムも持っていました。

年号

鎌倉幕府の成立の年号は1185年。

いい箱作ろう(1185年)鎌倉幕府」と覚えましょう。

 

もしかしたら、「いい国(1192年)作ろう」と覚えた方もいらっしゃると思います。

ですが、なぜ「いい国作ろう」から「いい箱作ろう」になったのか、次の項目でご説明します。

鎌倉幕府は1192年ではなくなった?

源頼朝
源頼朝

鎌倉幕府の成立というと昔だったら『いい国作ろう鎌倉幕府』のように1192年として覚えた方もいらっしゃると思います。

ですが、近年だと1185年の方が鎌倉幕府の成立としてふさわしいということになっています。

 

なぜかというと、鎌倉幕府の成立の第一の根拠となっていた源頼朝の征夷大将軍就任が今では単なる結果論という形で捉えられているから。

 

そもそも鎌倉幕府の幕府というのは近衛大将が住んでいたところを指しており、源頼朝自身もすぐさま辞退したものの、右近衛大将という官位についていました。

そのため幕府というものは1192年以前からあるというふうに解釈できるということです。

 

ちなみに、鎌倉幕府という呼び名も江戸時代から定着したものであり、鎌倉時代の頃にはただ単に【関東】と呼ばれていたんだとか。

 

そうなると征夷大将軍就任が鎌倉幕府の成立というのはおかしいと判断され、その代わり平氏が壇ノ浦の合戦によって滅亡して、源頼朝が守護・地頭を置いた1185年の方が鎌倉幕府の成立としてふさわしいとされて今に至っています。

年表

1180年:源頼朝が鎌倉を本拠地とする。

1183年:寿永二年十月宣旨によって朝廷から東国の支配が認められる

1184年:問注所・公文所を設置

1185年:平家が壇ノ浦の合戦によって滅亡 守護と地頭を所領において実質的に鎌倉幕府を開いた

1190年:源頼朝が右近衛大将に就任 すぐに辞退したが、ここから武家の棟梁が住むところが幕府と呼ばれることになる

1192年:源頼朝が征夷大将軍に就任 ここから先征夷大将軍に就任した人のことを将軍と呼ぶようになる。

1219年:源実朝が公暁によって暗殺 これによって源氏将軍が断絶してここから執権政治に移行されることになる

1221年:承久の乱 この乱によって鎌倉幕府の権威が西日本まで伸びた

1232年:御成敗式目制定

1274年:1度目の元寇(文永の役)

1281年:2度目の元寇(弘安の役)

1297年:永仁の徳政令発布 この徳政令によって御家人の生活はさらに苦しくなった

1324年:後醍醐天皇による1度目の倒幕計画(正中の変)

1331年:後醍醐天皇天皇による2度目の倒幕計画 この事件によって後醍醐天皇が隠岐に配流ことになる(元弘の変)

1333年:新田義貞によって鎌倉が突破 鎌倉幕府が滅亡する

鎌倉幕府のしくみ

鎌倉幕府の最大の特徴は、御家人と幕府の間で行われていた御恩と奉公による封建体制です。

 

御恩というのは幕府からちゃんと幕府のために働いてくれたというご褒美として御家人が持っている土地の保障や土地を与えることを指します。

一方、奉公というのは幕府に忠誠を誓って幕府のために最前線で敵と戦うことを指しました。

 

これを合わせて御恩と奉公と呼ばれることになるのですが、御家人はこのような封建的な体制の下で暮らしていたのです。

 

また、御家人の中でも特に強い人には守護と地頭に任命しました。

 

守護というのは室町時代における守護大名みたいに領地を納めるイメージがありますが、この時代の守護というものは今で言うところの警察庁みたいな存在。

守護として任ぜられた御家人は「大犯三ヶ条」という

 

  • 大番役催促(鎌倉や六波羅探題周辺の警備)
  • 謀反人の逮捕
  • 殺人犯の逮捕

 

などの三つの仕事をこなしていました。

 

一方の地頭は「泣く子と地頭には敵わぬ」ということわざがある通り、なにかと理不尽なイメージがありますが、地頭というのは今で言うところの税を徴収する役人のこと。

 

当時日本に多く存在した荘園という領地から年貢を徴収する仕事をしており、下地中分と呼ばれる荘園を持っていた公家や地主と半分こにして自分で管理もしたりしていました。

しくみ図

鎌倉幕府には将軍の下に侍所、政所、問注所の三つの役職がありました。

 

侍所というのは簡単に言えば御家人の管理と軍事担当。

政所は幕府の政務や財政担当。

問注所は御家人の土地争いの仲介役、今で言うところの裁判所みたいな役割を果たしていました。

 

さらに、承久の乱が起こった後になると京都の朝廷の監視や西国の御家人の管理のために六波羅探題が置かれることになりました。

場所

鎌倉幕府の所在地はもちろん名前の通り鎌倉に置かれました。

なぜ鎌倉に幕府が置かれたのかというと、やはりその地形が一番だったことにあったのです。

 

鎌倉という地域は北と西と東が山に囲まれ、南は由比ヶ浜という海が接している地形で、なおかつ鎌倉に向かう時には切通しと呼ばれる細い道を通る必要がありました。

 

まだまだ、混乱やめやらぬ鎌倉時代。

源頼朝は敵に攻められにくいことを最優先事項において鎌倉を本拠地としたんですね。

地図

鎌倉幕府は、主に

 

  • 幕府が置かれていた「鎌倉」
  • 承久の乱以降に朝廷を監視するために京都に置かれた「六波羅探題」

 

この2つを中心に政治が行われていました。

 

鎌倉は今でも地名に残っているためイメージがつくと思いますが、六波羅というのはあまり聞き馴染みがありませんね。

六波羅という地名は今の京都の五条から七条の鴨川沿いのことを指し、鎌倉幕府の成立以前は平氏が本拠地としていたのです。

将軍一覧

鎌倉幕府の将軍は主に、

 

  • 源氏の武士が将軍になる「源氏将軍」
  • 五摂家から迎えられた「摂家将軍」
  • 親王が迎えられた「皇族将軍」

 

の3つに分類されます。

 

初代:源頼朝(言わずもがなの初代将軍 ちなみに、死因は落馬事故によるものだとか)

二代:源頼家 (北条政子によって東禅寺に幽閉された後暗殺された)

三代:源実朝(源頼朝の次に有名な鎌倉幕府の将軍。和歌がとても得意で自身の和歌を集めた金槐和歌集は有名。百人一首の鎌倉右大臣はこの人)

四代:九条頼経(鎌倉幕府初の摂家将軍。2歳で将軍になったこともありお飾りであった)

五代:九条頼嗣(14歳で将軍を辞めさせられた)

六代:宗尊親王(鎌倉幕府初の皇族将軍 もちろんお飾り)

七代:惟康親王

八代:久明親王

九代:守邦親王

将軍補佐

鎌倉幕府の将軍は三代将軍源実朝以降になると急激に影が薄くなってしまいます。

ですが、なんだかんだで鎌倉幕府が滅亡するまでは存在していました。

 

実はその将軍を補佐する役職があったのですが、その役職こそ皆さんご存じ、「執権」という役職だったのです。

 

執権って聞くと何かを執り行う権利という風な強そうなイメージがありますよね。

ですが、執権の権には仮のだったり、〜の補佐をするだったりするなどの意味があります。

(官位における権官も同じような意味がありますね。)

 

このように執権というのは将軍の補佐をする役職だったのですが、源実朝の暗殺以降急激に権力を持ち始めました。

 

というわけで、次は、どういうふうなプロセスで執権が権力を握ったのかを解説していきます。

鎌倉幕府の執権政治とは?

北条時政
北条時政

鎌倉幕府の特徴の一つとして執権政治が挙げられます。

 

「執権政治」というのは上に書いた通り、将軍の補佐の役職であった執権になった北条家の人が将軍に変わって政治をしたことを指します。

 

元々、鎌倉幕府は上の通り、政所が政務を担当していました。

 

ですが、源実朝が暗殺されてしまい源氏将軍が居なくなると1203年に北条政子の父親であった北条時政が政所の一番偉い役職である政所別当に就任。

さらに、1213年に侍所の別当を務めていた和田義盛を和田合戦によって滅ぼすとさらに北条時政の息子である北条義時が侍所別当に就任。

 

鎌倉幕府の重要な役職を二つ牛耳ることになりました。

 

こうして準備満タンと言わんばかりと着実に権力を集中させた北条氏一族は1224年義時の息子による北条泰時の代に入ると、これまでの鎌倉幕府の役職にさらに連署という役職を置きました。

この連署は簡単に言えば執権の補佐。

 

北条氏はこれまでの鎌倉幕府の仕組みを大きく変え、執権をトップに据えてその下に連署を始め御家人が評定衆として会議する政治体制を確立させたのでした。

鎌倉幕府が滅亡した原因と理由は?

元寇(文永の役)
元寇(文永の役)

鎌倉幕府の成立から時代は降り1274年

この年日本史上最大級にヤバい事件が起こりました。

 

それがいわゆるモンゴル帝国の侵攻、元寇だったのです。

 

元寇の最新武器や徹底した集団戦法で幕府軍は苦戦。

しかし、鎌倉武士の意地や台風によって元寇を2度撤退に追い込むことに成功しました。

 

さて、こうして鎌倉幕府に平穏が訪れたと思いたいのですが、これによってとんでもないトラブルが起こることになります。

 

鎌倉幕府には御恩と奉公によって御家人も主従関係を結んでいたとしていましたが、元寇というのは防衛戦争。

例えどんなに退治しようとしても領地は一握りも手に入れることができません。

 

そのため、

  • 元寇で頑張ってくれた御家人に御恩を与えることができない
  • 永仁の徳政令(御家人の借金をチャラにするという法令)を出したことにより御家人が商人からお金を借りることが不可能になる

 

こんなことがあって御家人の心は徐々に幕府から離れていきました。

 

また、後醍醐天皇による倒幕計画も相まって足利高氏や新田義貞のように幕府に歯向かう御家人が続出。

最終的には新田義貞が鎌倉に突入して鎌倉幕府は滅亡しました。

 

そして時代は建武の新政を経て室町幕府へと繋がっていくことになるのでした。

 

さて、まとめに入りましょう。

まとめ

さて、まとめに入ります!

 

  • 鎌倉幕府とは1185年から1333年まで続いた幕府のこと
  • 鎌倉幕府は最初は将軍による政治が行われたが、源氏将軍がいなくなると執権政治に移行した
  • 守護は大犯三ヶ条という今の警察のような役割をしており、地頭は税を徴収する役人のような仕事をしていた
  • 鎌倉幕府は昔は1192年に成立したことになっていたが、最近では1185年に成立したことになっている
  • 鎌倉幕府は元寇で活躍した御家人への御恩を渡すことが出来なくなり、御家人の心が幕府が離れたことや、後醍醐天皇による倒幕計画によって1333年に滅亡した

 

最後になりましたが、鎌倉幕府は約250年で滅びましたが、この鎌倉幕府はのちの室町幕府や江戸幕府の政治システムの基となりました。

鎌倉幕府はのちの武将の憧れとなったのですね。

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