鎌倉時代のエッセイとして、最高傑作と評価されている鴨長明の『方丈記』。
しかしその内容は、源平合戦から鎌倉幕府を開くという歴史の変革期ということもあってか、京の町に起こった災害を中心に、
『諸行無常(しょぎょうむじょう。どんなに繁栄している都市や文化でも、いつかは滅ぶということ)』
を嘆くという、どこか暗めのエッセイになっております。
- 冒頭『行く川の流れは絶えずして』の意味は!?
- 全体を通して何を伝えたかったのか!?
- 鴨長明は今のニートだったのか!?
これについてみていきます。
目次
方丈記の内容と作者について解説!
方丈記は、京都の下鴨神社の神主の次男として生まれた鴨長明によって書かれた鎌倉時代のエッセイです。
『徒然草』『枕草子』と並ぶ、『日本三大随筆』の一つとされております。
この物語は仏教世界にある『諸行無常』をテーマに書かれており、前半はこれまでに起きた大災害、後半は自分のニート(これについては後で話します)の私生活について語ったものです。
ニートとして暮らした部屋が、一丈四方(いちじょうしほう。一丈は約3mで、四方が3mしかない部屋のこと。現代で言うと、公団にありがちな二間の1Kの住居にあたります)であったことから、『一丈四方』の別名である『方丈』というタイトルにしたのです。
完成したのは1212年といわれています。
奇しくも、鎌倉幕府が開いて30年後、承久の乱の9年前のことです。
しかし、徒然草や枕草子と違って、世の中を嘆くような文章が多く、全体的に暗いイメージが強いエッセイです。
これに関しては、長明の一生についても関係してくるでしょうが、これは後述します。
次に、内容とあらすじについてみていきます。
内容とあらすじ
方丈記の内容は大きく分けて、2つにあげられます。
前半:京の自然大災害とその嘆き
- 1177年5月27日に起きた『安元(あんげん。当時の元号)の大火災』
- 1180年4月に起きた『治承(じしょう。当時の元号)の竜巻』
- 1181-82年に起きた『養和の飢饉(ようわのききん。飢饉とは飢え死にする人が出るほどの食糧不足の災害)』
- 1185年の『元暦(がんれき)の地震』
等、様々な自然災害の悲惨な被害を生々しく描き嘆いたもので、前半のくだりは歴史資料としても使われております。
(なお、治承の竜巻の後には、天皇に害を及ぶのを防ぎたかったのか、当時の安徳天皇の祖父の平清盛が、現在の神戸港近くの福原京(ふくはらきょう)に都を移動しております)
治承の竜巻(原文では、『辻風(つじかぜ)』とあります。)の後の描写については(以下は意訳)
『三つか四つの街にわたって風が吹きまくったが、その範囲に当たった家などは、大きな家も小さな家も皆壊れ、ぺちゃんこになったものも、垣根が吹き飛ばされて隣とくっついたものもある。
財宝はことごとく空に巻き上げられて散り散りになり、どれだけ金をかけた図屏風も、冬の木の葉が風に乱れるのと同じ。
激しく鳴り響く音に、声はかき消され聞こえず、地獄の風以上と思わせるほど。
これの修理をする際に怪我をして、体が不自由になったものは数知れない。
この風は南西の方角へ移動して、多くの人を悲しませた』
非常に生々しい、災害の惨禍の描き方です。
ちなみに、東日本大震災の直後、方丈記が災害ルポルタージュとして注目されたこともありました。
(この点は『ミニスカ右翼』と呼ばれた作家・雨宮処凛氏が小林多喜二の『蟹工船』を紹介してから再ヒットしたのとよく似ていますね。)
後半:自分のわび住まいとその生活で起きた出来事
神主としての出世の道を絶たれてしまった長明は、わび住まいの中、仏教の勉強も仏教も教えも広めず、ニート同然の生活でした。
その中で十一章から、最終章十八章にかけて、その生活を書くことになるのです。
京都加茂川の近くで一丈四方のわび住まいをしているのはよいのですが、徒然草のように読者が笑うようなエピソードもなく、その庵がどんな設備なのか、どんなことをして過ごしているのか、四季の折々の出来事を淡々と書いております。
しかも出家している割には、お経を読むことも面倒くさいらしく、そうなったときはさぼる有様であることが、十三章で明かされております。
真鍋昌平氏の漫画『闇金ウシジマくん』に登場する35歳ニートは、両親に寄生しパチスロで金を使って多くの借金を抱えていました。
彼はそんな自堕落な自分の生活を『鬱(うつ)ブログ』というブログに記していましたが、後半の方丈記はそれに近い描き方といえましょう。
しかし鴨長明は、そんなわびしい生活の中でも、近所の庵の子供との付き合いを楽しみにしていたり、『必要以上のものを欲してはいけない。自然災害などですぐなくなってしまうから』等の人生訓についても書き出しております。
(この教訓は、ディズニー映画『ライオン・キング』の主題歌『ザ・サークル・オブ・ライフ』の歌詞からも見ることができます。)
もっともこれは、神主としての出世の道を閉ざされた負け犬のひがみもある、と後に話す『方丈記私記(ほうじょうきしき)』で指摘されています。
イノベーション(変革)の時代である今は、自分の夢(これも裏返せば欲望。仮面ライダーオーズでそんな指摘がありましたが)あるいはやりたいことを知り、それをもう引き返さないぞと突き進む気力と体力が必要といえましょう。
次に有名な冒頭『行く川の流れは絶えずして』についてみていきます。
有名な冒頭『行く川の流れは絶えずして』をかんたんに解説
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」
すなわち、『川の流れは絶えることなく、また、元の上流に戻ることもない』という意味。
これはすなわち
『万物は常に、栄えては滅びていく。また、元の栄華を取り戻すこともできない』
すなわち諸行無常(しょぎょうむじょう)という、仏教で重要な見方が見て取れます。
仏教の教えでは、釈迦の死後2000年後、日本では1057年ごろから『末法(まっぽう)の時代』と呼ばれる時代になるといわれていました。
一部の映画や漫画の設定でありがちな『世紀末の時代』であり、仏教においては『修行』『悟り』がなくなって『教え』しか残らず、天変地異が連続する時代とされております。
後で述べますが、方丈記が書き終えられたのは1212年とされており、歴史においても保元・平治の乱から源平合戦がやっと終わったころであり、方丈記に書かれているように、火事や竜巻、地震といった天変地異が立て続けに起きた時期でもありました。
大災害の前では、京の栄えなどあっさりなくなり、人間も呆気なく死んでしまう。
(鎌倉時代の平均寿命は約29歳。それも半数以上は成人することなく死んでいました。)
人の世のはかなさを嘆いているのが『行く川の流れは絶えずして』ととることもできましょう。
次に、方丈記の意味についてみていきます。
方丈記の意味
『方丈(ほうじょう)』というのは、京都の日野山にあった小さな庵のこと。
先ほども述べたように、一丈四方、つまり一辺約3mの正方形の、小屋にも近い庵に暮らしたときに書いたエッセイであることから、『方丈記』というのです。
先ほども述べたように、今でいうなら、無職の人間が生活保護を受けながら、二間の公団でぎりぎりに暮らしつつ、エッセイを書いていたようなもの。
いわば、ハリー・ポッターシリーズを書く時のJ.K.ローリング氏に近い環境であったといえましょう。
もっとも長明はローリング氏と違って、自分の書物で億万長者になったということはないようですが。
次に、いつの時代に作られたかについてみていきます。
いつの時代に作られた?
先ほども書きましたが、方丈記の最後の段に
『建暦(けんれき)の二とせ、弥生(やよい。三月)の晦日(つこもり。月末)、桑門(くわもん)の蓮胤(れんいん)、富山の庵にて、これを記す
(訳:建暦2年3月末(今でいうと1212年4月4日ごろ)、桑門の蓮胤という富山のとある庵で記す)』
と書いてあることからも、鎌倉時代初期の1212年に書かれたという見方が強いようです。
内容を考えても、まさに時代に合わせ、末法の世を生々しく描いたエッセイといえましょう。
次に、鴨長明についてみていきます。
作者:鴨長明について
作者の鴨長明が生まれた正確な年月はわかっていませんが、おそらくは1155年。
『かものながあきら』という、訓読みの名前でした。
先ほども言ったように、下鴨神社の神主の次男として生まれた長明は、1161年従五位(じゅごい。朝廷の官位で一番低い位)となり、朝廷に仕えますが、1172年、父がなくなると、後ろ盾を失います。
1175年には比叡山延暦寺との土地争いで敗北。
信頼を失った長明は、1204年に空席となった下鴨神社の分社・河合神社の神主としての職を希望しますが、結果は却下。
神主としての出世の道を閉ざされた長明は出家し、あらためて『蓮胤(れんいん)』と名乗ります。
しかし字が難しいのか、名前を音読みした『かものちょうめい』という呼び方が今日まで有名です。
以降長明は、京都東山や日野でわび住まいを行うようになっていきます。
日野のわび住まいで書いた方丈記が有名になるほか、
- 仏の教えを書いた説話『発心集(ほっしんしゅう)』
- 歌についての自分の意見を語った『無名抄(むみょうしょう)』
等を発表していきます。
1216年7月26日に、61歳で亡くなります。
鎌倉時代の平均寿命は29歳と言われているため、当時としては長生きしたといえましょう。
後に吉田兼好が執筆する『徒然草』に比べると、方丈記は全体的に災害の面が強調され、どこか暗いのは、こうした長明の幸薄い人生もあると思います。
(江戸時代の小林一茶も不幸な人生を送りましたが、どこかユーモラスな俳句を多く作っているのは、さとりの差によるものでしょうか)
次に、先ほども述べた長明の他の作品についてみていきます。
鴨長明の作品
無名抄(むみょうしょう)
長明は、新古今和歌集にもその歌を載せた僧侶・俊恵(しゅんえ)を先生として歌を学んだとされており、無名抄は長明の歌についての持論を述べたエッセイに近い本といえます。
新古今和歌集に10もの歌を載せた長明らしい本といえます。
しかし、いつ完成されたのかは分からず、1211年以降、長明が亡くなる1216年までの間と言われています。
全1巻で、約80段(80章)からなります。
その歌を詠む時についての持論は、のちに庶民の間にも広がり、逸話のモチーフにもなっていったといわれております。
発心集(ほっしんしゅう)
長明が晩年になったころに完成した、仏教関連の説話(せつわ。物語)集です。
全8巻、102話からなっており、僧侶がどのように宗教的な体験をしたか、悟りを開いたか、あるいは歴史の陰に隠れた高貴な僧侶の物語などが描かれています。
長明ほか、百人一首で有名な西行も登場しております。
物語を通して教訓を得るというよりは、登場人物の心の揺れ動きを詳しく書いており、少し誇張して言うなら、人間心理描写を第一とした近代小説に近いといえましょう。
のちの『徒然草』や、南北朝時代の軍記物『太平記』にまで影響を及ぼしたとされており、その内容がどれだけ深いかがわかります。
次に、方丈記や鴨長明をもっと知るならというテーマで雑考を述べていきます。
方丈記、鴨長明をもっと知るなら
先ほど鴨長明の方丈記以外の作品について述べましたが、ここでは方丈記、鴨長明優花里の地や研究本について述べていきたいと思います。
下鴨神社(しもかもじんじゃ)
ユネスコの世界遺産にも登録されている、下鴨神社こと加茂御祖神社(かもごそじんじゃ)。
京都市左京区下鴨泉川59となっており、長明はそこの神主の次男として生まれました。
日本神話で有名な八咫烏(やたがらす)を祭った場所として有名であり、最初の天皇である神武天皇のころから神がそこに下っていたとも言われます。
京都三大祭りの一つである葵祭(あおいまつり)の忠臣となる神社でもあり、その日の5月15日には境内で流鏑馬(やぶさめ)などが行われます。
河合神社(かわいじんじゃ)
下鴨神社の境内にあり、御分社でもある河合神社。
長明がそこの神主を目指そうとして挫折した神社でもありました。
神武天皇の母、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀っており、女性守護で知られております。
そこでもらえる『鏡絵馬(かがみえま)』は、手鏡の形をした絵馬。
- 鏡絵馬の顔を表す模様に自分の化粧でメイクをする。(一番綺麗な表情をした自分を描く意味で)
- 裏に自分の願いを書く。(願いを込める意味で)
この手順で願掛けをすることで、女性が外見だけでなくない面も美しくなっていくという縁起があるのです。
また境内には、長明が晩年を過ごしたとされる建物『方丈の庵』が、木と藁で再現されております。
長明のことを本でもっと知りたい場合は、国文学者で京都大学名誉教授の佐竹明広氏の『方丈記監見(ほうじょうきかんけん)』を読むこともおすすめします。
また、これから述べる堀田善衛氏の『方丈記私記(ほうじょうきしき)』も鴨長明を知るのに良いと思われます。
方丈記私記
堀田善衛(ほったよしえ)氏の小説『方丈記私記』は、20代で太平洋戦争による東京大空襲にあった作者が、『リアリストとしての鴨長明』という観点から、方丈記を読み直した作品です。
1971年に出版され、第25回毎日出版文化賞(伝記・随筆・評論・紀行部門)受賞。
作者が出くわした東京大空襲の体験と、方丈記で描かれた大災害をかわるがわる描いて重ね合わせ、政治に携わるものへの皮肉、および当時の朝廷が
- 『地方からの税によって成り立っていたこと、及びその税がこの頃は少なくなっていて、朝廷の生活は破綻しかけていたこと』
- 『時代が大転換期に差し掛かっていたこと』
を長明が気づいていたことを指摘していて、そのことを作者堀田はリアリストだというのです。
ちなみに長明が父親を失った翌年の1173年、長明がのちにわび住まいを作ることになる日野で親鸞が生まれています。
作者の堀田氏は、そのことに興味があるようです。
これを読めば、新たな長明が発見できると思います。
まとめ
- いくら文明や一族が繁栄していても長続きはせず、いずれは滅びを迎え、また、かつての栄華を取り戻すこともできないというのが『行く川の流れは絶えずして』の意味。
- 京の都で立て続けに起きた大災害と、自分の生活を描きつつ、諸行無常の法則と、財産を持つことの愚かさ、そしてその中をどう生きるかについて書かれた。
- 神主としての出世の夢に破れ、長明は出家という形でニートになり、日野のわび住まいに住んだ。
これが事実であるといえましょう。
現代はイノベーションの時代である以上、『執着はよくない』という長明の人生訓は時代に合わない物も多いのですが、諸行無常の時代はいつの時代も同じということは、心に留めておく必要があるようです。
もっとも出世の夢に破れた長明は、社会と時代の敗残兵なりながらも、その中で小さな喜びを見つけようとするその姿は、私には共感できなくもないのです。
私は方丈記より、後の徒然草のほうが各々のエピソードにユーモラスさがあることや、諸行無常を達観していて結構好きなのですが、どちらも無常観を知り尽くしているところはさすが当時としては長生きした鴨長明と吉田兼好でありましょうか。
今日も、台風の大型化、西日本豪雨、東日本大震災と、災害の前に建物や人が軽々打倒されていくさまは、今も昔も変わらない、諸業無常っぷりを感じさせられます。