少し前に完結した空知英秋氏のジャンプ漫画『銀魂』、および90年代にヒットし、今再びジャンプSQで連載することになった『るろうに剣心(略称:るろ剣)』で登場することになった、新撰組二番隊組長・永倉新八。
(正確には、永倉自身が登場するのはるろ剣だけで、銀魂には永倉は登場せず、彼の名前を使った人物が登場します)
大河ドラマ『新選組!』が終わって15年以上たちますが、今再び永倉が注目されようとしています。
- るろうに剣心と銀魂に登場した永倉はどんな人物か!?
- 沖田総司や斎藤一と比べて、どれだけ強い!?
- 意外にも映画が好きだった!?
それについてみていきます。
目次
永倉新八がるろうに剣心と銀魂に登場!
今現在ジャンプSQで連載されている和月信宏の『るろうに剣心 明治剣客浪漫譚・北海道編』では、永倉新八が斎藤一とともに登場しております!(アニメや実写映画には登場していませんが)
90年代の週刊連載時代から構想されていた『北海道編』で永倉は登場させる予定だったようですが、一旦お蔵入りになっていました。
今回北海道編を改めて連載するにあたって、史実でも北海道に住んでいた永倉が登場という形になりました。
ただ、『無鉄砲でがむしゃら』と呼ばれた史実とは違って、『親戚の集まりには必ず一人いる、ゆるくてうっとおしいおっさん』というキャラクターにしています。
- 44歳の中年男
- 常に張りつめている斉藤とのキャラ分け
が理由だそうです。実際、主人公の緋村剣心や斎藤一が池田屋事件に参加していないにもかかわらず、
- 『池田屋で剣心と沖田総司が優男対決をした』
- 『剣心と斎藤が因縁の始まりになる対決をした』
- 『剣心と近藤局長が一度きりの一騎打ちをした』
などと、フィクションまみれの回顧録を残そうとするなど、その性質はすごいおおざっぱ。
やたらスキンシップも2人にしているあたり、剣心も斉藤も彼を多少うっとうしがっているようです。
(ちなみに史実の斎藤は、土方歳三率いる別動隊の一員として参加し、池田屋事件鎮圧直前に池田屋に到着しています。)
その一方で44歳らしく、酸いも甘いもかみ分けた大人らしい面もあります。
新選組幹部のほとんどが死にながらも自らは生き残ってしまっただけに
- 『狼ではなくただの狗(犬)』
- 『明治の死にぞこない』
と自分で自分を軽蔑しております。
親の仇に会っていきり立つ少年をたしなめたり、待ちの姿勢でありながらも剣の腕は立っていたりと実力も確か。
- 『受ける』
- 『崩す』
- 『叩き切る』
を得意としており、下段の構え(刀を水平より少し下げた構え方)で相手の攻撃を受けた後、そこから相手の体の重心を崩して無防備なところを切り倒すのが得意なよう。
これはおそらく史実にもあった『龍飛剣(りゅうひけん)』、つまり、上へ相手の剣をすり上げながら切り倒す戦術を得意としていたことからきた設定のようです。
るろ剣の龍飛剣の全貌はまだ明らかになっていませんが、彼が敵に対しどのように対抗していくのか、気になるところです。
原作が完結した空知英秋の『銀魂』においては、永倉新八その人は登場していません。
新選組がモデルの真選組の二番隊組長に『永倉新七(ながくらしんしち)』という名前がある程度。
(ちなみに三番隊組長は『斉藤終(さいとうしまる)』という名前なのですが、こちらは無口なアフロヘア―の男として結構登場しています)
主要人物としては、ネーミングだけ永倉新八と志村けんを混ぜ合わせたと思しき『志村新八』という人物が登場します。
アニメ声優は阪口大助、実写映画版ではイケメン俳優の菅田将暉が演じております。
(ちなみに、アニメ新八は仲間たちから散々『ダメガネ』『ヘタレ』『人間をかけたメガネ』等といわれているため、三次元(実写)で菅田将暉が演じていることを強調してイケメンキャラになりたがっているようです……)
主人公・坂田銀時の弟子兼部下という設定ですが、『万事屋(よろずや)』という何でも屋を営みつつも、普段ギャンブル狂で自堕落な暮らしをする銀時や、大食いで毒舌なヒロイン・神楽(かぐら)のブレーキ役兼ツッコミ役のポジションで、戦闘力は比較的低いのですが、普段の生活力では3人の中で1位でお母さんポジションといえましょう。
ある意味永倉も、近藤・土方・沖田と比べると地味なので、彼のポジションを考えた設定といえましょうか。
次に、永倉の生涯についてみていきます。
永倉新八とは?77年の生涯
永倉新八は1839年5月23日、北海道松前藩(函館よりさらに南の、現代の松前郡を統治していた藩で、アイヌ人シャクシャインの反乱を鎮圧した藩でもありました)で、幕府との連絡役であった長倉勘次の次男として生まれました。
江戸の下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり。現代の東京都台東区小島2丁目で、榎本武揚もここで生まれたといわれています)にあった松前藩の上屋敷(かみやしき。藩士のうち責任の重い仕事をしていた者たちが江戸に滞在する際の屋敷)で生まれます。
そして、剣術をマスターするために、幕末三大剣術と呼ばれた神道無念流(しんどうむねんりゅう。桂小五郎も後述の免許皆伝)を江戸で学び、1856年にそのマスターである『免許皆伝』を取得します。
新八は全国を回って強い剣士と交わりたいと思い、1856年、松前藩を脱藩(だっぱん。藩主の許可なく藩を出ていくことで、重罪になります)。
このころから『永倉』という姓を使うようになり、後に市川宇八郎(いちかわうはちろう。後の芳賀宜道(はがぎどう))や後の新選組監察・島田魁(しまだかい)と知り合い、やがて近藤勇の天然理心流の道場『試衛館(しえいかん)』の食客(しょっかく。一言で言うと用心棒。るろ剣の緋村剣心もニート侍といわれているけどこれにあたるか?)となります。
1863年2月に、京都へ行く将軍・徳川家茂の警護を目的に浪士組が募集されると、近藤とともに参加。
壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の名前を経て新選組が結成されると、二番隊組長、および剣術師範(けんじゅつしはん。剣道の先生)として重職を務め、池田屋事件においても切り込み隊長の1人となり、左手親指に重傷を負いつつも、近藤とともに最後まで戦い抜きました。
しかし元脱藩浪人のためか、『近藤の同志ではあっても部下ではない』という思いが最後まであったよう。
池田屋事件以降近藤が天狗になってくると、彼の横柄なふるまいを書き記した『非行五か条』を、島田や斉藤や十番隊組長・原田左之助らとともに上司の松平容保に提出して止めようとしております。
こののちには近藤らとともに幕臣に取り立てられるなどの出世もしましたが、やがて油小路事件など、新選組の内部抗争の鎮圧もしなければならない立場となりました。
さらに1868年から始まる戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで一人刀で敵陣に切り込もうとするも敗北。
3月に江戸にもどり、『甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい。戦国最強の武田が治めていた甲府を鎮圧する部隊)』と名を改めた新選組に同行しますが、甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる新政府軍に敗北。
(ちなみにこの時板垣は『乾退助(いぬいたいすけ)』と名乗っていましたが、岩倉から「武田家臣であった板垣に姓を戻して、甲州の人間の支持を得たほうがいい」と言われて板垣姓に戻し、それが新政府軍の勝利につながったといわれています)
その後の進退に関する意見の違いから、かねてから増長していた近藤とついに袂を分かちます。
その後は友人であった芳賀宜道と原田左之助と共に靖兵隊(せいへいたい)として幕府に抵抗しますが、会津藩降伏を知ると事実上抵抗をあきらめて江戸に行き、そこで新政府軍についていた松前藩から、戻ってきていいという命令が下ります。
そして1871年(明治4年)、藩医の娘であった杉村きねの婿となり、杉村姓を名乗って松前藩に戻ります。
しかしこのころには『新選組は悪の使者、人斬り集団』という認識が日本全体に広がっており、『永倉新八』をもう名乗れなくなった永倉は、1873年に杉村治備の名を経て、杉村義衛(すぎむらよしえ)と改名。
34歳の時に第二の人生が始まりました。(同じころ斉藤もまた、妻の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しています)
小樽に移った後、1882年から樺戸集治監(かばとしゅうちかん。現代の北海道月形町にあった刑務所で、跡地付近には現在でも月形刑務所と少年院・月形学園があります)の剣術師範を4年務め、看守に剣術を教えています。
その後は今の東京新宿区あたりで剣術道場を開いた後、1899年に妻子が経営する薬局を見るために再び小樽へ戻ります。
1909年7月、70歳となった永倉は小樽市花園に住んだ後、東京帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の剣道部を指導しました。
1915年(大正4年)1月5日、虫歯が悪化して起きた骨膜炎と敗血症で、77歳で死去。
奇しくもこの8か月後の9月28日には、斎藤も胃潰瘍で72歳で亡くなりました。
永倉の墓は、
- 小樽市中央墓地
- 札幌市里塚霊園
- 東京都北区滝野川(近藤が処刑された板橋に近い)
の3か所にあるといわれています。
彼の回顧録から小樽新聞に『新選組顛末記(しんせんぐみてんまつき)』が1913年連載され、悪の権化とされた新選組への再評価が行われるようになっていきました。
次に、その激動の77年を見ていきます。
激動の77年
江戸後期になるとどこの武士も貧窮することが多く、後継ぎの長男は『惣領』と呼ばれるのに対し、弟たちは『厄介』『冷や飯ぐらい』と呼ばれ、他家に養子に行けるかどうかが鍵となっていました。
松前藩は幕末、その中でもかなり財政的に貧窮していたらしく、新八は松前藩の下で一生安泰で暮らせるかどうか疑問を持っていたんじゃないでしょうか。
しかしその中で剣術を極め、より広い世の中を見ようとして脱藩したあたりは、あくまで剣術に生きようとする姿勢がうかがえます。
当初は自分より強い剣客に会い、自分の剣の腕を極限まで上げようとしていた永倉。
しかしやがて、自分では剣に劣るはずの近藤に惹かれ、やがて近藤の同志として新選組に所属することになります。
やがて新選組の幹部として歴史の中に立つことは、その時には想像していなかったでしょう。
あくまで試衛館の用心棒として、一生を終えるつもりだったのでしょうか、それとも?
そしてその中で、浪士組に参加してからようやく、自分の剣術を本格的に生かせるような境遇に置かれたといっていいでしょう。
『るろうに剣心』の斎藤の有名なセリフに「お前達とはくぐった修羅場の数が違うんだよ」がありますが、永倉も負けず劣らず、池田屋事件、油小路事件と数々の修羅場を潜り抜け、最終的には幕臣の地位まで上り詰めます。
(ただ近藤とはあくまで『同志』であって『部下ではない』というプライドが当初からあったようでした。永倉は松前藩の脱藩浪人に対し、近藤は中の上とはいえ農民の家の生まれということもあったようですが)
おそらく、新選組結成から鳥羽・伏見の戦いまでが永倉の人生の全盛期だったと私は思います。
しかしながら、鳥羽・伏見の戦いで最新式の銃をそろえた新政府軍に、刀しか取り柄のない自分たちが完敗していくのを見た時にはショックだったのか、と思いますね。
それでも刀一本で敵陣に突撃しようとしたり、近藤の怪我が完治するまでは土方に代わって隊長代理を務めたりするあたりは、それだけ人望があり、土方の信頼も厚かったものと思われます。
しかし抵抗もむなしく、近藤とも袂を分かった彼は、もう完全に新時代の落伍者となっていました。
やがて改名をし、明治の代で廃刀令が出され、軍人と警官以外は刀を持てなくなります。
警官になった斉藤はともかく、永倉は警官でも軍人でもなかったので、唯一の取り柄である刀が持てなくなった際、さも肩身の狭い思いだったと思います。
しかしその中で無事刑務所の剣術師範となったり、東京で道場を開いて生計を立ててそこそこやってきたあたりは、それだけ彼の剣の腕(神道無念流はかなり有名ということもありましたが)が優れていたといえましょう。
晩年酒に酔うとふんどし一枚となり、刀傷や銃創を見せながら、「お国のために働いた体だ、わしの誇りだ」というのが癖だったそうです。
幕末から明治を生き抜き、激動の人生ではありましたが、時代からそっぽを向かれても剣術を手放さなかったのは、彼の剣への情熱といえましょうか。
その一方で、自身の全盛期を作った新選組の名誉挽回のための行動も忘れず。
1876年には元幕府お抱えの医者であった松本良順と共に近藤と土方の墓を作ったほか、新選組側の弁として、『浪士文久報国記事』、『七ケ所手負場所顕ス』を出版。
さらには小樽新聞の取材にも応じ、彼の証言から、『新選組顛末記』ができるのです。
次に、彼の子孫についてみていきます。
子孫について
息子の杉村義太郎は、父の13回忌に当たり新選組顛末記を本にして出版しております。
さらに永倉のひ孫の杉村悦郎氏は伝記作家として『子孫が語る永倉新八』等永倉関連の書物を出版。
悦郎氏の弟の杉村重郎氏はアニメーション制作プロデューサーとして、『キテレツ大百科』およびその後番組『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の撮影監督を行った後、現在はアニメ会社シグナルエムディの取締役として『はなかっぱ』『劇場版Fate/Grand Order』等の製作にかかわっていきます。
次に、永倉の愛用の刀についてみていきます。
愛用の刀
- 近藤勇の『長曾祢虎徹(ながそねこてつ)』
- 土方歳三の『和泉守兼定(いずみのかみかねさだ。正確に言うと三代あるうちの二代目)』
- 沖田総司の『菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)』
等、数々の名刀を持っていたとされる新選組。
その中で永倉が所持していたのは『播州住手柄山氏繁(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)』。
刀鍛冶「氏繁」は姫路出身で、寛政の改革を行った松平定信に気に入られ、白河松平家(現在の福島県白河市を収めていた藩)の御用鍛冶として多くの刀を作り上げていきました。
永倉が使用したのはその中の四代目。
二尺四寸(約70㎝)の幅広い刀です。
池田屋事件の時には『帽子』と呼ばれる切っ先に近い部分が折れた記録がありましたから、それだけ戦を重ねてきたことがうかがえます。
永倉が使った手柄山氏繁は残念なことに現存してませんが、愛媛県伊予市には、市指定文化財として、『手柄山氏繁』の刀が保存されているといわれています。
戦国時代では朝倉家のように、家臣に名刀を欲することを禁止する大名もいましたが、天下泰平の江戸時代になって、武士以外のほとんどの人間が刀を持てなくなると、『刀は武士であることの身分証明であるとともに、魂でもある』という考えが定着していきました。
新選組は近藤と土方は農村地主、沖田や永倉は浪人の生まれと出自もばらばらで『烏合の衆』という要素が強かったでしょう。
だからこそ、せめて刀だけでも立派なものにしたかったのでしょうし、すぐに折れるぼろ刀では、幕末の時代を生き残れなかった可能性が高いですね。
次に、永倉が数少ない新選組の生き残りという点についてみていきます。
数少ない新選組の生き残りだった?
局長から隊組長までの、幹部系の隊士としては、この永倉と斎藤だけが維新後も生き残ったという確固たる証拠が残っています。
他に、新選組参謀・伊東甲子太郎の弟であった九番隊組長・三木三郎もいますが、彼は伊東とともに新選組から袂を分かった後、戊辰戦争で新政府側の赤報隊二番隊組長として参加しております。(維新後は司法・警官関係の仕事に)
十番隊組長・原田左之助も生き延びて清国(今の中国)に行き盗賊となったとも、日清戦争で老兵として参加したともいわれていますが、一般的には戊辰戦争の上野の戦いで戦死したといわれているので、三木と原田は幹部系の生き残り隊士から外します。
下っ端の隊士だと、生き残った人間は意外と多く、スパイの役を務めた監察・島田魁、美男五人衆の山野八十八(やまのやそはち)、近藤と同じ多摩の出身で新選組関連の記録を多く残した中島登(なかじまのぼり)等が生き残っており、彼らが世間をはばかって改名した記録もないようです。
(島田は維新後、一度士族の商法で失敗した後、剣術道場主や夜間警備員を務め、山野は京都の小学校の用務員、中島も士族の商法で失敗した後、葉蘭(はらん。和食の飾りによく使われるスズランの仲間)や花火の制作・商売をしております)
「『幹部系隊士の中で』維新後も永倉と斎藤だけが生き残った」とまとめたほうがいいでしょう。
つぎに、永倉が余生を小樽で過ごしていたというエピソードについてみていきます。
余生は小樽で過ごしていた
1873年に松前藩医だった杉村家の家督を継いだ永倉は、『杉村治備』の名前を経て『杉村義衛』と改名。
元々北海道出身の人間とはいえ、元新選組であった彼の世間の風当たりは強かったものと思われます。
彼を樺戸集治監の剣術師範として雇ったのは月形潔(つきがたきよし。今も北海道にその名字が残っています)でしたが、彼は尊王討幕派の福岡藩士だったから、かつての敵の下で使われるというのもつらかったと思いますね。
(逆をいえば、月形は永倉の腕を見込んで師範にしたのだから、清濁併せ呑む器の大きさはそれなりということなのでしょうが)
一方で1886年から1899年、つまり永倉が47歳から60歳の間まで、東京に出向いて剣術道場を開いたこともありました。
武者修行時代に知り合った島田魁が1900年、京都で死んだときにはその葬儀にも参加。
第2の人生以降、小樽をメインに住んでいたのですが、どこへ行っても、剣術とそれによって知り合った友人との絆を忘れなかった、といえましょう。
(余談ですが笑ゥせぇるすまんが「芸は身を助けるというが、芸によって結ばれた絆は実に固い」とこぼしています。永倉もそうなんでしょうなァ)
次に、永倉と同じ新選組三強といわれる、沖田総司と斎藤一と彼の関係についてみていきます。
沖田総司や斎藤一との関係
一番隊組長の沖田総司と、三番隊組長の斎藤、そして永倉は『三強』とよばれ、新選組が剣術において強かったとされる一番の理由となっております。
また彼らは新選組の撃剣師範も務め、新選組隊士の剣術の腕の向上に一役買っておりました。
一方で永倉と沖田・斉藤の関係についてみてみると、『同志』として行動を共にしつつも突き上げることが多かった近藤に比べて、印象に非常に欠けます。
沖田との関係
永倉と特に親しかったという記録は特にありませんが、永倉にとって沖田の剣の腕はインパクトが強かったよう。
「土方歳三、井上源三郎(六番隊組長)、藤堂平助(八番隊組長)、山南敬助(総長)が竹刀を取っては子ども扱いされた」と証言しています。
また、池田屋事件の時に沖田が血を吐いて離脱したというのは永倉の証言が元となっています。
ただ永倉の証言では「池田屋事件において沖田が昏倒した」とあるだけで、血を吐いたという証言はないようです。
(『沖田が池田屋事件で喀血した』というのは、子母澤寛(しもざわかん)が1928年になって出版した小説『新選組始末記』が最初だったといわれます)
後の永倉の記録でも「沖田は肺病を持っていた」とあるだけで、それが肺結核とは言っていなかったようです。
斉藤との関係
沖田に比べると、斉藤のほうが永倉と親しかったことが推測されます。
るろうに剣心では数少ない新選組幹部の生き残りなためか、そのつながりは史実以上のように描かれ、斉藤の連絡に合わせて当時樺戸集治監剣術師範であった永倉が斉藤たちの元に来ています。
しかし史実でも、繋がりはなかなかだったと思われます。
先ほど話した、増長した近藤を諫めるために会津藩に提出した『非行五か条』の中に、永倉とともに斉藤の名前もありました。
また、永倉は斎藤の剣の腕も評価しており、「沖田は猛者の剣、斉藤は無敵の剣」と言ったといわれています。
その一方で、甲州勝沼の戦いで新選組が敗北した折、永倉は原田とともに近藤と袂を分かったのに対し、斉藤は会津まで新選組に同行するという考え方の違いも見せました。
無鉄砲でがむしゃらな性格で『我無新(がむしん。がむしゃら+新八)』と呼ばれた彼。
無口で経歴に謎の多い斉藤や、試衛館時代からの近藤の弟子であった沖田とはあまり相いれなかったのかもしれません。
次に、『永倉新八最強説』つまり沖田以上に永倉は強かったという説についてみていきます。
永倉新八最強説!実は新選組で一番強かった?
先に結論を申し上げますと、『永倉が最強、2番目が沖田、3番目が斎藤』とみていいでしょう。
新選組隊士だったものの後に袂を分かち、討幕派の御陵衛士(ごりょうえじ)、および赤報隊二番隊に入ることになる阿部十郎によりますと、
「沖田総司という人が近藤の一番弟子で、なかなかよく使った。その次が斎藤一。それから、永倉新八という人がいたが、これは沖田より少し稽古が進んでいた」
『少し稽古が進んでいた』つまり、竹刀の試合においては永倉がやや強かったということです。
最初に屯所が置かれた八木家の証言によると永倉は『でっぷりした立派な体格の持ち主』だったそうなので、筋力もかなりなものだったと思われます。
(ちなみに沖田も『背が高く、肩が張りあがっていた』つまりスポーツマンのような体格だったという証言があります。ただし、美男だったという証言は皆無。)
実戦においてはというと、池田屋事件の時に永倉は沖田、および幕末三大剣術・北辰一刀流の達人であった藤堂平助、そして近藤と共に、天皇を連れ出そうとする浪士20数名の中に切り込んだといわれています。
しかしこの時に沖田は途中で戦線離脱(血を吐いたというのはフィクションという向きが強くなっています)、藤堂は折の暑さで頭を守る鉢金をはずしたところ、頭を斬られ重傷。
この2人が先に戦線を離脱した中で、永倉は左手親指に深い傷を負い、防具もボロボロになりながらも近藤と共に最後まで戦ったといわれています。
このことや、維新後永倉は幹部隊士の中では一番高齢で寿命を全うしたことを考えても(真の強さは繁殖力、生命力という人もいるにはいます)、永倉が新選組で最強とみていいでしょう。
次に、彼の意外な逸話やエピソードについて語っていきます。
永倉新八の驚きの逸話やエピソード
55歳の老齢で日清戦争に参加……しようとした
1894年に日清戦争が起きると、55歳になった永倉は抜刀隊(ばっとうたい。銃を使わず刀一本で敵陣に切り込む部隊)として志願しましたが、『お気持ちだけ』と断られました。
明治になっても平均寿命50歳弱で、永倉は当時としてはかなり高齢ということもありますし、この時の戦はもう銃火器を撃ち合うのがメインで、ましてや抜刀隊に入れても足手まといという思いも上にはあったのでしょう。
これに対し永倉は、「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲したといわれています。
晩年は映画好き
実は、年老いてからの永倉は、映画(とは言っても当時は音がなく、講釈師が映像について語るという形でしたが)にものすごい凝り、よく孫を連れて映画館に出かけたといわれています。
「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語ったことも。
さらに孫の証言によれば、映画の帰りに数人のヤクザに絡まれるも、眼力と一喝だけで追い払ったというエピソードもあります。
(刀が入った仕込み杖で追い払ったという説もあります。やはり『くぐった修羅場の数が違う』ということなのでしょうか。)
年老いても剣術の指導にこだわった
東京帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部員が、最晩年の永倉に指導を頼みました。
しかしもう70歳を超えていた体で、今だったら90歳近い年齢だったので、当然家族は断りましたが、剣術に愛着を持っていた永倉は『形だけ教えるから』と周りを懇願して参加。
しかし、熱が入りすぎたのか、稽古中に体を痛めてしまいます。
結局、学生が彼を馬車に乗せ、抱きかかえて彼の自宅に連れて帰ったそうです。
年老いても、剣術への愛情が衰えてなかったことがうかがえます。
まとめ
- 『るろうに剣心 北海道編』に登場した永倉は図々しいながらも剣の腕もたち、44歳の大人らしい所があり、『銀魂』では彼の名をモチーフとした志村新八が地味ながらツッコミ役として活躍。
- 剣道の腕においては、沖田や斎藤を上回って、新選組三強で一番の実力の持ち主だった。
- 晩年は映画に凝り、時代の敗残兵になったものの新時代の産物も味わった。
- 最期の最期まで、剣術への愛情は忘れなかった。
これが真実と言えましょう。
杉村義衛と改名してからも、刑務所で剣の先生を務め、年老いてからも大学の剣道を指導した彼。
晩年の彼は「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」「自分は剣術の他に能がない」と言ったといわれています。
これが事実ならば、剣術修行のため脱藩した彼が、最期まで剣術にこだわって向上させようとする姿勢がうかがえます。
まさに剣に生き、剣に死んだ人生といえましょうか。