平治の乱とは?わかりやすく解説!原因と結果や場所と年号についても!

今回解説していくのは平氏の栄華が確定した平治の乱

この内乱のおかげで平清盛は最後には太政大臣となります。

 

今回はそんな平治の乱について

  • 平治の乱とはどんな内乱なのか?
  • 平治の乱の原因や相関図について
  • 平治の乱が起こった場所や年号の覚え方
  • 平治の乱と保元の乱の違いについて

 

などなど平治の乱についていろいろ解説していきたいと思います!

平治の乱とは?わかりやすく解説!

平治物語絵巻
平治物語絵巻

平治の乱とは1159年に源義朝と藤原信頼が起こした起こしたクーデターを含む一連の内乱のことです。

 

この内乱によって源義家以降暗雲が立ち込めていた源氏の勢力を没落させてしまうことになってしまいます。

そのかわり平清盛率いる平氏が朝廷内で強大な権力を持つようになり、最終的には太政大臣になるほどの強大な権力を持つようになりました。

原因と結果

平清盛
平清盛

平治の乱が起こった理由の一つに源氏と平氏の格差にありました。

 

保元の乱によって後白河天皇側が勝利すると、後白河天皇側についた武士である平清盛源義朝は褒賞が与えられることとなります。

しかし、この褒賞の差がかなり激しいものでした。

 

平清盛などの平氏には平清盛に与えられた日本屈指の大国であった播磨国(兵庫県南西部)を含む4ヶ国が与えられました。

それに対し、源義朝などの源氏には京都の馬を育てる係である左馬頭を始め1ヶ国を与えられたのに過ぎなかったのです。

両家の差は明確な形で分けられることになりました。

 

さらに、保元の乱が終結すると後白河天皇の側近であった藤原信西が台頭。

よりにもよってこの人と清盛が非常に仲が良かったこともあり、平氏優遇にさらに拍車をかけてしまうこととなってしまいました。

 

これが面白くないのが源義朝。

必要以上に平氏に肩入れしている状況を見て徐々に不満が溜まっていくことになります。

 

さらに、義朝のほかに信西に不満を感じていた人がいました。

それがもう一人の主人公藤原信頼だったのです。

 

藤原信頼は元々武蔵の国守を務めていたこともあり源氏とはある程度の関係を持っていました。

また、藤原信頼は後白河天皇の家臣として台頭していったことに信西が茶々を入れていたことに不満を持ち、この両者はタッグを組んで信西を潰すクーデターを起こそうと計画しました。

 

この計画は平清盛が熊野権現に参拝していたところを狙い、信西を襲撃するというもので、このクーデターは成功。

信西は穴に隠れて自害して、その首は京都で晒されることになりました。

 

しかし、清盛はこの報告を聞いてすぐさま京都方面に急行し、すぐさま京都に到着。

拉致されていた後白河天皇と二条天皇を取り返して官軍となったのを機に、源義朝と藤原信頼らの陣営を襲撃。

 

この平治の乱と呼ばれる内乱はすぐに終結し、藤原信頼は六条河原にて斬首。

源義朝も東国に逃げる途中に尾張国鳴海にて襲撃を受けてしまい暗殺されました。

こうして源氏を片付けた平氏は自分の領地を7ヶ国に増やして躍進することになるのでした。

 

しかし、平清盛は思わぬ失態を犯してしまいます。

なんと義朝の長男である源頼朝を伊豆へ流罪として処刑をしなかったのでした。

これがのちの平氏の凋落につながっていくということはまだこの時は分からなかったのかもしれませんね。

場所

平治の乱の主戦場となったのは三条殿と呼ばれる屋敷と六波羅付近でした。

六波羅はのちに承久の乱以降に置かれることになる六波羅探題などで有名ですね。

 

信頼と義朝は三条殿に居住していた後白河天皇と二条天皇を拉致して実質的な監禁状態に追い込みます。

その後、義朝は信西の首をとって最大の目的を果たすことになるのですが、なんと後白河天皇と二条天皇が逃げ出すという非常事態が起こり、また、清盛が自身の本拠地であった六波羅に到着すると一気に形成逆転。

 

六波羅にて争うのですが、この地にて総崩れとなりました。

年号

平治の乱が起こった時の年号は1159年

この年は平治二年だったため、平治の乱と呼ばれているのですよ。

 

ちなみに、よく間違えやすい保元の乱や承久の乱なども元号から付けられた内乱ですのでそこもしっかり抑えておきましょうね!

相関図

平治の乱は保元の乱のような跡継ぎ争いによって引き起こされたのではなく、源氏と平氏の間で起こった内乱でした。

 

なんでこの源氏と平氏の間で亀裂が生じてしまったのかは上にも書きましたが、今回の焦点は信西を中心として色々な派閥が誕生したことにも一つあると思います。

保元の乱以降信西どんどん権力を得ていき、さらに平氏と政略結婚を通じて関係を強化していきます。

 

しかし、これについて面白くない派閥がありましした。

それが二条派後白河派です。

(ちなみに、信頼は後白河派の重要人物なんですよ)

 

二条派は鳥羽上皇の妻であった藤原得子という人中心の派閥なんですが、この人は自分の養子を天皇にするために信西に脅しをかけていきます。

この脅しに屈する形で信西は藤原得子の養子を天皇にすることを認め、無事に二条天皇として即位します。

ですが、得子からしたら信西がこのままいると二条天皇の立場が彼のせいでどんどんおかしくなっていくのではないかと思い始めるようになりました。

 

また、後白河派としても信西が伸びることは後白河天皇が行おうとしていた院政の邪魔になると考えるようになり、信頼を中心にして源氏を取り込み信西に対抗するようになります。

 

このように平治の乱では藤原信西&平氏vs二条派&後白河派&源氏の構図になったのでした。

平治の乱の覚え方

平治の乱で覚えて欲しいのが年号と戦った人。

年号は源義朝が恩賞の差に不満を持ったことが平治の乱を起こしたということもセットで覚えて欲しいので「恩賞でいちいち号泣(1159年)平治の乱」と覚えておきましょう。

 

また、戦った人物については「義朝を信頼(藤原信頼)したけど、清盛の道のり(藤原通憲)できた」と覚えておくといいかもしれませんね!

平治の乱と保元の乱の違いは?

平治の乱とよく間違えやすいのが保元の乱。

 

保元の乱があったことで平治の乱が起こったと言っても過言ではないほどこの二つの乱は非常に深い関わりを持っていました。

しかし、保元の乱という内乱は朝廷や藤原摂関家の跡継ぎ争いに武士が巻き込まれたという形であったのに対して、平治の乱は平氏と源氏が争い合う状況となっていたのです。

 

このように、保元の乱と平治の乱には明確な違いがあったのですね。

それでは保元の乱と平治の乱の違いにってわかったところでまとめに入りましょう!

まとめ

それではまとめに入りたいと思います!

 

  • 平治の乱とは1159年に起こった源義朝と藤原信頼の反乱のこと
  • 平治の乱が起こった理由の一つに保元の乱で勝利した後の恩賞が少なかったことにあった
  • 平治の乱において信西を倒すことには成功したが、平清盛に敗北してしまい源義朝は暗殺され、藤原信頼は処刑された
  • 平治の乱が起こる前には信西と二条派と後白河派の争いがあった
  • 保元の乱は天皇家や藤原摂関家の争いだったが、平治の乱は源氏と信頼によるクーデターのこと

 

最後になりましたが、この平治の乱以降平清盛を始め様々な平氏が公卿として朝廷を支配していくようになりました。

平治の乱とは平氏の栄華を決定づけた内乱でもあったのですね。

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