今回解説していくのは大政奉還を坂本龍馬と共に進めていった後藤象二郎!
彼は坂本龍馬の大政奉還を共に推進していき龍馬と肩を並べるほどの活躍をしましたが、今回はそんな彼について
- 後藤象二郎の一生と年表
- 後藤象二郎の性格と人柄
- 後藤象二郎の子孫について
- 後藤象二郎と坂本龍馬の関係と大政奉還について
などを解説していきたいと思います!
後藤象二郎の一生まとめ!
後藤象二郎は土佐藩の上士である後藤正晴の嫡男として1838年に生まれました。
後藤象二郎は上士の跡取りとしてすくすくと成長していきます。
ですが、11歳の時に父親を亡くしてしまい、代わりに義理の叔父である吉田東洋に育てられることになります。
この吉田東洋という人がなかなかすごい人で、彼は土佐藩主山内豊信に見込まれて大目付という藩の重職につき、彼の私塾である鶴田塾は後の明治維新で活躍する板垣退助や、三菱財閥を築き上げる岩崎弥太郎などを輩出しました。
後藤象二郎は天才とも言える人によって育てられ、英才教育を施されていくのですが時代が幕末に入ると土佐藩では尊王攘夷派の武士と佐幕派の武士で大揉め。
土佐藩はその成立過程からかなりの佐幕派であり、吉田東洋もどちらかといえば佐幕だったのですが、それが祟ってしまい吉田東洋は過激な尊王攘夷派であった土佐勤王党の手によって暗殺。
吉田東洋に育てられた後藤象二郎も失脚してしまい、単身江戸へと向かうことになります。
しかし、彼はへこたれません。
幕府公認の開成所という学問施設で英語や航海術を学んだ後、土佐に帰国。
同志とも言える岩崎弥太郎とともに山内豊信に仕え、その知識を活かして藩主の信頼を受け最終的には土佐勤王党の排除に成功しました。
その後は土佐藩の参政として辣腕を振るう事になります。
そこで、彼が産業や貿易に力を注いでいた関係で長崎にいる時とある人と運命的な出会いをします。
その人こそが当時亀山社中を創立していた坂本龍馬だったのです。
坂本龍馬は元々後藤象二郎の仇である土佐勤王党のメンバーでした。
彼の志に感銘を受け、当時としたら一番やってはいけないことである脱藩行為を不問として土佐藩の公式な機関として海援隊と改称。
坂本龍馬をこの組織のリーダーとしました。
その後は坂本龍馬とともに藩に対して大政奉還についての意見を藩主の山内豊信に進言。
海援隊の政治綱領である船中八策を提示しました。
これが原動力となり、1868年に将軍徳川慶喜による大政奉還が実現。
戊辰戦争を経て明治政府へと移行しました。
後藤象二郎は明治維新の立役者として板垣退助共に土佐藩を代表する人物となりました。
第2代大阪府知事や参議などを歴任するのですが、征韓論の考えでズレが生じ明治六年の政変で政府を去ることになります。
その後は板垣退助と共に自由民権運動や大同団結運動などを牽引していくことになるのですが、ひょんなことからか政府側に転身。
最終的には松方内閣の下で逓信大臣や農商務大臣となるのですが、農商務大臣の時に起こした汚職事件を言及されたことにより失脚。
1896年に心臓病で60歳でこの世を去りました。
経歴と年表
1838年 高知城下で生まれる
1858年 土佐藩の役人になる
1862年 養父の吉田東洋が暗殺 江戸に勉学のため出立
1864年 藩政に復帰
1866年 貿易関係で長崎に出張 坂本龍馬と出会う
1867年 坂本龍馬と共に船中八策を藩主に提示
1873年 明治六年の政変によって政府を去る
1881年 板垣退助が設立した自由党の副党首となり、大同団結運動を推進する
1897年 心臓病によって死去
性格や人柄は?
後藤象二郎を一言で言うのであれば良くも悪くも豪快であり、人を惹きつける魅力がある人物でした。
晩その豪快な性格が相まって彼が営んでいた商店を直ぐに破産に追い込んだり、晩年には政治から離れなければならなくなりました。
ですが、福沢諭吉は彼のことを「政府の現状を変えて、諸悪をなくす豪傑は日本で彼のみ」と評し、坂本竜馬は「後藤は実に同志にて、志は土佐藩で一番」と言わせるほどの人物でした。
西郷隆盛は人々から慕われたと言うことはよく聞きますが、後藤象二郎も西郷隆盛のような豪快な人で人々を惹きつける魅力があったのですね。
子孫は?
後藤象二郎の子孫は今は嫡子である後藤猛太郎(日本活動フィルム初代社長)を始め実業家となっています。
また、後藤象二郎の娘である早苗子は三菱財閥の初代総帥となった岩崎弥太郎に嫁ぎ、のちに第四代総帥となる岩崎小弥太や、旭硝子の創業者の岩崎俊弥などを出産しました。
後藤象二郎の子孫たちは今でも有名な会社の創業者となり、日本の経済を動かしているのですね。
大政奉還を坂本龍馬と共に推めた?
坂本龍馬が船中八策にて提示した大政奉還。
これは後藤象二郎と共に藩主に提示され、最終的には徳川慶喜によってなさせることになります。
ですが、やはりこの大政奉還が実現できたのは後藤象二郎が協力しだからだと思います。
まず、坂本龍馬は後藤象二郎や板垣退助とは違い下士という元々土佐を治めていた長宗我部家の家臣の子孫であり、土佐藩からだいぶ蔑まれていた地位にありました。
そんな彼の思想である大政奉還を藩主に伝えるには何かしら藩に関わっている人に頼むほかありません。
そうなると頼りになるのが後藤象二郎です。
土佐藩の重役にいた彼が仲介したからこそ彼の思想である船中八策が藩の方針として通り、最終的には大政奉還が実現したのでした。
大政奉還が実現したのは坂本龍馬だけではなく後藤象二郎の活躍があってこそのものだったのですね。
坂本龍馬との関係は?親交は深かったのか?
坂本龍馬の思想に感銘を受けて最終的には彼と共に大政奉還を推し進めていった後藤象二郎でしたが、1866年に長崎にて彼に出会うまでは全く接点はありませんでした。
それどころか坂本龍馬は後藤象二郎の養父である吉田東洋を暗殺した土佐勤王党のメンバーだったこともあり、本来であれば敵同士でもおかしくない立ち位置にいたのです。
しかし、後藤象二郎は彼の先見の明に賭けて彼の罪を許したり協力をしたのです。
後藤象二郎からすれば坂本龍馬との関係は昔の因縁を超え新しい日本を作るためにタッグを組んだと思ったことでしょう。
残念なことに坂本龍馬は大政奉還の直後に近江屋にて暗殺されることになるのですが、彼が示した船中八策は明治政府によってなされることになるのです。
それではまとめに入りたいと思います!
まとめ
まとめです!
- 後藤象二郎は土佐藩の上士として生まれ、吉田東洋によって育てられたのだが、土佐勤王党によって吉田東洋が暗殺されると一時期失脚した
- 藩政に復帰後は土佐勤王党を粛清し藩の重役として活躍したのち長崎にて坂本龍馬と出会った
- 後藤象二郎は大政奉還を坂本龍馬と共に成し遂げ、明治時代には板垣退助と共に自由民権運動を推し進めた
- 坂本龍馬とは土佐勤王党の関係で敵でもおかしくない立場だったが、後藤象二郎は坂本龍馬の脱藩の罪を許し大政奉還を共に実現した
- 後藤象二郎の子孫は実業界で活躍している
最後になりましたが、後藤象二郎は坂本龍馬などの影に隠れてあまり注目させることはありません。
しかし、彼がいたからこそ坂本龍馬の思想が実現したことを考えると彼は維新の功労者にふさわしい人だったのですね。