今回解説していくのは超正確な日本地図を歩いて作った伊能忠敬!
今でもその精密な地図は尊敬の域に達するほどのものとして知られていますが、今回はそんな伊能忠敬について
- 伊能忠敬の測量ルートについて
- 伊能忠敬の地図の作り方とその精度
- 伊能忠敬の生涯について
- 伊能図に対する世界の反応
- 伊能忠敬のゆかりの地
など詳しく解説していきたいと思います!
目次
伊能忠敬の地図の測量ルート
伊能忠敬が測量したのは計10回。
第一回目の江戸蝦夷地測量から太平洋側の東日本、日本海側の東日本、中部、北陸、近畿・中国地方、四国、九州を巡って15年の歳月をかけて全国を測量しました。
その総距離はなんと4万キロ(地球一周分)!
五島列島や瀬戸内の島などの気が遠くなりそうな場所でも根気よく測量を続けていったからこんな距離になりました。
奇しくも伊能忠敬が求めたかった地球の大きさと同じ距離を歩いたというわけなんですね。
歩いた距離や歩幅について
伊能忠敬のすごいポイントはたくさんありますが、その中の一つに満足な測量器具を持たなくとも精密な地図を作ったところがあります。
伊能忠敬は蝦夷を測量した時に当時あまり整備されていないこともあってか満足な測量器具を持つことができませんでした。
そのため、なんとかして地図作りで一番大切な距離の測定を行わなけれなならないのですが、その時に使ったのがなんと歩幅。
伊能忠敬は蝦夷を測量する前に訓練を重ね歩幅を69センチで統一。
たとえどんなに荒れたとしてもトラブルがあったとしても歩幅は同じ長さで統一していたのです。
2度目からは歩幅はあっさりとやめて間縄で距離を測ることになるのですが、それでも凄いものです。
地図の精度
伊能忠敬が生涯をかけて作り上げた大日本沿海輿地図。
気になるのは日本列島との誤差なんですが、なんと伊能忠敬の地図は北海道と九州の位置がちょっとずれているぐらいでほとんどパーフェクト。
伊能忠敬は経度をちょっと間違えたために少しずれてしまいましたが、それでも歩きだけでここまでのものを作るのは流石です。
どうやって地図の作成方法と道具
全体から見ても今の日本地図も同じような制度であり、本州に至ってはほとんどパーフェクトである伊能図。
でもそうなるとやはり地図の作り方が気になりますよね。
しかし、伊能忠敬の地図の作り方はただ一つ。
それは距離を測って角度を図るというものでした。(これを導線法と言います)
導線法のやり方まず測量する地形に沿って基準となる位置を決めます。
そして測点に「梵天」という目印を立て間縄を(蝦夷地は歩幅で計測)使用し測点と測点の間を計測します。
そして最後に杖に方位磁石を取り付けた杖先磁石という道具を使って角度を測り、その方角とと距離を測りながら前に進み測量していく。
かなりアナログで地道な作業ですが、この積み重ねがあの大偉業に繋がったのですね。
イギリス人が伊能の地図の正確さに驚いた?
伊能忠敬が亡くなった後、伊能図は幕府によって厳重に守られるようになります。
というのも地図というものは敵に渡るとそれを元に計画が練られてしまうため何とかして守らなければならないというわけなんです。
しかし、時代が流れ日本に外国人が来日するようになると日本の地図は手に入らなくても日本近海を測量するという人も出てきてしまいました。
1861年、この日イギリスの測量船であったアクティオン号が日本近海を測量するため来航。
もちろん幕府役人からしたらこんなこと国家機密ですので幕府の役人は伊能図の縮小版を船長に渡しました。
この伊能図を見た船長は野蛮だと思っていた日本にこんな正確な地図があるんだとびっくり仰天。
これがあれば測量の手間が省けるとし、駐日イギリス公使を通じてこの地図を借りることを条件に測量を取りやめたんだそうです。
こうしてとあるトラブルがあったおかげで伊能図が世界に通用するということが証明されたのでした。
伊能忠敬の日本地図に対する海外の反応
伊能忠敬が作った地図はイギリス人に衝撃を与えましたが、この伊能図に対する外国人の反応からとんでもない事件に発展する事態も起きてしまうことになります。
1828年、当時出島にやってきていたドイツ人医師であるシーボルトか帰国する際に高橋至時の息子である高橋景保から伊能図の縮小版をゲットしていました。
もちろんシーボルトはこの正確な地図を手に入れて大喜び。
しかし、上にも書いた通り地図の持ち出しは国家機密の漏洩と同じようなものでしたので国際問題に発展。
いわゆるシーボルト事件と呼ばれる事件に繋がり、騒動となってしまいました。
北海道全域は弟子の間宮林蔵が測量した?
最初に測量を行った蝦夷地ですが、残念ながら伊能がこの蝦夷地を測量したのは南側のみ。
実は測量を行っている最中にサケ漁のピークがやってきてしまい、アイヌ人が渡し船を貸してあげることができない状態となっていました。
伊能忠敬は測地したところの地図を作成したのですが、全体図を完成させるのは彼の弟子であり、後に樺太の探検を行う間宮林蔵によるものでした。
伊能忠敬のすごいエピソード
伊能忠敬といえば『地図を作った人』というイメージが先行してしまうことがあります。
ですが、実は彼は元々名主という役職についているいわばお役人さんでした。
(ちなみにこの時に酒造業で成功し現在の価値にして50億円の利益を叩き出しています)
しかし、なんと50歳の時に名主を引退にて自身が興味を持った天文学を勉強するために一念発起。
人生50年と言われていた時代でなんと50歳から測量について勉強を始めたのです。
そう、彼の大偉業である地図作成はなんと50歳から始めた一大プロジェクトというわけだったのです。
歳をとると何かもチャレンジしたくなくなると思いますが、伊能忠敬を見るとどんな年齢でも頑張れると思いますよね。
伊能忠敬の経歴や年表
伊能忠敬は、1745年に上総国で生まれました。
忠敬は6歳の時に母を失うなどの苦労を重ねましたが、17歳の時に上総国で有名であった酒造家の伊能家のミチと結婚し、婿養子として伊能家の商人として生活を送ることになります。
忠敬は持ち前の才覚を活かして婿養子として入った時には不調だった伊能家の財政を盛り返して一説には今の金額にして60億の純資産を持っていたと言われています。
また、忠敬は数多くあった飢饉の時も食べるものに困窮していた人々に手を差し伸べ、佐倉では知らな人がいないほどの有名な名主として知られるようになりました。
しかし、それだけでは飽き足らなかったのか何と1794年に伊能家を息子に譲って隠居。
元々興味を示していた暦学や天文学に没頭するようになり、 50歳の時には単身江戸に向かって19歳年下の天文学者高橋至時に弟子入り。
忠敬は弟子として勉強に励むようになりましたが、そんな時忠敬の運命を決定づけるとある考えが思い浮かびます。
それが『地球の大きさが知りたい』というもの。
この当時の暦は太陽太陰暦の宝暦暦というものを使っていましたが、この暦の日食や月食のアテがかなり外れていて信ぴょう性に欠けるものであったため、この頃から宝暦暦に変わる新しい暦を作ろうとする動きがでていました。
忠敬と師匠の至時は寛政暦を作成しある程度の評価を得ることになるのですが、より正確なものにしたいため緯度の大きさ、つまり地球の大きさがどのくらいなのかを知るのが大切だと考えたのでした。
忠敬は早速自宅があった門前仲町から師匠の家があった浅草まで観測。
この時に忠敬は地球の外周は36000キロ(ほんとは4万キロ)という値を弾きだしましたが、師匠から「これだけの距離じゃ正確な値は出せないでしょ。いっそのこと江戸から蝦夷地まで測ればいいのではないか?」
というアドバイスを受けました。
でもこの当時の日本は今とは違って自由に行き来することができない時代。
そこで緯度を測るついでに当時緊張度が増していた蝦夷地の地図を作りますという建前を使えば蝦夷地まで行けると考えたわけです。
そして1800年、忠敬が55歳の時に蝦夷地の測量を開始。
それからはというものの、蝦夷地の地図の出来栄えが良かったためそこから東日本、東海地方や北陸地方の測量を行い、地図を着実に完成。
師匠の高橋至時も「こんなに出来るとは思わなかった」というほどの地図を作成していきました。
途中で師匠の至時が先に亡くなるという不幸がありました。
ですが、その後も近畿・中国・四国地方にも測量に出かけて10回に渡る測量を行い、亡くなるまで日本地図作成に情熱を注ぎました。
1745年 伊能忠敬生まれる
1781年 伊能忠敬、村の名主として就任
1795年 伊能忠敬、天文学者高橋至時に弟子入り
1800年 蝦夷地に第一次測量を行う
1804年 師匠であった高橋至時が死去
1816年 江戸を中心とした第十次測量を行う
1818年 73歳で亡くなる
出身
伊能忠敬が生まれたのは上総国の佐倉という地域。
今ではここは千葉県香取市佐倉地区となっていますが、今でも香取市では伊能忠敬の知名度を上げるための町おこしを行なっています。
性格
伊能忠敬はかなり職人気質があった人だと言われています。
要するに頑固というわけなんですね。
例えば嫁に行った長女や測量を手伝っていた次男に対して勘当を申し付けたり、幕府の役人とトラブルを起こしたりしていました。
家系図
伊能忠敬は伊能家とは名乗っていたものの、本当は上にも書いた通り17歳の時に婿養子として入っただけで本当は伊能家の生まれではありませんでした。
本当は今の千葉県九十九里町に当たる小関町の名主で父は神保家の出身だったそうです。
子孫について
伊能忠敬には景敬という長男がいましたがこの人は父に先んじて亡くなってしまいます。
後に伊能家を継いだのは景敬の子であり、忠敬からみれば孫である忠誨で、父や祖父が亡くなった後に完成した伊能図を幕府に献上しに上がりました。
しかし、忠誨には子がなかったため彼の死により伊能家の直系は絶えてしましたが、女系では忠敬の故郷である佐原を中心に現在も繋がっています。
名言
『後世の役に立つような、しっかりとした仕事がしたい』
伊能忠敬を題材にした映画「子午線の夢」
ほとんど正確な日本地図を作った伊能忠敬。
そんな伊能忠敬のことを題材とした映画が『子午線の夢』という作品です。
この作品は2001年の映画なのですが、支えとなった人々の存在を軸として長年の夢を形にしてしまった伊能忠敬の生涯を描いたロマンを感じる作品となっています。
伊能忠敬を演じるのは数多くの映画やドラマで活躍されている加藤剛。
2001年の映画ですから映画館では見ることはできませんが、DVDは発売されていますので是非一度ご覧になってはいかがでしょうか?
伊能忠敬を題材にした本
伊能忠敬をテーマにした本は数多くあるのですが、その中でも私が一番オススメするのが『伊能忠敬 日本を測量した男』。
この本は主に伊能忠敬が日本を測量する前の前半生を中心に描かれており、彼がどのようにして測量を志すようになったのかを知ることができるオススメの本です。
伊能忠敬ゆかりの地
伊能忠敬の故郷である千葉県香取市には現在でもカラにまつわるスポットが数多くあります。
次は彼にまつわる様々なゆかりの地についてみていきましょう。
伊能忠敬記念館
伊能忠敬の故郷である千葉県香取市佐原。
伊能忠敬の旧宅の近くには伊能忠敬記念館という施設がそびえ立っています。
館内には伊能忠敬にまつわる様々な資料が展示されており、伊能忠敬がどのようにして測量を行ったのか、地図をなぜ作るようになったのかを知ることができます。
また、一番の目玉なのが伊能図。
彼の後半生の努力の結晶ともいえる地図を間近に見れることができますので一度行かれてみてばいかがでしょうか?
伊能忠敬旧宅
伊能忠敬記念館のすぐそばには彼が17歳から50歳まで生活した旧宅が今も存在しています。
元々名主であった伊能忠敬の様子を知ることができるような店舗と母屋からなる商家作りの平屋となっており、彼が商人として働いていた前半生を感じ取ることができるオススメスポットとなっています。
伊能忠敬像
伊能忠敬の銅像は千葉県佐原と東京都浅草と北海道福島町にあります。
佐原は生まれ育った町、浅草は測量の拠点となった場所、北海道の福島町は蝦夷地の測量を始めた場所として知られており、それぞれ彼の偉業を今に伝えています。
伊能忠敬墓
伊能忠敬の墓は千葉県香取市にある観福寺と、浅草にある源空寺のそれぞれに眠っています。
ちなみに、源空寺の方では忠敬の墓石の隣に師匠であった高橋至時のお墓があり、寄り添って並びながら眠っているのです。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 伊能忠敬は蝦夷地の測量から始まって計10回の測量を行った
- 伊能忠敬は導線法を使って地道に測量を行っていたが、その誤差はほとんどない
- 伊能忠敬は佐倉の名主の生まれで55歳から測量を始めた
- 伊能忠敬が作った地図は世界の人にも驚き、シーボルト事件が起こったり、イギリス人が測量を止めるなどの影響もでた
- 今では生まれ故郷の香取市には彼にまつわる資料館や旧宅などを訪れることができる
最後になりましたが、伊能忠敬は精密な日本地図を作ったこともさることながら、55歳から測量始めたことも注目されてきます。
人生にゴールはないということを彼は体現したのかもしれませんね。