今回ご紹介するのは、福沢諭吉です。
明治期の偉大な思想家、教育者である福沢ですが、現在においても知らない人はいないくらいの存在感を放っています。
- 福沢諭吉の生涯とは?
- 福沢諭吉の思想とは?
- 福沢諭吉が1万円紙幣の肖像に選ばれた経緯とは?
今回は特にこのような点について詳しく見ていきますので、ぜひご注目ください!
目次
福沢諭吉の功績と生涯!
福沢諭吉は慶應義塾大学の創設者であり、現在の1万円紙幣の肖像となっていることでお馴染みでしょう。
ほかに、「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」といった文言のある『学問のすゝめ』を著したことでも有名です。
さらに、現在の一橋大学や専修大学などの創立に関わったり、洋書の翻訳をしたり(「society」を「社会」と訳したのは福沢のようです!)、幅広く活躍しました。
次の章で、福沢の生涯について見ていきます。
誕生日と年表も合わせてご覧ください。
福沢諭吉とは?
福沢諭吉は1835年、豊前国中津藩の蔵屋敷で生まれました。
1855年に、緒方洪庵という人物の適々斎塾に学びます。
そこで福沢は塾頭にまでなりますが、1858年に藩の命令によって江戸へ出ることとなり、蘭学塾の教授となります。
1860年には咸臨丸に乗って渡米します。
これを含めて三度欧米渡航をしており、近代文明を見聞したこれらの経験が、のちの彼の思想を形成することとなるのです。
明治維新を経て、彼は蘭学塾を慶応義塾とし、政府に出仕せずに民間での教育および著作活動を展開していきます。
彼が明治初期の思想界に特に影響を与えた著作は、
- 『学問のすゝめ』
- 『西洋事情』
- 『文明論之概略』
です。彼は「脱亜論」(後述します)を説いた上で、個人の独立や、儒学に代わる実学の必要性を唱えました。
1901年に亡くなるまで、多方面の分野において論説を展開し続けました。
彼は1984年11月発行の一万円札から、当紙幣の「顔」となり、現在も使われていますね。
福沢諭吉の誕生日
福沢諭吉の誕生日は12月12日です。
これは当時の暦上のことであり、西暦では1月10日となります。
年表
年 | 出来事 |
---|---|
1835 | 福沢諭吉生まれる |
1854 | 蘭学を学びに長崎に出る |
1855 | 緒方洪庵の適塾へ入門 |
1858 | 江戸へ出府 蘭学塾を開く |
1860 | 咸臨丸で渡米 |
1862 | 遣欧使節団に随行 |
1866 | 『西洋事情』初編刊行 |
1868 | 塾名を「慶應義塾」とする |
1872 | 『学問のすゝめ』初編刊行 |
1875 | 『文明論之概略』刊行 |
1892 | 北里柴三郎を助け、伝染病研究所の設立に尽力 |
1898 | 『福澤全集』全5巻刊行 |
1901 | 永眠 |
次の章では、福沢の思想について見ていこうと思います!
福沢諭吉の思想
福沢は、東洋の旧習にこだわって留まっていることを批判し、西洋の文明に倣うべきことを主張しました。
日清戦争は、彼の中で「西洋学と儒教の思想戦争」であり、支持していました。
彼は日本のみならず、東洋の諸国全体を西洋列強から守るために、このような主張を展開していたのです。
また、イギリスの議会政治を手本にすべきとしていました。
これは国外に日本の勢力を広げていくことを見据えたものだったので、当時高まっていた自由民権運動には否定的でした。
このほかにも、女性解放思想や著作権の保護などを主張していました。
次に、福沢の韓国に対する見方について見ていきます。
福沢諭吉は韓国嫌い?
福沢は、朝鮮を「見限った」と言われています。
福沢は当初、韓国において金玉均らが率いる開化派を積極的に支援していました。
腐敗していた王朝の変革を求めた彼らの行動は、福沢を期待させるものだったのです。
しかし、金玉均は暗殺され、韓国はその旧態依然とした体制を変えることはできなかったのです。
そのため、彼はそんな選択をした韓国に、苛立ちを覚えたのでした。
そして、このこともあって、彼は『脱亜論』を執筆することとなったのです。
次の章で、その『脱亜論』について見ていきましょう。
脱亜論とは?
前章で述べた経緯もあり、『脱亜論』を新聞『時事新報』の社説として掲載されました(ちなみに、『脱亜論』は当時無署名で執筆されており、後の時代になって福沢が記述したということになりました)。
ここでは、西洋文明の伝播に賛同し、日本がアジア的価値観から抜け出した(脱亜)ことを評価しています。
その一方で、中国・韓国が旧体制のまま近代化を拒んでいることを批判し、政治改革が行われなければ西洋諸国に分割されてしまうと危惧しています。
また、日本は中国・韓国と特別な関係を持つのではなく、西洋諸国と同じような付き合い方をすべきとも述べているのです。
次に、福沢が慶應義塾を創設した理由について見ていきます。
慶応義塾大学を創設した理由
福沢は江戸での蘭学教授を命ぜられ、大坂からやってきました。
すでに幕末期には経済、物理、化学をはじめ多くの蔵書を有しており、幕府の学問所と同等の教育水準を持っていました。
福沢は塾の経営を自らの使命であると捉え、また欧米を視察していく中で人物の養育の必要性を強く感じるようになります。
そして1868(慶應4)年に、元号をとって『慶應義塾』と命名し、ますます発展させていくのです。
次の章では、福沢が『学問のすゝめ』を書いた理由について見ていきます。
学問のすすめを執筆した理由
『学問のすゝめ』は1872年に初版が出版され、1876年に完成しました。
これは、日本が封建社会から近代民主主義国家に転換したことを述べ、欧米の政治思想や民主主義の説明をすることで、日本人に民主主義国家の主権者としての自覚を促すことを目指しました。
そのため、使われる比喩も平易なものが多く、市民への意識の浸透を図っています。
また、明治国家の発展が知識人にかかっているとして、当時の知識人の自覚を促す内容も盛り込まれています。
この『学問のすゝめ』はかなり売れ、なんと当時の人口のおよそ10人に1人が買った計算になるのです!
次に、福沢の残した名言をご紹介します!
福沢諭吉の名言
福沢の残した名言をいくつかご紹介します。
- 「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。」
- 「人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。」
- 「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。」
- 「学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。」
教育者としての彼の思想は、現在にも通ずるところがかなり多そうですね。
次に、「福澤心訓」について見ていきます。
福沢諭吉心訓とは?
「福澤心訓」は、7か条からなる教訓です。
福沢諭吉が作ったとされて広まっているものの、じつは作者は不明なのです!
慶應義塾大学も、この作者が福沢であることを明確に否定しています。
心訓の内容は以下の通りです。
心訓
一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
(Wikipedia 福澤心訓 より)
福沢本人の作ではないとされてからも、福沢の真作とみなし、肯定的にみる向きはかなり大きいようです。
次の章では、福沢がお札になった経緯に迫ります!
お札になった理由
1万円紙幣の肖像となった人物は、2019年現在までで聖徳太子と福沢諭吉の2人だけです。
それでは、なぜ福沢が選ばれることとなったのでしょうか。
財務省のホームページには次のようにあります。
「最高券面額として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また、肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人の中から採用したものです。」(財務省HP より)
品格ある教養人として、福沢諭吉は高額紙幣の「顔」にもってこいだったということですね。
また、紙幣の肖像の人物に関して、次のような経緯があります。
1963年に発行が開始された千円紙幣の肖像が伊藤博文に決まった際、議論が巻き起こりました。
朝鮮半島の人々にとっては、伊藤は帝国主義の象徴のようなもので、そのような人物を紙幣の「顔」とするのはいかがなものか、という議論です。
それを踏まえ、伊藤から次の千円紙幣となる夏目漱石に切り替わる1984年から、紙幣の肖像の人物は政治家ではなく、文化人や教育者から選ばれるようになったのです。
福沢がますます「適任」だと思えてきますね。
次の章では、福沢諭吉の子孫について見ていきます。
福沢諭吉の子孫について
福沢諭吉には多くの子どもがおり、なかには慶應義塾塾長となった福澤一太郎や、時事新報社長となった福澤捨次郎がいます。
諭吉の曾孫にあたる福澤武氏は、三菱地所の名誉顧問で、元社長です。
また、諭吉の玄孫である福澤克雄氏は、テレビドラマのディレクター・演出家などを務める人物です。
ドラマ『3年B組金八先生』や映画『私は貝になりたい』など、多くの有名な作品を手がけています。
次に、福沢諭吉の墓について見ていきます。
福沢諭吉の墓
福沢諭吉の墓は、東京都港区の善福寺にあります。
この善福寺は、東京都では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹です。
福沢の命日である2月3日は「雪池忌」と呼ばれ、慶應義塾の関係者が多く訪れます。
なお、福沢の墓は1977年以前は品川区大崎にありました。
次に、福澤諭吉記念館をご紹介します。
福沢諭吉記念館
福澤諭吉記念館は、大分県中津市にあります。
『学問のすゝめ』の原本など、福沢に関する資料を多数展示しており、誰でも楽しめるように工夫が凝らしてあります。
なおこの記念館は、福沢が幼少期を過ごした旧居に併設されたものです。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、福沢諭吉について振り返ってみましょう。
天保5年12月12日(1835年1月10日)、福沢は生まれました。
はじめ緒方洪庵の適々斎塾で学び、その後江戸で蘭学教授を務めることとなります。
欧米訪問を経て、人材育成の必要性を痛感した彼は、塾を「慶應義塾」と改めます。
明治維新後は『学問のすゝめ』などの書物を執筆し、明治初期の思想界に大きな影響を与えることとなります。
日本の市民の啓蒙を促したこの『学問のすゝめ』は、当時の日本人のおよそ10人に1人が買ったといわれるほど売れました。
東アジア諸国は西洋諸国に倣った近代化を進めるべきとしていました。
しかし、韓国の近代化は失敗に終わり、『脱亜論』を執筆することとなります。
福沢は1901年に亡くなり、現在彼の墓は東京都港区の善福寺にあります。
彼の残した名言としては、「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。」などがありましたね。
また、「福澤心訓」は福沢諭吉本人が書いたものではないとされています。
明治期に国内外で存在感を示した彼は、1984年発行分から1万円札の「顔」となりました。
福沢の子孫の方としては、三菱地所元社長の福澤武氏や、テレビドラマのディレクターの福澤克雄氏がいます。
大分県中津市には、福澤諭吉記念館と、福沢が幼少期を過ごした旧居があります。
ぜひ一度訪れてみてください!