新撰組とは?メンバーの生き様や経歴など!映画「燃えよ剣」が2020年公開!

今回は新撰組について、徹底的に詳しく解説していきたいと思います!

 

  • 新撰組とは?
  • 結成された目的と主要メンバー
  • 新撰組の写真や組織図
  • 経歴と年表
  • 羽織や愛刀について
  • 局中法度とは?
  • メンバーの女性事情は?
  • 新撰組の生き残りとその後について
  • 新撰組と坂本龍馬の関係
  • 池田屋事件の真実

 

その他にも、新撰組ゆかりの地についてや、これまでの新撰組を題材にした作品、2020年公開予定の『燃えよ剣』についても詳しく解説していきたいと思います!

 

まずは、新撰組とは?について解説していきます!

新撰組とは?

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新撰組とは、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織です。

簡単に言えば、彼らは『幕府の警察』として、幕府を倒そうとする人たちを取り締まり、京都の平和を維持していた組織でした。

そして、新撰組の特徴として身分を問わず侍も農民も、剣術が上手で強い人であれば積極的に採用していました。

 

ちなみに、のちに新撰組の局長となった近藤勇は、農民出身です。

新撰組の元になったのは『浪士組』というグループでした。

この浪士組は、「将軍様が京都に行くから警備隊を作らなきゃ!」と考えた幕府が、江戸で募集を行って結成されました。

 

参加者は全員で江戸から京都へと移動します。

ですが、考え方の違いから衝突が起きて、ほぼ全員が江戸へ帰ることになってしまうのです。

このとき、あくまでも「将軍様の警備をするんだ!」と京都に残ったのが、近藤勇や土方歳三沖田総司といった有名なメンバーでした。

 

彼らは、1863年3月12日『京都守護職預かり 壬生浪士組』と名乗り、会津藩に許可をもらって活動を開始します。

壬生村に屯所を置いた壬生浪士組は、地元の人々に『壬生狼』と呼ばれ恐れられます。

 

しかし、過激な長州藩の攘夷行動を止めさせた『八月十八日の政変』で大活躍。

のちに、『京都守護職、会津藩松平肥後守容保中将御預浪士、新撰組』を拝命して活動が本格的になります。

 

その過程で、目に余る狼藉を繰り返す芹沢鴨を中心とする『水戸派』を隊内で粛清。

近藤勇を局長とした新撰組が誕生していきます。

 

そして、新撰組の名を一気に世に知らしめた事件『池田屋事件』が1864年6月5日に勃発。

この事件は、京を追われた長州藩の過激尊王攘夷派が密かに京に舞い戻り、三条小橋の池田屋でテロ行為の打ち合わせをしているという情報を聞きつけた新撰組が攘夷志士を斬殺、捕縛して京での暴挙を未然に防いだというものです。

 

その後も新撰組は、

  • 『禁門の変』
  • 『ぜんざい屋事件』
  • 『三条制札事件』
  • 『播磨屋事件』
  • 『天満屋事件』

など、荒れる尊王攘夷派と渡り合っていきます。

 

一時期は200人以上が所属する大グループになった新撰組ですが、隊士たちの間で争いが起こったり、あまりにもルールが厳しい面もあり、殺されたり切腹する隊士も少なくありませんでした。

農民出身の隊士が多かった新撰組は1867年、ついに幕府の家臣になることに成功します。

 

しかし、当時の幕府は、味方だった薩摩藩が長州藩と手を組んでしまうなど、力が弱くなってしまい、大政奉還によって朝廷に政治を行う権利を返します。

その上、薩摩藩や長州藩といった新政府軍は幕府を徹底的に潰すために『鳥羽・伏見の戦い』を仕掛けます。

 

そのため新撰組も新政府軍と戦うことになります。

ただこの時近藤勇は捕縛され処刑、さらに土方歳三も戦死。

トップの隊士が亡くなってしまったため、新撰組は新政府軍に降伏し、解散することになるのです。

 

壬生浪士組から始まり、解散するまでの活動期間は6年間という短い期間でしたが、幕府のために命を捧げきったその姿は、今でも人々の心をつかんで離さない存在となっています。

 

次は、結成された目的について解説していきたいと思います!

結成された目的

黒船来航以降、天下泰平と言われてきた江戸幕府の支配力が弱まると、人々の間で天皇を敬い外敵と戦う『尊王攘夷思想』が活発になってきて、政権を天皇に返そうという運動が起きはじめました。

 

そんな幕末の文久3年(1863年)に山形の庄内藩出身の武士である『清河八郎』や『山岡鉄太郎』が上洛する14代将軍・徳川家茂の警護を目的に身分前歴問わず人員を募集し、約200人からなる『浪士組』を結成。

この中に、のちの新撰組の中核となるメンバーとなる芹沢鴨や近藤勇たちも参加していました。

 

しかし、清河八郎は尊王攘夷の討幕派で、幕府から切り離して急進的な改革を行おうと幕臣を巻き込んで計画を練っていました。

しかし、それに反発した芹沢鴨たち13人は離脱し、攘夷のために江戸に戻る清河八郎とそれに賛同した人たちとは別に滞在先だった京都の『壬生村』に残って、公武合体によって幕府体制の強化策を助けることを目的とする『壬生浪士組』を結成したのでした。

 

つまり、新撰組が結成された目的は、『京都にいる江戸幕府の将軍を警護する』ため。

途中から意見の違いから分裂した『浪士組』の中の江戸に戻らず、京都の壬生村に残った人たちが『新撰組』となり、会津藩主・松平容保の指揮のもと京都の治安維持を担当することになっていくのです。

 

次は、新撰組の主要メンバーについて解説していきます!

新撰組の主要メンバー

ここでは新撰組の主要メンバーの名前や人物像をエピソード付きでご紹介していきますね。

 

  • 初代局長・芹沢鴨

 

芹沢鴨は短気で粗暴、すぐにキレて暴れだす破天荒な男でした。

朝から飲んだくれては当たり散らすこともありましたが、その一方でおおらかで人のいい面もありました。

今でいう酒乱のような感じだったようです。

 

彼は水戸藩の武士階級出身で、実はかなり教養のある人でした。

彼のおかげで(武士ということで)新撰組が会津藩のお抱え警備隊になれたと言っても過言ではありません。

しかし、彼の犯した悪行の数々が原因で、新撰組結成からわずか半年後に、新撰組内の派閥争いで『近藤派』に暗殺されてしまいます。

 

  • 二代目局長・近藤勇

 

近藤の生没年は1834〜1868年。

武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の百姓の三男として生まれました。

剣術は天然理心流宗家四代目を襲名。

 

彼は土方歳三、沖田総司ら故郷の道場から一緒出てきた隊士たちから絶大な信頼を得ていました。

芹沢鴨の暗殺後は局長になり、新撰組の指揮をとり、攘夷志士を取り締まり、京都市中の警備を担当しました。

 

『鳥羽伏見の戦い』では直前に銃撃を受けて負傷し、参加できませんでした。

その後、幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長となりますが、甲州勝沼で再び敗走。

最後は下総国(千葉県)流山で官軍に投降し、斬首となりました。

 

  • 副長・土方歳三

 

生没年は1835〜1869年。

武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の農家に10人兄弟の末っ子として生まれました。

 

剣術は局長・近藤と同じ天然理心流でしたので、そこで近藤と知り合い、近藤の右腕として数々の事件で武名を轟かせました。

また、彼は規則に厳しかったので『鬼の副長』と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられました。

 

色白で端正な顔立ちをしていて、しかも長身でしたので、女性からはとてもモテたそうです。

芸者や舞妓からもらった恋文を大量に箱詰めして、郷里の友達に送り、自慢したそうです。

ちょっと嫌味な奴ですね。

 

鳥羽伏見の戦いに敗れて帰東。

近藤らと甲陽鎮撫隊を組織し、甲斐勝沼で政府軍と戦ったが敗れ、下総流山で近藤が捕らえられたのちも、関東、東北と転戦、榎本武揚の一隊と合流し、箱館・五稜郭の戦いで戦死しました。

 

  • 幹部(副長という説もある)・新見錦

 

生没年1836〜1863年。

水戸藩出身、新見錦は『にいみにしき』と読むのが一般的とされていますが、『しんみにしき』ではないかという説もあり、そのあたりははっきりしていません。

 

時期は不明ですが岡田助右衛門に剣を学び、芹沢鴨や永倉新八と同じ神道無念流免許皆伝。

腕前は『達人の趣に御座候』とする風説が残っています。

 

新見は酒や遊びにふけり、隊務をサボることが多かった上に、隊の費用と嘘をついて民家からお金を強請ったりしていたことが書かれています。

 

永倉新八の『新撰組顛末記』によると祇園『山緒』で遊んでいた新見錦のもとへ行き、非行の数々を上げて切腹させたとあります。

その場にいたのは、土方、沖田、永倉、原田などそうそうたる剣客たちだったため、剣術が優れていた新見錦もさすがに覚悟を決めて、立派に切腹したということになっています。

 

  • 総長・山南敬助

 

生没年1833(推定)〜1865年。

 

仙台藩の脱藩浪士と考えられており、北辰一刀流の千葉周作の門人でした。

試衛館に他流試合を挑み、近藤に破れたのがきっかけで、試衛館の門人と行動を共にするようになりました。

 

文武両道の人としてもしられ、新撰組のスポンサーだった小島鹿之助は『武人にして文あり』と評しており、新撰組の中では局長、副長に次ぐ『総長』というポストにつきました。

 

しかし、伊東甲子太郎が入隊すると状況が一変。

後から入っていきた伊東は、山南より上の参謀に抜擢され、山南の立場はなくなり、居場所も無くなってしまいます。

 

山南は『江戸へ行く』と置き手紙を残して失踪。

新撰組の鉄の掟では『脱走=切腹』という決まりになっていましたので、山南が弟のように可愛がっていた沖田総司に捕縛され、切腹したのです。

介錯も沖田が断腸の思いで行ったそうです。

 

  • 参謀・伊東甲子太郎

 

生没年1835〜1867年。

常陸志筑藩士の長男として生まれています。

 

伊東は北辰一刀流の伊東道場の婿養子で、新撰組には門弟の藤堂平助の仲介で入隊しました。

水戸に遊学して、水戸藩志から剣術や水戸学(勤王思想)を学んでおり、剣だけでなく学問にも優れ、その上、容姿端麗で弁舌巧みな人物でした。

 

いきなり『参謀』(局長、副長に次ぐポスト)に抜擢されるという破格の待遇で迎えられました。

しかし、伊東は水戸藩仕込みの尊王攘夷派で倒幕を考えていたので、幕府を守ろうとする近藤や土方とすぐに意見が合わなくなってしまいました。

 

やがて伊東は新撰組を離脱し、御陵衛士を結成。

これに怒った近藤は伊東を酒宴に招き、その帰り道の油小路七条下ルにて新撰組によって暗殺(油小路事件)。

 

  • 一番隊組長・沖田総司

 

生没年は1842(推定)〜1868年。

江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区西麻布)で生まれたとされています。

9歳頃から試衛館の内弟子となっています。

 

沖田は、天然理心流と北辰一刀流の免許皆伝で、新撰組の撃剣指南役でした。

新撰組随一の剣の使い手と名高く、仲間内では、「本気で立ち会ったら師匠も近藤もやられるだろう。」と言われていたほどで、彼の率いる一番隊は数々の難任務をこなしました。

 

しかし、凄腕の一番隊組長という顔とは裏腹に、いつも冗談を言って笑っているような陽気な人物で、よく屯所界隈の子供達と遊んでいたそうです。

諸説ありますが、1867年頃から肺結核を発症して、病気療養の末に亡くなりました。

 

  • 二番隊組長・永倉新八

 

生没年は1839〜1915年。

松前藩江戸定付取次役の次男として、同藩上屋敷(現在の東京都台東区小島二丁目)に生まれました。

 

永倉は神道無念流の本目録を18歳で取得した腕前。

剣術好きが高じて、脱藩して剣術修行の旅に出て、試衛館の食客となりました。

 

とにかくがむしゃらな性格で、どんな相手にも刀一つで突撃し、防具がボロボロになるまで戦い続けました。

 

無茶な戦いぶりでしたが、新撰組解散まで生き残り、沖田総司、近藤勇、土方歳三といった新撰組同志が非業の死を遂げる中で明治維新後も生存し、かつその軌跡が明らかになっている希少な人物で、新撰組の名誉挽回に努めました。

 

  • 三番隊組長・斎藤一

 

生没年1844〜1915年。

出身は江戸とも播磨国(明石)とも言われています。

 

19歳の時に江戸で旗本と口論になり斬ってしまい逃亡。

父親の友人がやっている京都の剣術道場(吉田道場)に身を隠しましたが、そこで師範代を務めるまでに上達しました。

実力は『沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣。』とまで称され、三番隊組長として新撰組の撃剣師範となり、粛清役を多く務めたようです。

 

伊東甲子太郎が新撰組を離脱して御陵衛士を結成した時には、スパイとして御陵衛士に潜入しています。

 

油小路事件は斎藤がもたらした情報に基づいて行われたようです。

 

新撰組復帰後、戊辰戦争に参加。

生き残って、警視庁の警部補になっています。

 

  • 四番隊組長・松原忠司

 

享年31。

新撰組の記録では病死とされていますが、その死については諸説あります。(なんらかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通する。一説には銃殺とも)。

 

  • 五番隊組長・武田観柳斎

 

京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺されました。

武田の暗殺には斎藤や篠原康之進が関与したと伝わりますが、当時2人は御陵衛士に参加していたため、別人の可能性もあります。

 

  • 六番隊組長・井上源三郎

 

『源さん』の愛称で親しまれ、局長・近藤とは故郷の話に花を咲かせ、鬼の副長・土方ですら彼の前では心の防御を解いていたと言われています。

 

  • 七番隊組長・谷三十郎

 

谷三十郎は、京都東山の祇園社(八坂神社)石段下にて急死しました。

一説には、斎藤一に殺害されたとも言われているが、真偽は不明。

 

  • 八番隊組長・藤堂平助

 

生没年は1844〜1867年。

武蔵国に生まれて、江戸で育ったといわれています。

 

斎藤と共に新撰組では最年少幹部の一人。

十代半ばで北辰一刀流目録を取得して、池田屋事件でも最初に斬り込んだ人物。

伊東道場に出入りしていた時もあり、それが縁で伊東甲子太郎の新撰組入隊を仲介しています。

 

伊東が新撰組を離脱して御陵衛士を結成したときは行動を共にしました。

 

御陵衛士時代に砲術の免許を取得。

油小路事件の際に、伊東の遺体を奪還するために罠と知りつつ現場に向かい、待ち伏せしていた新撰組隊士たちに斬られました。

 

  • 九番組組長・鈴木三樹三郎

 

新撰組を題材とした作品では存在自体スルーされることが多いようです。

 

  • 十番組組長・原田左之助

 

生没年は1840〜1868年。

伊予松山藩に生まれました。

 

槍の名手で、種田流槍術(宝蔵院流槍術)の免許皆伝の腕前。

坂本龍馬暗殺(近江屋事件)の下手人として疑われたりもしました。(暗殺現場に落ちていた鞘を伊東甲子太郎が原田のものと証言したため)

 

しかし、実際は龍馬暗殺と新撰組とは関係がなかったと言われています。

油小路事件では伊東甲子太郎暗殺に参加しました。

近江屋事件での怨恨があったのかもしれませんね。

 

鳥羽伏見の戦いは新撰組として参加していますが、その後脱退。

彰義隊として上野戦争で負傷して死亡しています。

 

次は、新撰組の写真をご紹介していきますね!

新撰組の写真

新撰組の中で実際の写真が残っているメンバーをご紹介していきますね。

 

  • 近藤勇

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  • 土方歳三

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  • 芹沢鴨

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  • 永倉新八

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  • 斎藤一

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組織図

新撰組の慶応元年6月頃の組織図をご紹介していきます。

新選組 組織図

新撰組は当時の組織編成とは大きな違いがあり、小隊制を取り入れた大変画期的な組織編成でした。

 

組織のトップは『局長』、その補佐役が『副長』。

参謀は局長・副長に対するアシスタントスタッフのようなものです。

更に士官として、助勤と監察が副長の下に置かれています。

 

助勤は、内務では両長のを補佐し、実戦では小隊長として一隊を指揮します。

監察はいわゆる密偵のような情報将校で、副長の元で内外の情報収集及び、諜報活動をしており、隊内の監視役もしていました。

 

図を見てもわかるように、隊の機能上、助勤、監察という影の局長とも言えるように隊の全ての士官を直接握っているのは副長です。

この組織編成は、命令系統が一本化されているので決断も行動も早く行えます。

 

もちろん、副長は局長に対して責任は負わなければいけませんが、万一、失敗したときの責任は全て副長にあります。

副長が腹を切れば済むことで、局長の名誉は傷つくことはないのです。

 

この副長の位置には『土方歳三』がずっと就いていました。

彼が副長として全てを一任していたことが、迅速な指揮と新撰組の強さの一つと言える絶大な機動力を発揮していた理由と言えるでしょう。

 

次は、新撰組の経歴と年表について解説していきますね。

経歴と年表

《新撰組結成期》

 

〜文久3年(1863年)の出来事〜

・2月8日 浪士組が江戸を出発。

・2月23日 京都に到着。

・3月12日 会津藩預かりになり、『壬生浪士組』と名乗る。

・3月25日 殿内義雄刺殺。

・6月3日 大坂相撲の力士と乱闘。

・8月18日 『八月十八日の政変』で御所の警備に出動。

・9月13日 田中伊織切腹。

・9月18日 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱走。

・9月25日 隊名を『新撰組』と改める。

・9月26日 御倉伊勢武、荒木左馬之介、楠小十郎が長州藩の間者として粛清される。

・10月 岩城升屋事件。大坂の呉服商、岩城升屋に押し入った不逞浪士を撃退。

・12月27日 野口健司切腹。

 

《新撰組発展期》

 

〜文久4年、元治元年(1864年)の出来事〜

・5月20日 大坂西町奉行所与力・内山彦次郎刺殺。

・6月5日 『池田屋事件』奥沢栄助戦死、安藤早太郎、新田革左衛門らが負傷し、1ヶ月後に死亡。

・6月10日 明保野亭事件。池田屋事件の残党を捕縛。

・7月19日 『禁門の変』反乱を起こした長州藩の鎮圧に出動。

・8月頃 近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五カ条を提出。

・10月27日 伊東甲子太郎らが新撰組に入隊。

 

〜元治2年、慶応元年(1865年)の出来事〜

・1月8日 『ぜんざい屋事件』土佐勤王党の残党による大坂城乗っ取り計画を阻止。

・2月23日 山南敬助切腹。

・3月10日 西本願寺へ屯所を移す。

・9月1日 松原忠死亡。

 

〜慶応2年(1866年)の出来事〜

・2月15日 河合耆三郎切腹。

・4月1日 谷三十郎死亡。

・9月12日 三条制札事件。三条大橋の制礼を引き抜いた土佐藩士を捕縛。

 

《新撰組解散期》

 

〜慶応3年(1867年)の出来事〜

・3月20日 伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら13人が『御陵衛士』を結成して離隊(斎藤はのちに新撰組に復帰)。

・6月10日 幕臣取り立てが決まる。

・6月15日 不動堂村へ屯所を移す。

・6月22日 武田観柳斎刺殺。

・11月18日 『油小路事件』御陵衛士との抗争。伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄ら刺殺。

・12月7日 『天満屋事件』海援隊士・陸援隊士との戦闘。宮川信吉と舩津釜太郎戦死、梅戸勝之進重傷。

・12月18日 近藤勇が墨染で御陵衛士の残党に狙撃され重傷。

 

〜慶応4年、明治元年(1868年)の出来事〜

・1月3日 『鳥羽・伏見の戦い』隊士1名戦死。

・1月5日 『淀千両松の戦い』井上源三郎ら隊士7名戦死。

・1月6日 『橋本の戦い』隊士4名戦死。

・1月10日 軍艦富士山丸と順動丸で江戸へ向かう途中、山崎丞死亡(異説あり)

・3月6日 『甲州勝沼の戦い』隊士2名戦死。

・3月12日 永倉新八、原田左之助らが靖兵隊を結成して離隊。

・3月13日 五兵衛新田(現・東京都足立区綾瀬4丁目)の金子家を中心に屯所を設営して滞在(4月1日まで)。

・4月2日 下総流山に陣を敷く。

・4月3日 近藤勇、新政府軍に包囲され投降する。

・4月12日 土方歳三、旧幕府陸軍に加わる。

・4月19日 『宇都宮城の戦い』

・4月25日 近藤勇、板橋刑場で処刑される。

・ 〃 『白河口の戦い』

・5月17日 原田左之助死亡(異説あり)。

・5月30日 沖田総司、肺結核により江戸で死亡。

・8月21日 『母成峠の戦い』

・8月24日 山口二郎(斎藤一)、池田七三郎ら13人会津に残留。

・10月26日 旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する。

 

〜明治2年(1869年)の出来事〜

・4月13日 『第一次二股口の戦い』

・4月24日 『第ニ次二股口の戦い』

・5月5日 市村鉄之助函館脱出。

・5月11日 一本木関門(現・函館市若松町)付近で土方歳三戦死。

・5月14日 相馬主計が新撰組局長に就任、弁天台場の新撰組、降伏する。

・5月18日 旧幕府軍降伏、戊辰戦争終結。

 

次は、羽織について解説していきますね!

羽織について

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新撰組の象徴といっても過言ではない、袖口と裾に山形の模様を白く染め抜いた浅葱色(水色)の羽織

非常に特徴的ですが、モデルとなったものがあるようです。

 

実は、この模様は『忠臣蔵』として知られる赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に着ていたとされる羽織なんです。

そして、袖口と裾の模様は『ダンダラ模様』と呼ばれています。

 

赤穂浪士のよる討ち入り事件が起こったのは元禄時代、1701年のことです。

その翌年には、この事件をモデルにした歌舞伎が上演されました。

それ以降、浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となっていきました。

 

局長・近藤勇も副長・土方歳三も農家の出身で、武士に強い憧れを抱いていました。

『忠臣』の鑑として知られる赤穂浪士のようになりたいという思いが、この『ダンダラ模様』に表れているのではないでしょうか。

 

また、羽織の浅葱色(水色)は、武士が切腹のときに着る裃の色と同じ色なんです。

つまり、この色は死も恐れず、最後は武士としていつでも切腹して果てる覚悟があることを示しているのではないかとも考えられています。

新撰組の羽織には武士への憧れと、幕府への忠誠心が込められていたんですね。

 

では次は、愛刀について解説していきます。

愛刀について

ここでは、幕末最強の剣客集団と呼ばれた新撰組のメンバーの愛刀について、いくつかご紹介していきます。

 

①局長・近藤勇の愛刀『長曽袮虎徹』

長曽袮虎徹は江戸新刀の代表工である長曽袮興里が作った刀です。

見る者に緊張感を与えるほどの存在感を放つ長曽袮虎徹は、江戸時代の新刀期の刀でありながらも、古刀のように鉄が柔らかいという特徴があります。

 

江戸時代には、山田一門が担った日本刀の試し斬りを行う専門職があり、刀の切れ味の序列を決めていました。

切れ味ごとに4段階に分けられていましたが、当然のことながら長曽袮虎徹は『最上大業物』という、最も素晴らしい切れ味の刀剣として認められていました。

 

そして、近藤は『池田屋事件』のときも虎徹を持って乗り込んだと言われています。

 

当初、江戸幕府の転覆を謀る20数名の志士たちが集まる池田屋に、新撰組はたったの4人で攻め込みました。

その4人の中で、局長の近藤だけが無傷であったと言われています。

永倉新八の刀は激闘の末の折れてしまいますが、近藤の長曽袮虎徹は、持ち主同様に無傷でした。

 

池田屋事件の後、故郷の養父に宛てた手紙で、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と書き、他の隊員の刀はボロボロになったが、自分の刀は長曽袮虎徹だったので命が助かったということを述べています。

 

実は、近藤の愛刀は『無銘』だったため、長曽袮虎徹ではなかったという説もありますが、はたして無類の刀剣好きだった近藤が見誤ることがあるでしょうか、と考えずにはいられません。

 

いずれにせよ、近藤勇の愛刀は素晴らしい刀であったことには間違いないでしょう。

 

②鬼の副長・土方歳三の愛刀『和泉守兼定』

長さは二尺三寸一分六厘、会津兼定十一代目、和泉守兼定が京都で作ったといわれています。

 

文献などから、土方は八月十八日の政変や池田屋事件、蛤御門の変の出動の際に和泉守兼定を使ったと言われています。

 

③一番隊組長沖田総司の愛刀『菊一文字宗則』

沖田の愛刀は菊一文字宗則と知られています。

 

福岡一文字派の祖で備前国の刀工である則宗が作ったとされていますが、現存する彼の作った刀の中に『菊一文字』という刀は存在しません。

 

当時すでに国宝級の刀となっていた則宗の刀を沖田が使っていたことは考えにくいという説もあり、実際に使っていたのは『加州清光』とも言われています。

この刀は大きさが二尺四寸、池田屋事件の際に使われて、戦闘でボロボロになった加州清光を修理に出した記録が残っています。

加州清光の何代目の作かは不明です。

 

④三番隊組長斎藤一の愛刀『鬼神丸国重』

斎藤の愛刀・鬼神丸国重は、江戸時代の刀匠・池田鬼神丸不動国重による業物で、長さは二尺三寸一分、天和2年9月に作られたとされています。

 

池田屋事件の際に活躍し、新撰組の名挙げに一役買っていたかもしれません。

しかし、斎藤の愛刀は鬼神丸国重ではなかったとする説もあるようです。

 

実際、近藤勇が池田屋事件の前年に郷里の佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に興味深い記述があります。

「剣は大坂者は決して御用いなさるまじく候」

つまり、大坂の刀工による刀は用いるなということです。

 

これは、大坂で作られる刀は実用性よりも装飾性を大事にする傾向にあり、刀の焼きが強く折れやすいとされてきたからで、実戦が想定される池田屋事件で使用されることは考えにくいのです。

このことが、斎藤の刀は鬼神丸国重ではなかったという説の根拠の一つとして語られています。

 

斎藤の刀について気になる記録がもう一つあります。

『新撰組十勇士伝』の中で、「斎藤一においては、関孫六の一刀を引き抜き、エイとばかりに(中略)斬って落とした。」と書かれています。

 

ここの記された『関孫六』とは、刃物の町として有名な岐阜県関市で作られたものです。

4種類の異なる鉄を組み合わせて鍛える『四方詰め』の技術により、折れにくく頑丈な刀だったとされています。

 

実用性に富んだ名品を、新撰組最強の剣士である斎藤も実践刀として愛用していたのかもしれません。

 

⑤初代局長芹沢鴨の愛刀『備後三原守家正家』

芹沢鴨の愛刀・備後三原守家正家は二尺八寸、備後の刀工集団・三原の作です。

 

芹沢鴨は、大阪で力士と乱闘事件を起こしていますが、この時に力士たちを斬ったのがこの刀です。

芹沢鴨は泥酔であったにもかかわらず無傷でした。

暗殺された時に持ち去られたようで、行方不明になっています。

 

剣の腕前のみでのし上がってきた新撰組。

武士の時代が終わる幕末において、最後の最後まで剣の道に行き、そして死んでいった新撰組のメンバーを最後まで支えたのは『愛刀』でした。

 

真剣勝負の場合、前は死を意味します。

そのため、刀は吟味したでしょうし、手入れも入念だったでしょう。

 

そして、実用性とともに美しさも兼ねそろえた刀を皆さんも博物館へ観に行ってみてはいかがでしょうか。

 

次は、局中法度とは?について解説していきますね!

局中法度とは?

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局中法度とは、烏合の衆である新撰組(浪人集団)を統率するために定めれれた隊規のことをいいます。

隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清されました。

 

法として機能し始めたのは、『新撰組』と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊藤甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれています。

内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存の委ねられるところがありました。

 

では内容をご紹介していきます。

 

一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為をしてはならない)

一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)

一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)

一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)

一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)

右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)

 

このように、5箇条からなり違反者は切腹という厳しいもので、これで命を落とした隊士も相当いたといわれています。

新撰組を結成して以来、鳥羽・伏見の戦い以前の5年間で出した死亡者は45人で、うち戦いで死亡したのは6人のみ。

ほとんどが内部抗争の果ての斬り合いが法令違反で切腹した者たちだったそうで、この局中法度はその厳しさから『鉄の掟』ともいわれていました。

 

次は、メンバーの女性事情について解説していきます。

メンバーの女性事情は?

不安定な情勢の中で明日をも知れぬ命の新撰組隊士たちは、女性に癒しを求め、遊郭で華やかに遊んだと言われています。

そして、彼らの恋愛に関する逸話や記録も多く残されています。

ここでは、激動の時代を戦いに生きた新撰組隊士たちの女性事情についてご紹介していきたいと思います。

 

まずは新撰組局長・近藤勇の女性関係について。

新撰組のリーダーであった近藤勇には、酒と女にまつわる武勇伝が多数残されています。

そして、近藤には5人の愛人がいたと言われています。

 

江戸には武家の娘である妻『つね』がいましたが、当時、妻の他に『鳥山沢子』という10代の愛人があり、神田三河町に囲っていたと言われています。

京都に来てからの近藤勇は、江戸での困窮した生活から一転して、かなり羽振りが良かったようで、あちこちの廓に通い詰めて遊んでいたようです。

 

中でも寵愛を受けたのが、『深雪太夫(みゆきだゆう)』という遊女でした。

近藤は、幹部隊士だけが行くことを許された休憩所を作っており、そこに大阪新町の深雪太夫を身請けして囲っていたようです。

 

太夫といえば遊女の中でも最高ランクで美貌だけでなく、芸や教養にも秀でたいわば「高嶺の花」。

そんな女性を大枚をはたいて身請けしたくらいですから、どの程度入れ込んでいたかお分かりいただけるでしょう。

 

しかし、この深雪太夫は体が弱く若くして亡くなってしまいました。

近藤は深雪太夫のことを忘れることができず、今度は深雪太夫の妹である『考(こう)』を大阪の吉田屋から身請けして手元に置いていたと言われています。

 

その他にも京都三本木の『駒野』と『植野』。

駒野との間には男の子も生まれました。

 

そして、島原の『金太夫』もお気に入りだったと言われています。

もともと武家の出身ではなく、身分にコンプレックスを持っていた近藤でしたので、「最高ランクの女」と「武家の娘」などステイタスシンボルが欲しかったのかもしれません。

 

次は、副長・土方歳三についてです。

土方歳三は甘いマスクの持ち主で、非常にモテたと言われています。

新撰組に入る前からモテすぎてトラブルが多発していたようで、働いていたお店でも女性に手を出して妊娠騒動を起こしたりしています。

 

新撰組に入った後は、ざっと名前をあげると島原の『花君太夫』、天神屋の『一元』、北野の『君菊』と『小楽』、大阪新町の『若鶴太夫』、祇園では芸妓3名、その他にも書ききれないくらいの女性関係がありました。

この中で、君菊との間には女の子が生まれました。

しかし、子供はすぐに死んでしまい、君菊もその後亡くなってしまいました。

 

そんな土方ですが、近藤勇が処刑されてからは態度が一変、箱館では他の隊士たちが遊女と遊んでいましたが、土方だけは全く女性と関わりを持たなかったそうです。

 

次は沖田総司についてです。

沖田総司は生涯独身を貫き、遊郭での遊びもせず、浮いた噂もなかったと言われていますが、そこには若い頃のトラウマが関係していたようです。

 

まだ近藤・土方と共に上洛する前の事ですが、沖田は町娘に逆プロポーズされ、「修行の身なので・・・。」と断ったそうです。

するとその娘は恥ずかしさのあまり自殺未遂、懐刀で喉を突いてしまったのです。

まだ若かった沖田は目の前で女性が死のうとしたのを見て、「自分のせいで傷つけてしまった。」と心に傷を負ってしまったのかもしれません。

 

とは言え、全く心を閉ざしてしまったわけではないようで、ほのかな恋心を抱いたお相手もいたようです。

それがどんな女性だったかは全く記録が残っておらず、ただ『町医者の娘』としか分かっていませんが、きっと純朴な恋を育んでいたのではないかと想像されます。

 

しかし、この恋は近藤勇の反対によって成就しなかったのでした。

自分の気持ちより近藤の命令を優先させるところをみると、どれだけ近藤に忠誠を誓っていたのかわかりますよね。

それにしても、それはそれで可哀想な気もします。

 

普段は女遊びよりも、近所の子供たちとお寺の境内で遊んでいることの方が多かったと言われる沖田は、女性に対してはかなり奥手で、お相手にもごく普通の感覚と純朴さを求めていたのかもしれません。

 

次は、傍若無人すぎて暗殺された芹沢鴨についてです。

この芹沢鴨の我が儘によって二人の男女が死んでしまうという事件があったので、ご紹介します。

 

新撰組に佐々木愛次郎という19歳の少年がいました。

この少年はかなりの美少年だったそうです。

 

その愛次郎は、近所の八百屋の娘で、17歳のあぐりという少女と出会い、相思相愛に。

あぐりも評判の美少女で、お似合いのカップルでした。

 

ある日二人が散歩していると、偶然芹沢一行に遭遇。

あぐりを見て気に入った芹沢は、翌日愛次郎を呼び出し、「あの女を連れてこい。俺の妾にするから差し出せ!」と言ったのです。

 

好きな女性を他の男に差し出すなど、どうしてもできないと困った愛次郎に芹沢の腹心である佐伯が、「芹沢さんからは逃げられない。こうなったらあぐりと一緒に脱走するしか道はない。」と言ったのです。

そして、愛次郎とあぐりは二人で京都から逃げるため駆け落ちしました。

 

ところが、逃げている途中で佐伯らが待ち構えていたのです。

そして、愛次郎を斬り殺し、さらに佐伯はあぐりをレイプしようとしました。

あぐりはその場で舌を噛み切って自殺してしまいました。

 

非常に気の毒な話ですよね。

 

他にも芹沢には『お梅』という女性がおりました。

お梅はもともとは呉服商の妾だったのですが、芹沢の元に代金取り立てに行った時に芹沢に強引に関係を迫られ、芹沢の妾になったそうです。

 

しかし、このお梅は運悪く芹沢と一緒にいたところを沖田らに暗殺されてしまいました。

お梅の遺体は呉服商も引き取らず、かといって芹沢と同じ墓にも入れるわけにはいかず、数日後に実家の人が引き取りにきましたが、すでに腐敗が進んでいたといわれています。

 

芹沢鴨は女性を物のように扱っていたような節があり、女性にとっては関わらない方がよい男だったと言えるでしょう。

 

各方面から恐れられていた新撰組ですが、心身をすり減らす戦いの日々の中で、コンプレックスや弱さを補い、恐怖や不安を取り除いてくれる女性をそれぞれ求めていたのかもしれません。

 

では次は、新撰組の生き残りとその後について解説していきます!

新撰組の生き残りとその後について

新撰組の中で、明治維新後も生き残った隊士たちがいます。

ここでは、8人の隊士についてご紹介していきますね。

 

①『吉田魁』

文政11年(1828年)、美濃国(岐阜県)に生まれます。

 

文久3年(1863年)、かねてから交流のあった永倉新八の紹介により新撰組に入隊。

池田屋事件では、池田屋事件のきっかけを作った長州藩士の古高俊太郎の捕縛に貢献しています。

鳥羽伏見の戦いの直前に近藤勇が銃撃による襲撃を受けたときには、近藤を馬に乗せて脱出させるなどの活躍をしました。

 

戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、宇都宮、仙台、箱館と転戦します。

箱館戦争での降伏後は、名古屋藩の元で謹慎生活を送ります。

謹慎が解けた後、京都に戻り剣術道場を開き、晩年はかつての新撰組の屯所であった西本願寺の夜間警備員として勤務しながら、亡くなっていった新撰組の仲間の菩提を弔っていたそうです。

 

明治維新後は、新撰組の記録を後世に伝えるため多くの記録を残し、現在の新撰組の研究に貢献しています。

 

②数少ない幹部の生き残り『永倉新八』

言わずと知れた新撰組の二番隊組長

沖田総司、斎藤一に匹敵する名手と言われています。

 

近藤、土方らと浪士組を経て新撰組を旗揚げ。

 

池田屋事件では近藤隊として参加。

近藤とともに池田屋に突入し、沖田や藤堂が倒れる中で、近藤とともに最後まで死闘を繰り広げました。

 

戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼へと転戦。

甲州勝沼の戦いの後に原田左之助とともに離隊。

独自に結成した隊で江戸へ戻ります。

 

維新後は松前藩に帰還し、北海道小樽に移住して松前藩医の杉村介庵の娘と結婚して婿養子となります。

その後は、樺戸集治監の剣術藩士、東北帝国大学(現在の北海道大学)の剣道部の指導を行ったと言われています。

 

永倉新八も島田魁同様、新撰組の記録を後世に伝えるため貴重な資料を残しています。

 

③謎の多い貴重な幹部の生き残り『斎藤一(藤田五郎)』

斎藤一も永倉新八と同様に数少ない幹部の生き残りです。

新撰組では三番隊組長を務めました。

剣士の腕前は相当凄かったこともあり、土方からの信頼も厚く、内部粛清においては暗殺やスパイの任務を多く行ったと言われています。

 

戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津と転戦。

土方とは会津で別れて、会津戦争では会津新撰組を率いて新政府軍と戦い、最後まで抵抗を続けるも降伏します。

降伏後は謹慎生活を経て会津再興に伴い下北半島へ移住します。

 

その後、明治7年(1877年)に東京へ移住し、警視庁に勤務します。

警視庁時代には西南戦争に参戦し、活躍します。

晩年には東京女子師範学校に勤務。

 

大正4年(1915年)に胃潰瘍で亡くなりました。

 

④『中島登』

天保9年(1838年)に武州多摩郡小田野(東京八王子)に生まれます。

安政3年(1856年)に天然理心流に入門。

新撰組に入隊したのは8年後の元治元年(1864年)でした。

 

戊辰戦争では土方とともに箱館へ転戦します。

箱館戦争では最後まで抵抗するも降伏。

降伏後は青森での謹慎生活を経て多摩に帰還しました。

 

その後、静岡県浜松に移住して一生を過ごします。

質屋や鉄砲店の経営をしていたと言われています。

絵が上手かったこともあり、新撰組に関する絵を多く残しています。

 

⑤『田村銀之助』

安政3年(1856年)に岩城平藩(福島県)に生まれます。

入隊は遅く、慶応3年(1867年)に兄とともに入隊。

入隊時12歳と若かったためか近藤と土方の小姓を務め、戦いには参加しませんでした。

 

戊辰戦争でも戦いには参加しませんでしたが、土方とともに箱館へ渡り、箱館では榎本武揚の小姓を務めつつ、訓練の一環でフランス語を学んだそうです。

箱館総攻撃直前に箱館を脱出した市村鉄之助とは異なり、最後まで五稜郭に残りました。

 

維新後は明治政府に出仕し、西南戦争にも参戦しました。

その後、箱館にいた経験を買われて開拓士を務めました。

 

大正13年(1924年)に死去。

彼の写真は存在しており、函館市内の博物館に子孫より寄贈されています。

 

⑥『市村鉄之助』

安政元年(1854年)に美濃大垣藩(岐阜県)に生まれます。

慶応3年(1867年)に兄とともに入隊。

 

戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、仙台、箱館と転戦。

箱館では土方の小姓を務めました。

 

箱館総攻撃直前に土方の命により、箱館を脱出。

新政府軍の目を掻い潜り、土方の親戚の佐藤彦五郎の元に行き、預かっていた遺品を届けました。

現在残っている土方の写真が存在しているのは市村のお陰なのです。

 

維新後の詳しい足取りは不明ですが、西南戦争で戦死したと言われています。

 

⑦『山野八十八』

天保12年(1841年)に加賀に生まれます。

入隊時期は早い方で、文久3年(1863年)に島田魁とともに入隊。

沖田総司が組長を務めていた一番隊に所属していました。

 

鳥羽伏見〜箱館まで転戦しますが、箱館戦争終結前に隊を離隊。

維新後は明治29年(1896年)まで京都市内の小学校に用務員として勤務します。

明治43年(1910年)に死去。

 

池田屋事件から箱館戦争までを経験している数少ない生き残りでした。

 

⑧最後の新撰組隊士『池田七三郎』

嘉永2年(1849年)、上総国山辺郡田間村(千葉県)に生まれます。

入隊時期は新撰組晩年期の慶応3年(1867年)でした。

 

鳥羽伏見、甲州勝沼の戦いには参加。

甲州勝沼の戦いで重傷を負いますが、一命を取り留めます。

 

復帰後会津戦争に参加します。

最後まで抵抗しますが、斎藤一らと降伏します。

 

一年間の謹慎生活を経て放免されます。

そして、池田七三郎は昭和まで生き続けて、昭和13年(1938年)に90歳で死去します。

彼の死により新撰組隊士は全員死んだことになり、最後の新撰組隊士となったのです。

 

次は新撰組と坂本龍馬の関係について解説していきますね!

新撰組と坂本龍馬の関係

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宿敵として描かれることが多い新撰組と坂本龍馬ですが、実際の関係性はどんなものだったのでしょうか。

 

まず、一般的な考え方としては坂本龍馬と新撰組の関係は、『犯罪者と治安部隊』という関係でした。

慶応2年(1866年)、京での薩長同盟締結を斡旋した直後に宿泊していた龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛しようとする騒動が起こりました。

世に言う『寺田屋事件』です。

 

もともと幕府転覆を目論むお尋ね者とされていた龍馬は、寺田屋事件で捕り方を銃で殺害し逃走したため、殺人と逃亡の罪が加わり、さらに罪を重くしてしまいました。

この事件後、新撰組は幕府の奉行所同様、龍馬を捕まえようとしています。

 

そして、近江屋で起きた龍馬暗殺事件は新撰組の『斎藤一』が、行ったのではないかという説があります。

龍馬の体に残されていた傷から、犯人が左利きで、しかも北辰一刀流の達人である龍馬を殺せる腕前の持ち主ということから、斎藤の犯行だとした推測から出た説です。

 

しかし、それを実証するのに必要な確たる証拠はなく、現在の研究者で新撰組犯行説を支持する者はおらず、最新の定説では『会津藩主・松平容保』の命令で、京都市中見廻組『佐々木只三郎』が暗殺したとされていています。

それは、佐々木の兄で容保の補佐をしていた手代木勝任(てしろぎ かつとう)という人物が、松平容保の命で佐々木に実行させたという記録が出てきたからです。

このことが、容保と佐々木・手代木兄弟が龍馬暗殺に関与していた裏付けとなったようです。

 

それから、逆に新撰組は龍馬の味方で、龍馬を守っていたという説もあります。

なぜそのような説が出てくるかと言うと、新撰組局長・近藤勇が龍馬の目指す大政奉還後の挙国一致体制を支持いていたからと言われています。

一見敵同士で、接点のないように見える二人ですが、龍馬と近藤は知り合いだったのです。

 

二人を結びつけたのは京都町奉行及び目付役の永井尚志(なおゆき)という人物です。

永井は会津藩主・松平容保の元で働いていたため、新撰組の近藤達とも顔見知りで、慕われていたと言われています。

 

そして、永井は近藤を信頼しており、近藤が永井の護衛を行なっていた時期もありました。

永井の影響で近藤の思想は、大政奉還に関して賛同の方向に転じていた可能性があります。

そして、永井の知り合いである龍馬も、大政奉還を成し遂げるために重要な人物として、近藤は龍馬の護衛をしていたとも考えられるのです。

 

国の行く末を想う近藤にとって、多大な恩のある幕府という組織は、非常に大切なものだったはずです。

薩長ら雄藩が、『倒幕』へと舵を切る中、幕府を温存し、『徳川慶喜』を新政府に参画させようという坂本龍馬の構想は、瀕死の状況にある幕府サイドからしたら、非常にありがたいものだったと考えられます。

近藤も、永井尚志を通じて坂本龍馬の思想を知っていた可能性が高いと思います。

 

このような事から近藤は、幕府存続に必要不可欠な人物であり、薩長とのパイプにもなる龍馬の価値を、強く理解していたのではないかと考えられるのです。

歴史の裏を読むと全く正反対の『犯罪者と治安部隊』という関係と、『思想の賛同者で護衛する側とされる側』という二つの関係があったことがわかってきたのです。

 

実際はどちらの関係性が正しかったのでしょうか。

坂本龍馬は暗殺されてしまい、近藤勇を処刑されてしまったため真実は闇の中ということになりました。

 

では次は、池田屋事件の真相について解説していきますね!

池田屋事件の真相

ここでは新撰組が世に名を知らしめた事件である『池田屋事件』について解説していきたいと思います。

 

池田屋事件とは、幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を京都守護職配下の治安維持部隊である新撰組が襲撃した事件を言います。

池田屋事変、池田屋騒動とも言われており、新撰組局長・近藤勇は洛陽動乱と名付けています。

 

どんな経緯で起こったのかと言うと、1863年の八月十八日の政変で京を追われた長州藩は、尊王攘夷・勤王などの各種政治思想を持つ浪士たちが潜伏し、情報収集のため活動していました。

朝廷では公武合体派が主流となっており、尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新撰組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせていました。

 

そのような時に、長州藩・土佐藩・肥後藩ら尊王攘夷派志士は、御所に火を放ち、その混乱に乗じて、八月十八日の政変の黒幕である『中川宮朝彦親王』を幽閉し、『一橋慶喜』と『松平容保』を暗殺して、『孝明天皇』を長州へ連れて行くという恐ろしい計画を立てます。

この計画は、尊皇志士を支援していた枡屋・古高俊太郎を捕縛し、土方歳三の拷問により古高が自白したため、新撰組が知る事となったと言われています。

 

さらに新撰組の捜索により、捕縛された古高を奪還するための襲撃計画を実行するか否かを協議する会合が、池田屋あるいは四国屋において行われることを突き止めました。

 

1864年7月8日(元治元年6月5日)亥の刻(22時頃)、近藤隊は池田屋で謀議中の尊王攘夷派志士を発見。

近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となりました。

 

20数名の尊皇派に対し、当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めました。

屋内に踏み込んだ沖田は奮闘しましたが、戦闘中に病に倒れ(結核を患っており吐血した)戦線から離脱しました。

 

また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱しました。

新撰組は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新撰組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げました。

 

会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着。

土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったそうです。

 

その後新撰組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還しました。

沿道は野次馬で溢れていたと言われています。

 

ちなみに、桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れたそうです。

池田屋事件の影響として、御所焼き討ちの計画を未然に防ぐことに成功した新撰組の名は、この事件によって天下に轟きました。

 

逆に尊皇派は、吉田稔麿・北添佶麿・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助ら逸材が戦死し、大打撃を受けました(のちに新政府により彼らは俗に『殉難七士』と呼ばれる)。

落命した志士たちは、三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られました。

 

長州藩は、この事件をきっかけに激昂した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に『禁門の変』を引き起こしてしまうのです。

新撰組はこの事件により知名度が上がったため、土方や斎藤らが自ら江戸へ向かい隊士を募集するなど勢力拡大に動くことになりました。

 

そして、池田屋事件について最後に異説を一つご紹介しておきます。

近年の研究では『京都大火計画』、『松平容保暗殺』、『天皇拉致』などの志士側の陰謀は、新撰組による捏造(でっち上げ)であり、新撰組の実力行使正当化や、尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪だとする説も出てきているのです。

 

その理由として、これらの計画は幕府側の記録にはあるものの、志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、

「新撰組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合。」

としか記されていないのです。

 

証拠と言えるものは、土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しいことが挙げられます。

結果的にも新撰組は名を上げ、尊王攘夷派志士側は信用失墜しています。

 

そのことを考えると、もしかすると池田屋事件は新撰組のデモンストレーションだった可能性があり、近藤・土方はこの事件を利用して、新撰組の名前を売り出そうとしたのかもしれませんね。

 

では次は、新撰組のゆかりの地について解説していきます。

新撰組のゆかりの地

戊辰戦争が集結してから140年以上の時を経た今も、新撰組のファンによる新撰組ゆかりの地を訪れる人は後を絶つことがありません。

幕末、激動の京都で活躍していた新撰組の足跡をあなたも辿ってみませんか?

 

まずは、新撰組が屯所として利用していた西本願寺太鼓楼についてご紹介していきますね。

西本願寺太鼓楼(新撰組屯所跡)

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1864年の池田屋騒動以降、隊士が増えた新撰組は壬生の屯所では手狭になったことから、翌年1865年3月から西本願寺を本陣にしました。

幕末の尊王攘夷の中で、長州藩と本願寺とは深いつながりがあり、1864年(元治元年)の「禁門の変」では、長州藩士が本願寺に逃げ込んでいます。

 

そんな本願寺に新撰組が屯所を構えたことは、一石二鳥の効果を狙ったものだったそうです。

本願寺に屯所を構えた新撰組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒を震撼させる毎日で、食料としての豚の飼育も行っていたそうです。

本願寺にとっては迷惑の日々が続いていたといわれており、新撰組が2年後の不動堂村屯所へ移転するまでの間、その費用を負担したのは本願寺だったと言われています。

 

そういった経緯の中、二番隊伍長だった島田魁は、1886年(明治19年)に本願寺の夜間警備員となり、1900年(明治33年)3月20日、本願寺で倒れ亡くなりました。

島田魁は、近藤勇をはじめとする新撰組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に携えていたと言われています。

 

次は、不動堂村屯所跡について解説していきます。

不動堂村屯所跡

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不動堂村屯所は、新撰組に手を焼いた西本願寺の負担で築かれた三番目の屯所です。

不動堂村屯所は、大名屋敷にも引けを取らない建物だったと伝えられています。

 

屯所の広さは1万平方メートル。

表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤・土方ら幹部の間、平隊士の部屋、客間、馬屋物見中見と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れたそうです。

しかし、今ではその遺構も定かではなく、現在のリーガロイヤルホテル京都付近にあったとだけ伝えられています。(西本願寺から徒歩7分)

 

6ヶ月間、屯所として利用されましたが、その後、大政奉還があり、さらに元隊士の伊藤甲子太郎ら五稜衛士の粛清(油小路事件)も発生。

王政復古の大号令が発せられたことで、新撰組は京都を去り伏見に転出することになりました。

不動堂村屯所跡と推定されるリーガロイヤルホテル京都の前には、石碑が立っていて、新撰組のシンボル『誠』とダンダラの染め抜かれた隊旗と、局長である近藤勇の句が刻まれています。

 

石碑には『事あらば われも都の 村人と なりてやすめん 皇御心 近藤勇』と書いてあります。

都に来たからには、町衆と共に天皇をお護りしたいという意味だそうです。

「都の村人」という言葉は、多摩の片田舎出身の近藤勇らしい謙虚さが表れていますね。

 

次は、新撰組のふるさと歴史館についてご紹介しますね。

新撰組のふるさと歴史館

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新撰組ふるさと歴史館は、新撰組をはじめ甲州道中及び日野宿、幕末、明治維新、自由民権運動等に関する資料を広く収集・保管し、これらを展示公開している施設です。

常設展示は『新撰組・新徴組と日野』があり、その他にも特別展示、企画コーナー『甲州道中日野宿』なども見ることができます。

それに、新撰組グッズの販売や、来館者から好評の新撰組の袴を着て、記念撮影ができるコーナもあります。

 

  • 所在地:〒191−0016 東京都日野市神明4−16−1
  • 交通アクセス:日野駅から徒歩で15分
  • 開館:9時30分〜17時、入館は16時30分まで
  • 休館日:月曜日と月末日
  • 料金:大人200円
  • 子供50円

 

次は、会津新撰組記念館についてご紹介していきます。

会津新撰組記念館

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新撰組ゆかりの七日町通りにある店蔵(明治22年築)を利用。

1階はレトロ漂う「骨董むかしや」、2階が「会津新撰組記念館」になります。

ここには、会津藩や新撰組の資料をはじめ、来援した旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍、来攻した新政府軍等の貴重な資料を入れ替えながら展示しております。

 

会津新撰組隊長・斎藤一の墓や土方歳三らが寄宿した清水屋旅館跡等、新撰組関連の旧跡もほど近く、館主が会津各地を中心に集めた資料が時代の空気を感じさせる空間です。

修学旅行生や観光客に大人気の「新撰組羽織(無料)」を着用しての記念写真撮影もできます。

 

  • 所在地:〒965−0044 福島県会津若松市七日町6−7
  • 交通アクセス:まちなか周遊バス ハイカラさん・あかべえ「七日町中央」下車徒歩3分
  • 開館:10時〜17時
  • 休館日:不定休
  • 料金:大人300円(5名以上200円)
    小・中学生200円(5名以上150円)
    障がい者料金:障がい者手帳をご提示で100円引き(通常300円→200円)

 

次は、新撰組を題材にした作品について解説していきます!

新撰組を題材にした作品

厳しい身分制度のもとで統治されていた江戸時代に、新撰組の局長を務めた近藤勇と鬼の副長として怖れられた土方歳三は、共に農民身分の出身でありながら、自身の剣術の腕前だけを武器に幕臣にまで登りつめました。

そして、新撰組の隊士たちは、最後まで幕府軍として戊辰戦争を戦い、激動の中で散っていきました。

 

その悲劇的なドラマ性から子母澤寛氏、司馬遼太郎氏などをはじめ、新撰組を題材とした文学作品は絶えることなく綴られ、幾度となく映画やドラマが創られています。

ここでは、有名な5作品についてご紹介していきます。

 

まずは、大河ドラマ「新撰組」についてです!

大河ドラマ「新撰組」

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大河ドラマ「新撰組」は2004年1月11日から12月12日まで放送されたNHK大河ドラマ第43作です

 

作品内容は『近藤勇』を主人公に、京都守護職下の警備組織として知られる新撰組が題材。

既存の歴史小説を原作としないオリジナル作品。

原作・脚本は舞台や民放ドラマを手がける三谷幸喜。

 

近藤勇の人生における重要な49日を取り上げ、基本的にその一日を一話で構成するスタンスをとっています。

 

キャストは近藤勇を香取慎吾、土方歳三を山本耕史、沖田総司を藤原竜也、斎藤一をオダギリジョーが演じています。

 

次は、新撰組始末記についてご紹介します。

新撰組始末記

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新撰組始末記は『子母澤寛』の小説です。

新撰組を題材にした作品で、関係者への取材などを取りまとめられていることから、新撰組に関する代表的な資料とも捉えられており、その後の幕末を題材にした創作作品に影響を与えた作品です。

1963年に映画が制作され、テレビドラマとしても1961年と1977年に制作されています。

 

次は血風録についてご紹介します。

血風録

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新撰組血風録は『司馬遼太郎』の同名の連作短編小説集を原作とした連続テレビドラマです。

現在までにNET(現テレビ朝日)制作の1965年から1966年にかけて放送の作品、テレビ朝日制作1998年放送の作品、NHK制作の2011年放送の作品の3作品が制作されています。

 

内容は勤王佐幕の血生臭い抗争に明け暮れる維新前夜の京洛に、その治安維持を任務として組織された新撰組。

騒乱の世を、それぞれの夢と野望を抱いて白刃とともに生きた男たちを鮮烈に描いた司馬文学の代表作です。

 

次は、龍馬伝についてご紹介します。

龍馬伝

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龍馬伝は2010年1月3日から同年11月28日まで放送されたNHK大河ドラマで、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬の生涯を描いています。

 

主演は福山雅治。

脚本・福田靖、チーフ演出・大友啓史が担当。

 

新撰組メンバーとして、近藤勇は原田泰造、土方歳三は松田悟志、沖田総司は栩原楽人が演じています。

龍馬伝の中で描かれている新撰組は、龍馬の幼馴染みである岡田以蔵を捕らえ、厳しく拷問するシーンなどがあり、恐怖の殺人集団のように描かれています。

 

次は、2020年公開の映画「燃えよ剣」についてです。

映画「燃えよ剣」が2020年公開!

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新撰組副長・土方歳三の生涯を描き、過去に映画化、ドラマ化もされてきた司馬遼太郎の歴史小説を「関ヶ原」の原田眞人監督&岡田准一主演の再タッグで新たに映画化。

 

江戸時代末期、黒船来航により外国から日本を守るため幕府の権力を回復させようとする佐幕派と、天皇を中心とした新政権を目指す倒幕派の対立が深まりつつありました。

武州多摩の農家に生まれた土方歳三は「武士になりたい」という思いで、近藤勇、沖田総司ら同士とともに京都へ向かいます。

芹沢鴨を局長に、徳川幕府の後ろ盾で新撰組を結成し、土方は「鬼の副長」と恐れられながら、倒幕派の制圧のため京都の町で活躍を見せるが・・・。

 

「燃えよ剣」は2020年に公開予定。

撮影は2月から4月にかけて、京都、滋賀、岡山などで行われる予定。

 

新撰組が尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件の舞台となる旅館。

池田屋もオープンセットで完全再現されるそうです。

 

とっても楽しみですね!

次は、公開日についてです。

公開日は?

公開日は2まだ020年公開予定としかなく、詳しい日にちは未定のようです。

 

次は、キャストのご紹介です。

キャスト

土方歳三・・・岡田准一
近藤勇・・・鈴木亮平
沖田総司・・・山田涼介
芹沢鴨・・・伊藤英明
お雪・・・柴咲コウ

 

最後に新撰組についてまとめていきます。

まとめ

では新撰組についてまとめます。

 

・新撰組とは、『幕府の警察』として、幕府を倒そうとする人たちを取り締まり、京都の平和を維持していた組織

・新撰組は結成された当初の目的は、京都にいる江戸幕府の将軍を警護するためだった

・新撰組主要メンバーは初代局長・芹沢鴨、二代目局長・近藤勇、副長・土方歳三、総長・山南敬助、参謀・伊東甲子太郎、一番隊組長・沖田総司、二番隊組長・永倉新八、三番隊組長・斎藤一等々

・近藤勇、土方歳三、芹沢鴨、永倉新八、斎藤一の実際の写真が残っている

・新撰組は当時の組織編成とは大きな違いがあり、小隊制を取り入れた大変画期的な組織編成だった

・新撰組の実働年数は6年間で結成期・発展期・解散期に分けられる

・新撰組のダンダラ模様の羽織は、『忠臣蔵』でおなじみの赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に着ていたとされる羽織の柄で、しかも、武士が切腹のときに着る裃の色と同じ色であり、新撰組の武士への憧れと、幕府への忠誠心が込められていた

・新撰組のそれぞれのメンバーが使用していた愛刀は、国宝級の名刀もあると言われているが、実際に使っていた刀は折れにくく頑丈な実用性重視の刀だったという説もある

・局中法度は、その厳しさから『鉄の掟』とも言われており、新撰組を結成して以来、死亡者は45人で、うち戦いで死亡したのは6人のみで、ほとんどが内部抗争の果ての斬り合いが法令違反で切腹した者たちだった

・明日をも知れぬ命の新撰組隊士たちは、女性に癒しを求め、遊郭で華やかに遊んだと言われており、局長・近藤勇は5人の愛人がいたり、副長・土方歳三は数え切れないほどの女性と関係があったようだが、沖田総司のように生涯独身を貫く隊士もいた

・新撰組の生き残りとして吉田魁・永倉新八・斎藤一他8名おり、亡くなった新撰組の仲間の菩提を弔っていた人や、新撰組の記録を後世に伝えるため多くの記録を残し、現在の新撰組の研究に貢献した人、昭和の世まで生きた人もいる

・一般的な考え方として坂本龍馬と新撰組の関係は、『犯罪者と治安部隊』という関係だったが、それとは逆に、新撰組局長・近藤勇が龍馬の目指す大政奉還後の挙国一致体制を支持しており、新撰組は龍馬を護衛していたという説もある

・池田屋事件の真相として、長州藩の京都大火計画などは新撰組のでっち上げで、近藤・土方はこの事件を利用して、新撰組の名前を売り出そうとしたという説も!

・新撰組ゆかりの地として西本願寺太鼓楼(新撰組屯所跡)、不動堂村屯所跡、新撰組ふるさと歴史館、会津新撰組記念館などがある

・新撰組を題材にした作品として、大河ドラマ『新撰組』、『新撰組始末記』、『血風録』、『龍馬伝』などがある

・司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』が映画になって2020年に公開!

 

まとめると少しわかりやすくなりましたかね。

 

「志と剣の腕さえあれば、誰でも入隊可能」それが新撰組でした。

身分制度の厳しかった江戸時代に、農民からのし上がった者もいます。

 

新撰組は、大政奉還と共に行き場を失い賊軍の汚名を着せられました。

戦死した者や、厳しい規則により殺された者、病で亡くなった者もいました。

 

生き残った者は、新撰組の正義を訴えたり、偉くなって出世したりと200人以上の新撰組の志士たちの人生は色々でした。

 

結成からわずか6年で戊辰戦争に敗れ、解散してしまいましたが、厳しい規律と誠の心で武士よりも武士らしく生き、儚く散っていった男たち。

現在でも小説やドラマ、映画などで取り上げられ、私たちの心を掴んで放さないのはそんな彼らの『誠の心』が私たちの心に響いているのかもしれませんね。

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