今回ご紹介するのは、新選組による襲撃の中で最も有名と言える、池田屋事件です。
政治的実権を失ってからも、長州藩の復権を虎視眈々と狙っていた勢力がありました。
それを京都の警備を務めていた新選組が嗅ぎつけ、池田屋事件は起こります。
- 尊皇攘夷派は本当にクーデターをしようとしていたのか?
- 新選組隊士が相手を鮮やかに斬って落とす「階段落ち」のシーンは本当にあったのか?
- 桂小五郎はその時何をしていた?
といったことについて、詳しく見ていこうと思います!
目次
池田屋事件とは?
池田屋事件は、1864年に長州藩・土佐藩などの藩士を、新選組が襲撃した事件です。
襲撃にあった藩士は尊王攘夷派の志士たちであり、新選組は幕府の治安維持組織としてこうした志士たちを取り締まる役割を持っていました。
当時、長州藩は政治の勢力を失いかけており、尊王攘夷派は京都で勢力挽回を虎視眈々と狙っていました。
新選組は、そんな不穏な京都の警備を担ったのです。
1864年の5月、小高俊太郎という、攘夷派の志士の一人が新選組に捕まり、彼は土方歳三の拷問により、あることを自白させられます。
それは、御所の襲撃計画でした!
攘夷派の志士たちは御所に火を放って、一橋慶喜や松平容保らを暗殺し、孝明天皇を連れ去るという計画を立てていると、彼は述べたのです。
また新選組のメンバーは、長州藩や土佐藩の尊王派志士たちが、捕らわれた彼を奪回するための会合を開くということも突き止めたのです。
深夜、池田屋で会合していた尊攘派志士たちを、新選組が襲撃しました。
ここでの戦闘はかなり激しいものとなりますが、新選組はほとんどの志士を斬り捨て、捕縛することに成功します。
一部の志士は逃走しますが、翌日の掃討により捕縛されます。
この事件により尊攘派は重要な多くの人材を失ってしまい、これが引き金となって、長州藩は禁門の変を起こすこととなります。
場所
池田屋事件は、京都三条木屋町にある旅館である、池田屋で起きました。
次の章では、池田屋事件の跡地がどのようになったのかについて見ていきます。
池田屋事件の跡地の現在
池田屋の主人はこの事件後捕縛され、跡地は別の経営者のもとで旅館として使われましたが、廃業しました。
第二次大戦後はテナントビルやパチンコ店などに変わり、現在は居酒屋『池田屋 はなの舞』となっているようです。
新選組をモチーフにしたお店になっており、入るといきなり『誠』のでっかい横断幕が現れます。笑
ゆっくりとお酒を飲みながら、幕末の志士たちに思いを馳せてみるのもいいんじゃないでしょうか。
さて、次の章では、池田屋事件での新選組の動きについて見ていきます!
池田屋事件の真相は?
池田屋事件において、終始新撰組の側が上手くいっているようにも見えますが、実際は新撰組も苦労をしていたようです。
池田屋事件にいた尊攘派志士は20人ほどいたようですが、それに対して最初にそこに乗り込んだ新撰組メンバーは、わずか4名でした!
しかもそのうち、沖田総司は戦闘中に病に倒れて、藤堂平助は血が目に入り、いずれも戦線を離脱しています。
また、脱出しようとした志士と応戦し、裏口にいた新撰組メンバー3人も、ここでの傷がもとで亡くなりました。
ちなみに、事件が池田屋で起こるということを、新撰組は事前には知らなかったという説があります。
志士たちは急遽池田屋で会合することに決めたのであり、新撰組は手当たり次第彼らを探し回っていたようです。
次の章では、尊攘派のクーデターが本当に計画されていたのかについて見ていきます!
クーデター計画は新撰組のでっち上げ?
前の章で池田屋事件の経緯について述べましたが、これは新撰組によるねつ造であるとする説があります。
つまり、尊攘派の志士たちは、京都で大火を起こすつもりも、松平容保らを暗殺するつもりも、天皇を連れ去るつもりもなかったという説です!
その裏付けとして、志士たちの側に、そのような計画についての記録が全く残っていないことが挙げられます。
唯一の証拠ともいえる小高の発言も、苛烈な拷問の末に吐かせられたものであり、小高自身もその後すぐに処刑されてしまったため、信憑性は高くありません。
つまり池田屋事件は、新撰組が尊攘派にとどめを刺すにあたって、武力行使を正当化するために練り上げられた出来事、と言えるのかもしれません。
次に、池田屋における志士たちの会合の目的について見ていきます。
池田屋の会合の目的は何だったのか?
池田屋での会合は、小高俊太郎を奪還するための作戦を、実行するかどうか決めるためのものだったようです。
次の章では、当時の桂小五郎の動きについて見ていきます。
彼は幸運にも難を逃れた・・・!?
桂小五郎が会合に遅れた理由は?
この池田屋事件において、長州藩士であった桂小五郎(のちの木戸孝允)は難を逃れたようです。
桂は当時、過激な襲撃計画には反対の立場にいました。
それでは会合への出席を拒んだかというと、そういうわけではありません。
桂も実は、池田屋には到着していたのです。
しかし、他の仲間よりも早く到着してしまったので、彼はいったん対馬藩邸に戻って仲間と談話をして時間を潰していました。
事件発生時も彼はそこにいたため、難を逃れたというわけです。
次の章では、「階段落ち」の真相を探っていきます。
階段落ちは本当にあった?
この池田屋事件を扱った映画などでは、近藤勇に斬られた浪士が大階段を転げ落ちていくという、「階段落ち」がよく描かれます。
はたしてこれは、本当に起こった出来事だったのでしょうか?
これは実は、後世の脚色であり、事実ではないようです。
これは、池田屋の建物の作りに理由があります。
映画などでは、2階へまっすぐ伸びた大きな階段とが描かれています。
しかし実際池田屋の階段は、幅1メートルほどの勾配の急なものであり、斬られた浪士が転げ落ちるほどのものではなかったようです。
新選組の活躍を強調するために、美化されてできあがったシーンなのでしょう。
次の章では、池田屋事件と寺田屋事件の違いを見ていきます。
池田屋事件と寺田屋事件の違いは?
「寺田屋事件」とは、京都の旅館・寺田屋で起きた2つの事件を指しています。
一つは、朝廷の命を受けた薩摩藩の島津久光が薩摩藩の尊皇派を抑えつけた事件で、もう一つは坂本龍馬が襲撃を受けた事件です。
ここでは、過激派が処分を受けた、という池田屋事件との類似点から、前者にスポットを当ててみます。
薩摩藩の過激派志士たちは、当時の関白及び京都所司代を襲撃する計画を立てており、寺田屋に集まっていました。
そこへ久光から派遣された藩士数名が乗り込みます。
彼らは説得を試みますが失敗に終わり、結果斬り合いとなってしまいました。
池田屋事件とこの寺田屋事件の違いは、斬り合うこととなった者同士の関係性です。
池田屋事件では、長州藩士に対して、まったく立場の異なる幕府側の新選組が襲撃しました。
桂小五郎などは穏健派ではあったものの、過激派と敵対するには至らなかったわけです。
一方の寺田屋事件では、斬り合ったのは同じ薩摩藩士同士でした。
本来は味方であるはずの同じ藩のものが争ってしまった内紛なのです。
なお、寺田屋事件において過激派志士の処分を久光に命じたのは朝廷でした。
なので、この事件後朝廷の久光に対する信頼はグンと上がり、久光は公武合体政策実現のために動いていくのでした。
次に、池田屋事件と坂本龍馬の関係を見ていきます。
池田屋事件と坂本龍馬の関係は?
坂本龍馬は、この事件と関わりはありませんでした。
しかし、彼は事前にいくつかの計画を練っていたのですが、この池田屋事件を理由に中止せざるを得なかったものがあるようです。
彼は海軍操練所の塾頭を務めていましたが、落命した長州藩士にその塾生がいました。
そのため海軍操練所は廃止となってしまいます。
また、彼は尊攘過激派を蝦夷地へ連れていって開拓を行う、という計画を立てていたのですが、この事件により頓挫してしまいました。
この計画が先に実現していたら、もしかしたら池田屋事件は起こらずに、長州藩の政治は穏便になったかもしれませんね。
次に、『池田屋事件の研究』という書籍をご紹介します!
書籍「池田屋事件の研究」について
ここで、中村武生『池田屋事件の研究』(講談社、2011)という書籍について少しご紹介いたします。
前述の小高俊太郎という人物が一体何者なのか、当時桂小五郎はどのような行動をしていたのか、実際に現場に踏み込んだ新選組メンバーは誰だったのか、などについて言及しています。
新選組の活躍が脚色されがちなこの事件の真相を、豊富な史料を用いて洗い出そうという書籍です。
まとめ
それでは、もう一度池田屋事件について振り返ってみます。
池田屋事件は、1864年に起きた事件で、新選組が長州藩・土佐藩などの尊攘過激派志士たちを襲撃しました。
当時長州藩は政治権力を失っており、志士たちはその挽回と尊王攘夷の実現をもくろんでいましたが、旅館・池田屋で、捕らわれた藩士を奪回する計画についての会合中に、新選組に襲撃されてしまいます。
これに憤激し、長州藩は禁門の変を起こすことになります。
この池田屋はその後テナントビルやパチンコ店などとして使われ、現在は居酒屋となっていましたね。
また、この事件では新選組の側もかなりの苦戦を強いられていたようで、戦線離脱者も相次いでいました。
また、襲撃の理由として、志士たちが京都で大火を起こすことや松平容保を暗殺すること、孝明天皇を連れ去ることを計画してことが挙げられるのですが、この計画は新選組のでっち上げである可能性が高いようです。
なお、桂小五郎は当時対馬藩邸にいたため、難を逃れました。
池田屋事件を扱った映画などでよく描かれる「階段落ち」のシーンは、池田屋の建物の構造からして不自然なため、後世の脚色である可能性が高いようです。
薩摩藩の島津久光により尊皇派が始末された「寺田屋事件」は、同じ藩内での内紛として捉えられる点が、池田屋事件との違いでしたね。
また、坂本龍馬はこの事件には関わっていませんでしたが、この事件のせいで挫折した計画もありましたね。
『池田屋事件の研究』という書籍もぜひ一度手に取っていただき、謎多き池田屋事件についてぜひ探求してみてください!