今回解説していくのは将来を渇望されながらも安政の大獄によって26歳の短い生涯で幕を下ろした橋本左内!
彼は西郷隆盛や松平慶永などの有名人からその才能を認められていた人物だったのですが、今回はそんな橋本左内について
- 橋本左内の生涯
- 橋本左内の残した啓発録とは?
- 橋本左内と西郷隆盛の関係
- 橋本左内と安政の大獄の関係
などについて、詳しく解説していきたいと思います!
目次
橋本左内とは?
橋本左内は越前国福井藩の武士の家に生まれました。
彼は幼い頃から聡明で様々な本を残し、「池中の蛟竜」と称えられましたが、それだけでは飽き足らず15歳の時に福井から大坂に出て福沢諭吉や佐野常民などを輩出した適塾に入門。
緒方洪庵の下で医者の勉強をしたのちに福井に帰郷して医者として活躍しました。
しかし、適塾にいた時に習っていた蘭学にのめり込み、さらには水戸藩の藤田東湖など著名な学者と交流して最終的には福井藩主松平慶永の側近の蘭学者として活躍していくようになります。
しかし、安政の大獄の時に福井藩主であった松平慶永の処罰に連座して26歳の若さで処刑されてしまいました。
橋本左内の最期
橋本左内は安政の大獄の後に藩主の罪に連座して逮捕されることになりました。
元々は藩主と同じ謹慎という形だったのですが、彼の取り調べの時に井伊直弼の癪に触るようなことを供述したことが直接の原因となり、小伝馬町の刑場で斬首に処されてしまったのです。
橋本左内の墓
橋本左内の墓は東京都荒川区と福井市に存在しています。
東京都の方は処刑された後無縁仏として埋葬された時に作られたのですが、桜田門外の変が起こり、彼の名誉が回復されるとその遺骨は彼の故郷である福井県福井市に改葬されました。
今では彼のお墓がある場所は左内公園として今も供養されているのです。
名言
『目標に達するまでの道筋を多くしないこと。』
『激流にも耐えうる柱のように揺るぎない信念を心に持て』
橋本左内の啓発録とは?
橋本左内で一番有名かもしれないのが彼が15歳で記したとされる著作『啓発録』。
その中身はとても15歳が書いたものとは思えないほどの立派な内容でした。
立派な武士になるためには…
- 稚心を去る(幼い心を捨てる)
- 気を振るう(絶対に負けないという魂を持つ)
- 志を立つ(志を立てる)
- 学に勉む(学問に勉げむ)
- 交友を択ぶ(いい友達と交友を持って様々な意見を聞く)
という五つの目標をもつべきであると記しています。
この本は左内自身がこれから生きる時の指標として戒めて著した内容となっていますが、現在では有能な自己啓発の本として今に伝えられています。
橋本左内と安政の大獄
橋本左内が処刑されることとなった安政の大獄。
橋本左内がどうして処刑されることになったのかというと、この時代あった将軍家の後継争いが存在していたからでした。
ペリーが来航して以来混乱続きの江戸幕府なんですが、この時に将軍であった徳川家定が後継を生む可能性が絶望視されるようになると、
- 水戸藩主の息子で一橋家の当主となっておりとても有能で名高い一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍にするべきという一橋派
- 将軍から一番近い家柄である紀州藩の徳川慶福(徳川家茂)の南紀派
に分裂して激しく対立していました。そしてこの当時
- 一橋派の急先鋒に立っていたのが左内が仕えていた福井藩
- 南紀派側に立っていたのが井伊直弼
だったのです。そして井伊直弼が大老となると自身に反対していた一橋派をことごとく弾圧。
福井藩主であった松平慶永も無断で登城した罪で謹慎をくらい、そして側近であった橋本左内が逮捕され、そして処刑されることになったのでした。
橋本左内と西郷隆盛の関係
橋本左内はわずか26年しか生きていなかったこともあってなかなか評価されない人物でした。
しかし、左内の才能を最初から見抜いていたのが薩摩藩の西郷隆盛だったのです。
元々、橋本左内と西郷隆盛は将軍の後継者問題の時に一橋派として活動していたことが一つの要因でした。
西郷は彼のことを「我、先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本左内に服す」とベタ褒めしていたそう。
さらには西南戦争で西郷が自害した時も左内からの手紙を持ち歩いていたんだそうです。
もし、安政の大獄の時に左内が処刑されていなかったらもしかしたら西郷と左内が手を組み、そして違う歴史となっていたのかもしれませんね。
橋本左内と吉田松陰の共通点
橋本左内と吉田松陰は安政の大獄の時に同じく処刑された人物なのです。
教科書に安政の大獄は尊王攘夷の志士たちをまとめて弾圧したと書かれているため、橋本左内と吉田松陰は尊王攘夷派の人だったと思われるかもしれませんがそれは間違い。
実は井伊直弼が安政の大獄を行った理由はたしかに過激な尊王攘夷派の人を処罰したかったという理由がありますが、一番はやはり将軍家の後継争いに絡んだ問題でした。
橋本左内は最初の頃は尊王攘夷を唱えていましたが、安政の大獄の時には尊王攘夷の考えを捨て、開国しながらも幕府を守り、最終的には徳川幕府を中心として有力な大名や賢明な藩士が政治に参加する緩やかな連合体を目指していました。
彼は取り調べの時も「私は幕府のために働いたのだ」と発言しているため一概に松陰と同じ考えだったとはいえないでしょう。
しかし、橋本左内と吉田松陰の大元の思いはやはり「このままじゃ日本は危ないから改革をしなければ!」という志だったでしょう。
それが過激であれ、穏健であれ国を思う気持ちは同じだったのでしょうね。
後に与えた影響
彼が処刑された後、彼の目指した幕府中心の緩やかな連合体はのちに藩主であった松平慶永と彼のことを評価した西郷隆盛によって目指されることになります。
しかし、日本が向かった先は彼が目指したようなものではなく、薩英戦争後には薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、そして時代は一気に倒幕へと進んでいくことになります。
松平慶永はそれを必死に止めようとしたのですが、その願いは叶わず1868年皮肉にも慶永が推薦した徳川慶喜によって江戸幕府は崩壊することになります。
しかし、26歳の短い間に彼が与えた影響は大きなもので福井藩の藩士のみならず、他藩の藩士にも彼の考えを受け継ぐものが現れていくようになったのです。
もし、彼が処刑されなかったら明治維新を迎えてもその辣腕を振るっていたのかもしれませんね。
それではまとめに入りたいと思います!
まとめ
まとめです。
- 橋本左内は若い頃から聡明だったが安政の大獄で26歳で処刑された
- 橋本左内は15歳の時に自分を戒めるための本である啓発録を出したが、今では有能な自己啓発本として活用されている
- 西郷隆盛は橋本左内の才能を見込んでおり、自害する時は彼の手紙を持っていた
- 安政の大獄で処刑された理由は将軍の後継争いだった
最後になりましたが、橋本左内はわずか26歳の若さで処刑されたことによってその才能は発揮されず、橋本左内の出身藩であった福井藩はその後薩摩藩と長州藩に埋もれてしまい明治維新の時に活躍することはありませんでした。
もし、橋本左内が生きていたら時代は大きく変わっていたのかもしれませんね。