今回解説していくのは坂本龍馬の盟友である中岡慎太郎!
中岡慎太郎といえば、はにかんでいるあの写真が有名なんですが、今回はそんな中岡慎太郎について
- 中岡慎太郎と坂本龍馬の関係
- 中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件の様子
- 中岡慎太郎の一生
- 中岡慎太郎の功績と性格について
- 中岡慎太郎の子孫
- 中岡慎太郎の博物館の情報
などを解説していきたいと思います!
目次
中岡慎太郎と坂本龍馬の関係は?
中岡慎太郎は坂本龍馬とセットで覚えられがちなのですが、実は彼と坂本龍馬の思想は同じようで実は正反対のもの。
坂本龍馬は大政奉還などの平和的な形で新しい日本を迎えようとしていたのに対して、中岡慎太郎は武力倒幕による政権打倒を目標にしていました。
そのため龍馬と慎太郎はたびたび口論になるとがあったそうです。
ただ、結局は日本を想う心は同じ。
龍馬は慎太郎のことを「中岡に相談しないと、他に相談する相手がいない」というほど信頼していており、慎太郎も龍馬のことを信頼していたそうです。
近江屋事件について
1867年12月10日、この日坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩御用達の醤油やであった近江屋で宿泊し、これからの日本のことなどを含めた雑談話をしていました。
夜になり、龍馬が腹を減らして仲間の人に軍鶏を買いに行かせた時、いきなり襲撃犯が近江屋に訪問。
十津川郷士と名乗り、龍馬に会いたいと言い出してきました。
仲間が龍馬に客が来たというと十津川郷士と名乗るものはいきなり彼を斬りつけ、龍馬と慎太郎がいる二階に襲撃。
龍馬は彼が斬りつけられた後に「ほたえな!」と叫んだそうです。
その直後襲撃犯は龍馬と慎太郎を斬りつけ、龍馬は前頭部を斬りつけられ瀕死。
慎太郎も両手両足に深い傷を負ってしまいました。
龍馬は「慎太、俺は脳をやられたからダメだ」と言い残し死亡。
慎太郎は傷を負ったものの、なんとか谷干城などの土佐藩士に助けられ一命は取り留めました。
中岡慎太郎が近江屋事件について証言した内容
中岡慎太郎は近江屋事件から2日後まで生き延びていたこともあり、土佐藩士である谷干城に対してある程度の証言をしていました。
近江屋事件の様子がある程度わかるのもこの中岡慎太郎の証言のおかげでしょう。
中岡慎太郎によると襲撃犯は十津川郷士と名乗り、龍馬に会いたいと言い出したそうです。
不審に思い名刺を龍馬に渡そうとした時に斬られ、龍馬は「ほたえな!」と叫び、そのところを襲撃されました。
襲撃犯は彼のことを「こなくそ!」と叫びながら斬りつけたこともあり、四国出身の可能性が高いということを証言しました。
ですが、土佐の人がこんなことをするはずもないし、肝心の犯人については気絶したこともあり犯人を特定することはできませんでした。
中岡慎太郎の最後の様子
中岡慎太郎はなんとか脇差で応戦はしたものの、暗殺犯によって全身に28カ所斬り付けられて両手などは切断一歩手前まで追い込まれてしまうなどの重傷を負ってしまいます。
しかし、中岡慎太郎は近くにいた土佐藩士によって救出されなんとか一命は取り留めることとなりました。
その後は焼き飯を三杯平らげるところまで容体を回復させます。
そして、谷干城に対して襲撃の様子や「龍馬と俺を斬りつけたのは大したものだ。倒幕を急がないと逆襲されるからより一層奮起してほしい」などのエールを残しました。
ですが、流石に傷が深すぎたのか2日後に土佐藩邸でこの世を去りました。
中岡慎太郎の死因は?
中岡慎太郎の死因は出血多量によるものだと考えられます。
そもそも近江屋事件の時に即死とはいかなかったものの、両手両足が斬り付けられてしまい、さらには28カ所も傷を負ったのですから2日生き延びられただけでも凄いことだと思います。
中岡慎太郎の名言
『君子小人人にあり。家に在らず』
『謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。』
中岡慎太郎の一生
中岡慎太郎は1839年に土佐藩の庄屋の息子として生まれました。
ちなみに、坂本龍馬は1837年生まれですので、龍馬とは2歳年下の関係にあるのですね。
庄屋ということもあってかなりいい方の暮らしをしていましたが、1861年に尊王攘夷の思想を持っていた土佐勤王党に参加。
この時、のちの盟友となる坂本龍馬に出会い、この頃から日本を巡って久坂玄瑞と共に当時日本で1番の知識人とも言われていた佐久間象山に教えを請うほど見聞を広めていきました。
しかし、土佐勤王党は八月十八日の政変以降急速に立場が悪化。
最終的には後藤象二郎によって弾圧されることとなり、土佐勤王党は解散に追い込まれてしまいます。
中岡慎太郎は土佐勤王党のメンバーでしたのでこのままでは危ないです。
そこで彼はさっさと土佐藩を脱藩。
尊王攘夷運動の中心地のあった長州藩に逃れ、ここで潜伏生活を送るようになりました。
その後、中岡慎太郎は禁門の変以降尊王攘夷から武力倒幕に変更。
当時亀山社中を開いていた坂本龍馬や三条実美などと連絡を取りつつコネクションがあった長州藩の志士たちに薩摩藩との同盟を提案。
最終的には八月十八日の政変以降敵対関係にあった二藩の和解と薩長同盟を実現させ、一気に倒幕へと向かうきっかけを作ったのでした。
その後、中岡慎太郎は坂本龍馬と共に新しい日本を想像し始めていくのですが、そんな矢先に近江屋にて襲撃。
慎太郎は二日間持ちこたえましたが、出血多量でこの世を去りました。
経歴や功績など
中岡慎太郎の最大の功績はなんといっても薩長同盟を成立させたことにあるでしょう。
薩長同盟は坂本龍馬によって成立したものと思われがちですが、実際に同盟を取り持ったのは中岡慎太郎だったのです。
中岡慎太郎は長州の久坂玄瑞を始め、長州や薩摩藩の有名人と交流がありその交流を生かして日本中を駆け巡り、最終的には薩摩藩と長州藩の同盟を結びつけたのでした。
坂本龍馬はどちらかというと勝海舟などの幕臣と仲が良い傾向にあり、大政奉還などの平和的な解決を望んでいたそうでした。
それに比べて中岡慎太郎は土佐勤王党に所属していたこともあり武力による倒幕を念頭に置いていた長州藩と同じようなことを考えていていたそうです。
ちなみに、中岡慎太郎は当時土佐藩の重役を務めていた板垣退助と交流があり、板垣のとりなしもあってか脱藩行為を不問にさせてもらったそうです。
中岡慎太郎の性格や身長
中岡慎太郎は坂本龍馬よりもかなりの攻撃的な思想でありましたが、それは日本を変えたいという考えからであり根はとてもまじめだったそうです。
そんな彼のまじめな性格があったからこそ長州藩の人たちや坂本龍馬などと親しくられたのでしょうね。
しかし、身長はそれほど高くはなかったそうで記録によると153センチだったとか。
坂本龍馬は170センチだったそうなので慎太郎はかなり小柄だったのですね。
使用していた刀はどのようなもの?
中岡慎太郎は信国という短刀を高杉晋作から貰って、それを愛用していました。
しかし信国は正宗や村正のようにいろいろな派生している刀で、彼がどの信国を使っていたのかはいまだにわかっていません。
中岡 慎太郎の子孫は?現在何している人?
中岡慎太郎には残念なことに近江屋事件で暗殺された時には子供はおらず子孫はいません。
しかし、一応姉の家系からは着々と続いており長女は川島総次に嫁ぎ、その孫の川島正件は高知市長まで務めるようになりました。
ちなみに、人気お笑い芸人の劇団ひとりはこの川島正件の曾孫なんだとか。
中岡慎太郎館について
今の高知県安芸郡北川村には中岡慎太郎の生家が復元されており、中岡家に伝わる様々な手紙や資料が展示されています。
1988年に中岡慎太郎が生誕150周年を迎え当時ふるさと創生資金で1億円が寄付されたことも追い風となり中岡慎太郎の記念館を作ろうという動きがでました。
この博物館では中岡慎太郎が一体どのような活躍をしたのか?どうして薩長同盟を結べたのかということを映像や展示物などて振り返っており非常に見応えがある内容となっています。
中岡記念館(生家)について
中岡慎太郎館の近辺には中岡慎太郎が生まれた生家が中岡家に伝わった資料をもとに復元されて今に残っています。
ここでは袴を着て写真撮影が出来たり、すぐそばには中岡慎太郎の遺髪が納められている松林寺や中岡慎太郎が藩校に通う時に利用した向学の道などが残されています。
それではまとめに入りましょう!
まとめ
まとめです!
- 中岡慎太郎は近江屋事件に襲われた後2日間は生き延び事件の供述をした
- 中岡慎太郎は裕福な庄屋に生まれたが土佐勤王党に参加して尊王攘夷の志士として活躍するようになった
- 禁門の変以降中岡慎太郎は繋がりがあった長州藩に薩摩藩との同盟を提案し、坂本龍馬と共に薩長同盟を成し遂げた
- 中岡慎太郎の子孫は姉の家系で残り、孫は高知市長にもなった
- 今では中岡慎太郎の生まれ故郷である高知県安芸郡北川村に中岡慎太郎館と中岡記念館が建てられた
最後になりましたが、一部では坂本龍馬よりも中岡慎太郎の方が大きな功績を残したという考えを持っている人がいます。
坂本龍馬も活躍しましたが、その裏では中岡慎太郎も奔走していたことも忘れてはいけないのです。