今回解説していくのは薩摩藩を主導した国父であった島津久光!
彼によって薩摩藩は動かされていきましたが、今回はそんな島津久光について
- 島津久光と西郷隆盛との関係
- 島津久光の経歴と年表
- 島津久光の家系について
- 彼を題材とした作品などの紹介
など島津久光について詳しく解説していきたいと思います!
目次
島津久光と西郷隆盛は不仲だった?
島津久光と西郷隆盛はかなりの不仲であったことには間違いありません。
まず、西郷隆盛という人物が久光とは全く間考えが違う兄の島津斉彬のことを敬愛していたことが第一の理由と言われています。
島津斉彬は藩の財政状況を復活させて薩摩藩を幕府に負けず劣らずの状態にしながら西洋化に努めた幕末において一二を争うほどの名君として知られています。
ですが、西郷隆盛からしたらこの人に比べれば久光は劣っていると考えてしまったのでしょう。
そのため西郷隆盛は久光によって2度も奄美大島に島流しにあってしまいました。
久光自身は無能どころか有能に当たるぐらいなんですが、登用してくれた斉彬でさえ「西郷隆盛を使いこなせるのは自分だけ」というほどの人物ですからそりが合わなかったのかもしれません。
西南戦争と島津家の関係は?
島津久光が治めた鹿児島で起こった日本最大の反乱である西南戦争。
不仲と言われていながらも家臣ですから止めるべきだと思います。
ですが、久光の晩年は島津家に関する資料を編纂しながら静かに余生を送っており、西南戦争は中立の立場を取っていました。
かつて「安禄山」と罵っていた西郷隆盛による反乱。
島津久光が一体どのような思いで観ていたのか、それに関する資料は未だ発見されていません。
島津久光の経歴と年表
島津久光は1817年、薩摩藩主であった島津斉興の五男として生まれました。
久光は五男ということもあってか当初から家督を継ぐことはなく、家老の養子になったりしますが、久光のことを気に入っていた父と側室であったお由羅の方は久光を後継者にしたいと考えるように。
しかし、江戸時代のしきたりは年功序列なのにいきなり五男を後継者にすることは家臣からしたら不満でしかなく、さらに有能として知られていた斉彬を支持する家臣と対立するようになります。
こうして斉彬派VS久光派に発展したこの騒動はお由羅騒動と呼ばれるようになり、一時は薩摩藩か取り潰しになる寸前にまで追い込まれてしまいます。
しかし、このことを危惧した幕府が介入して、藩主は島津斉彬となり、久光は斉彬の代行として働くようになりました。
しかし、斉彬による体制が確立されかけていた1858年に斉彬は江戸に登る前に急死。
斉彬の遺言によって久光の子であった島津忠義が藩主となり、久光は藩主とはならなかったものの、藩主の父として久光は「国父」の地位を得たのでした。
こうして薩摩藩の実質的なトップとなった久光は斉彬が生前に成し遂げたかった公武合体運動を引き継いで京に上洛。
公武合体派の真逆をいっていた尊皇派の家臣を寺田屋事件で粛清し、自分の命令に逆らった西郷隆盛を沖永良部島に流刑にさせながら公武合体を推進していきます。
しかし、文久の改革を推し進めようとした矢先将軍後見職であった一橋慶喜と意見が対立。
さらに、江戸から帰る途中に生麦事件を起こし薩英戦争にまで発展すると公武合体は挫折。
そして藩の意思を公武合体から倒幕へと一転。
西郷隆盛を不本意ながら復帰させたり、大久保利通を重用して禁門の変からのライバルであった薩長同盟も締結。
そして第二次長州征伐を機に倒幕の密勅が下り、最後には大政奉還が行われました。
ですが、その先に待っていた未来は久光が望んでいたものとは全く異なったものになっていました。
新政府はこれまでの藩の制度を廃止して中央集権国家を作るために邁進。
どちらかといえば保守派であった久光は新政府による急進的な改革に少しずつ不満を抱き始めついには政府をやめて下向。
特に廃藩置県には大激怒したそうで、廃藩置県が発表された時には庭で一晩中花火を打ち上げ抗議を示したほどだったのです。
その後久光は故郷の鹿児島で島津家の記録を編纂しながら余生を送り、1887年にこの世を去りました。
1817年 鹿児島城にて生まれる
1848年 お由羅騒動勃発 薩摩藩は改易一歩手前の大騒動に巻き込まれる
1858年 兄である斉彬が死去 藩主の後見人となる
1861年 京に上洛 朝廷の勅使をもらって文久の改革を行う
1863年 薩英戦争
1864年 禁門の変
1870年 新政府に不満を抱き鹿児島に下向
1871年 廃藩置県を断行 久光はこのことに大激怒して一日中抗議の花火を上げた
1887年 鹿児島にて死去 葬儀は鹿児島にて国葬となった
久光の写真
島津久光といえばカラーの写真が有名ですが、この写真は幕府の役人であった原田直次郎という人が元々モノクロの写真を元にして執筆したものだと言われています。
家系図
島津久光の出身である島津家は鎌倉時代の初期に薩摩・大隅の守護になってから幕末まで薩摩を治めていたまさしく名門中の名門。
戦国時代には九州のほとんどを制覇する偉業を成し遂げ、江戸時代の石高も72万石と前田家についで2番目に大きい藩となっていました。
兄である島津斉彬は幕末を代表する名君として知られていましたが志半ばで死去。
分家に入っていた久光の息子である島津忠義が島津家の当主となって久光は藩主の父という立場を手に入れました。
子孫について
明治以降の島津家は久光の家系が中心となって続いていきます。
その中でも特に重要なのが孫である俔子(ちかこ)という女性。
この人はのちに久邇宮邦彦王の妻となって昭和天皇の妻であり現在の上皇の母親である香淳皇后を生んでいます。
つまり、島津家の家系は今の皇室にまで繋がっているのですね。
息子について
島津久光は幕府の中枢に入り公武合体政策を行なっていたこともあってか島津家の当主になったと思われがちです。
しかし、実は久光は分家の当主にはなったものの、島津本家の当主になることはありませんでした。
その代わりに本家の当主となったのが島津久光の息子である島津忠義。
実験は握らなかったものの、久光に変わって彼が小御所会議に出席したり、明治維新の時に知藩事になったりしました。
兄の斉彬について
久光の兄である島津斉彬。
彼は薩摩藩の近代化と西洋化を目指して集成館事業を開始したのを皮切りに西洋式の帆船の完成などを始め、
- 西郷隆盛や大久保利通の登用
- 天璋院篤姫の徳川家定への輿入れを後押しする
など幕府中枢にも薩摩藩の影響力を及ぼしていき、幕末に活躍する薩摩藩の土台を築き上げました。
島津久光と大久保利通はよく囲碁で勝負をしていた?
島津久光の趣味の一つに囲碁がありました。
久光は囲碁が大好きでたびたび家臣と勝負していたそうですが、これに目をつけたのが大久保利通でした。
大久保利通は下級武士だったため普通は藩主と碁を打つことはできない立場にありました。
ですが、利通は必死に囲碁をマスターして久光のお気に入りの囲碁の相手となることに成功。
大久保利通は久光のお気に入りの家臣となり久光が嫌っていた西郷隆盛の再登用や、倒幕に向けての活動が行えるようになったのです。
島津久光が上洛した理由について
島津久光がやったことの一つに文久の改革があります。
この改革はこれまでの改革とは違って外様大名である島津家が中心となって行なった改革なのですが、この時なんと久光は上洛を行うという策に打って出たのです。
本来なら幕府の政策に関わることができない立場であり、さらには官位ももらっていない藩主の父親の意見なんて聞くはずもないのです。
しかし、島津藩はごり押しで通して朝廷から幕府改革を行うための勅使を出すことに成功。
こうして幕政に関与することが出来ることになり、島津藩は名実共に日本を動かす立場となったのです。
ちなみに、この上洛と江戸への登城の帰りに横浜の生麦村でイギリス人を殺傷してしまうのはこの時でした。(生麦事件)
島津久光が出てくる作品
幕末の幕府を動かして文久の改革を断行した島津久光。
この人は西郷隆盛のライバルとして出演している傍で、薩摩藩を題材とした作品に多く出演しています。
西郷どん
2018年の大河ドラマである『西郷どん』。
この作品では西郷隆盛を主人公とした作品ですので、島津久光は西郷隆盛を島流しにした悪役側の人間として描かれていますが、島津久光の役を演じた青木崇高の怪演もあり、島津久光の調べらる一面を描いています。
大河ドラマ「篤姫」
もう一つ薩摩藩を中心とした作品が兄である島津斉彬の養女となった天璋院篤姫の生涯を描いた『篤姫』。
篤姫における島津久光はミュージカル俳優である山口祐一郎が演じており、冷静沈着ながらたまに激情を起こす人物として描かれています。
書籍「島津久光と明治維新」
島津久光のことをもっと知りたいのであれば芳即正作の『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』がオススメです。
この本ではこれまで歴史の陰にひっそりと評価されていた島津久光の功績を再評価しようとした作品であり、彼がどのように倒幕を行なったのかを薩摩藩に伝わる資料を基に丁寧に表されています。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 島津久光は西郷隆盛とはあまりそりが合わず、彼を流刑にしたりした
- 島津久光はお由羅騒動によって藩主にはならなかったものの、国父として薩摩藩を主導した
- 島津久光は名門の島津家の生まれであり、兄である島津斉彬は薩摩藩の近代化に努めた
- 島津久光は京に上洛したのちに文久の改革を行った
最後になりましたが、西郷隆盛の陰に隠れてあまり評価されていませんが、彼がいたからこそ倒幕がなされ薩摩藩は新政府の要職につくようになります。
久光は斉彬ほど近代化は否定的でしたが、それでも兄に負けず劣らずの名君だったのですね。