今回ご紹介するのは、江戸時代初期に起こった大反乱『島原の乱』です!
日本における最大級の内乱といえばいろいろありますよね。
その中でも、島原の乱は幕府が鎖国体制を敷くことになった最大のきっかけとなった内乱です。
今回はそんな島原の乱について、
- 島原の乱が起こった意外な理由とは?
- 戦いの舞台となった原城について
- 島原の乱の生き残りはいたのか?
- 島原の乱のその後や影響について
- 島原の乱をモチーフにした映画や本について
などなど、詳しく解説していきます!
目次
島原の乱の真実!
学校ではキリスト教徒が幕府に対して起こした反乱という風に教えられたと思います。
ですが、実は島原の乱はキリスト教の信仰の自由を求めるよりは本来の一揆のように過酷な重税をかけた藩主に対して起こした内乱だったのです。
確かに、島原の乱が起こった島原・天草地方は元々の領主がキリシタン大名だったこともあり、キリスト教徒は多い地域でしたが、本当はキリスト教の信仰の自由は二の次だったのです。
まずはどうして島原の乱が起こってしまったのかを見ていきましょう。
島原の乱とは?
島原の乱とは1637年に島原地方で起こった一揆のことで、日本史上では最大規模の内戦として知られています。
この島原の乱によって幕府はさらにキリスト教徒に警戒するようになり、その一年後にはポルトガル人を日本から追放して鎖国が敷かれました。
島原の乱が起きた原因
島原の乱が起こった原因を紐解くには当時島原地方を治めていた島原藩主であった松倉勝重の悪政を見ることが早いです。
戦国時代まで島原の地域は有馬晴信というキリシタン大名が治めていました。
しかし、1614年に有馬家は宮崎県の延岡に転封。
代わりに奈良県の五条から松倉重政が4万石で入ることになったのです。
しかし、この松倉重政がとんでもなくヤバイやつでした。
4万石の小さな大名な癖に
- 朱印船貿易に手を出す
- 島原城を改築する
- 江戸城の普請を手伝う
など背伸びをし過ぎる行動を行なっていきます。
当然このしわ寄せは農民の年貢に届き、農民は重税に苦しむことになってしまいます。
さらに松倉重政の息子の松倉勝家の代に突入するとこの背伸びな行動はより激化。
よりにもよって本来なら4万石な癖に幕府にはその2.5倍の10万石と申請してその10万石の分の年貢を農民に納めるように強要して、農民の生活をどんどん苦しめていきます。
また、勝家自身はゴリゴリの仏教徒。
幕府から禁教令が出されたことも理由の一つとして年貢を納めない農民やキリスト教徒をどんどん弾圧。
オランダ商館長によると仏教に改宗を拒んだ人はもれなく火あぶりの刑に処されるなどその処罰は苛烈なものだったそうです。
もちろん農民からしたら藩主の勝手な行動によって自分の生活が苦しんでいるというわけですから我慢なりません。
農民は自分の生活やキリスト教徒のために立ち上がる事を決心し、ついに島原の乱と呼ばれる江戸時代初期に起こった大反乱が勃発してしまったのでした。
島原の乱の場所は?
島原の乱が起こった場所は今で言うところの長崎県に位置している中央部には雲仙岳がそびえ立つ島原半島で起こりました。
上にも書いた通り島原半島は元々有馬晴信と呼ばれる戦国大名が治めていましたが、1614年に延岡に転封されるとその後は松倉家が治めることになりましたが、農民は反乱を起こします。
でも反乱を起こそうにもその本拠地を決めなければいけません。
しかし島原半島には当時一国一城令が出されて廃城となっていた原城と呼ばれる城があったのです。
こうして島原半島の農民たち3万人はこの原城にこもって反乱を指揮していくことになっていくのでした。
さて、島原の農民はこうして原城にこもることになりましたが、果たして原城とはどんな城だったのでしょうか?
次はそんな原城について見ていきましょう。
原城
原城が築城されたのは1194年の頃だと言われており、有馬家の本拠地であった日之江城の支城として築かれました。
その後、この原城は有馬家の重要な城の1つとなっていました。
ですが、やがて有馬家が島原半島を去ると去った1年後に一国一城令が出されたこともあって島原半島では島原城以外の城は全て廃城となってしまいました。
島原の乱での凄惨な処刑と拷問
島原の乱において反乱軍は天草四郎を総大将として担ぎ上げて幕府側の拠点や島原城を攻めていきます。
ですが、幕府側からすればこれをどうにかしなければいけません。
しかし、最初に派遣した板倉重昌はあっけなく反乱軍によって討死。
これは幕府も相当焦ったそうで次は「知恵伊豆」とも呼ばれていた松平信綱を総大将として一揆の鎮圧に乗り出します。
松平信綱はただいたずらに城を攻めるのではなく、兵糧攻めにして一揆軍を干上がらせるという方法をとり、さらに、ポルトガルからの砲撃の手助けもあり反乱軍はどんどん衰えていきます。
こうなるともはやどうにもいかない始末であり、これを見た幕府軍は原城に総攻撃を開始。
反乱軍のほとんどが討死するか、のちに捕らえられて打ち首となるかの二択となり、総大将の天草四郎を始め反乱軍3万7千人が皆殺しとなり島原の乱は終結しました。
島原の乱の生き残りは?
島原の乱では女性・子供を含めた反乱軍3万7千人が全て皆殺しとなったそうです。
でも、実は1人だけ反乱軍に加担していたのにもかかわらず、幕府軍に命を救われた人がいました。
その男である山田右衛門作と呼ばれる人は一揆軍の中でもかなりの重鎮にもかかわらず、幕府軍と内通していたそうです。
彼は元々御用絵師というふうな形で松倉勝家に使えており、この島原の乱も嫌々で反乱軍に加担しただけだそうで、原城が落城して捕らえられても内通していたことが功を奏しなんとか生還することに成功したそうです。
島原の乱のその後は?
島原の乱はこうして反乱軍の玉砕で終結しましたが、この責任はもちろん藩主である板倉勝家に向けられる事になります。
幕府は勝家に反乱の起こした責任の罪と幕府に対して石高を誇張した罪に問われ藩主としては異例中の異例の斬首刑に処されてしまいます。
藩主が斬首ということは江戸時代においては後にも先にもこの板倉勝家のみであり、幕府が本当に勝家にキレていたということが目に見えて分かります。
その後幕府はかつての一向一揆同様「一揆に宗教が絡むとろくなことが起きない」とより一層思い込むようになり、その翌年には鎖国を発表。
徹底的に日本にキリスト教の教えを締め出して、外国船もキリスト教とはいってもあまり布教をしてこないオランダを除いて日本に来ることは出来なくなりました。
ちなみに今では島原の乱はキリスト教徒が起こした反乱だと思われがちですが、こう思われるようになったのには幕府がキリスト教の禁止と鎖国体制を正当化するためだったという説が有力なものとなっています。
しかし、島原の乱は日本の鎖国体制を決定づける重要な出来事だったのですね。
島原の乱で宮本武蔵も参戦していた?
島原の乱では大量の藩が動員され、反乱軍の鎮圧に乗り出していました。
その動員された藩の家臣の中にあの巌流島の決闘にて佐々木小次郎と死闘を繰り広げ、のちに五輪書を執筆することになる宮本武蔵が含まれていたのです。
実はこの当時、宮本武蔵は小倉藩を治めていた小笠原家に仕えており、養子である宮本伊織と共に藩の鎮圧に参加して乱の鎮圧にあたっていたそうです。
ただ、その肝心の活躍の方はイマイチだったそうで、よりにもよって元々島原半島を治めており、今では延岡藩主の有馬直純に対して「こっちは島原の農民の投石攻撃で負傷してしまった」と言う事を書き記した手紙が残っています。
しかし、この手紙の内容を見るとただの嫌味にしか聞こえませんね。
島原の乱を題材にした小説
「島原の乱をもっと知りたい!」と思ってくれた方がいれば、神田千里さんの著書である『島原の乱』がおススメです!
この本は幕府側からも、一揆側からも公平に島原の乱における動機について書かれており、島原の乱の意外な姿を知るにはもってこいの一冊となっています。
あと、島原の乱が後の世にどう繋がっていったのかを知りたい方は大橋幸泰さんの著書である『検証 島原天草一揆』を見るのもおススメです。
島原の乱を題材にした映画は?
島原の乱はキリスト教徒が迫害されていた事が一般的に知られているため、結構この欄をモチーフにしている映画は結構多いです。
その中でも特に有名なのが山田風太郎さんの著書であるおぼろ忍法帖を映画化した魔界転生と言う1981年公開 千葉真一さんが主演の映画です。
この映画は島原の乱によって討死した天草四郎が悪魔の力によって転生して幕府に復讐をするというストーリーなんですが、このストーリーはかなり好評でして、さまざまなリメイク作品が登場するなどの実績も残しています。
ご興味があれば、ぜひご覧になってみてください。
それでは、最後にまとめに入りたいと思います。
まとめ
- 島原の乱とは1637年に島原地方で起こった重税に反抗して起こった一揆のこと
- 島原地方では板倉勝家という人が見栄を張ってそのしわ寄せが農民に伝わってしまい、農民の生活を苦しめることになった
- 島原の乱において内乱軍は廃城となった原城に立てこもったが、幕府軍は兵糧攻めで対抗した
- 内乱軍は最後には女性や子供を含めた3万7千人が皆殺しされたが、幕府に内通していた山田右衛門作は生き残ることに成功した
- 島原の乱が終わった後、板倉勝家は斬首となり、幕府はより一層キリスト教を恐れていくようになってしまい翌年には鎖国体制を敷くきっかけとなった
- 島原の乱では宮本武蔵も参加していた
最後になりましたが、島原の乱は江戸時代の外交に大きな影響を及ぼした重要な出来事でもありました。
つまりは農民でも世の中を大きく変えることができるということを一揆の人たちは示したのかも知れませんね。