平安時代の貴族や庶民の暮らしに迫る!平安美人や恋愛事情についても言及!

今回解説していくのは貴族中心の文化が芽生えた平安時代

平安時代といえば寝殿造やひらがななど日本特有の文化が花開いた時代でも有名なんですが、平安時代における人々の生活は一体どんなものだったのでしょうか?

 

今回はそんな平安時代について

  • 平安時代の暮らしや衣食住について
  • 平安時代の名前の仕組みや恋愛について
  • 国風文化が花開いた理由とは?
  • 貴族達の遊びや和歌などについて
  • 平安時代の美人ってどんな顔だったのか?

 

などなど平安時代の暮らしぶりを見ていきましょう!

平安時代の特徴

平安時代というのは794年から1185年まで続いたため、その歴史は主に3つに分かれていました。

 

  • 前期は天皇が自ら政治をする時代
  • 中期は藤原摂関家が摂関政治を行なって貴族が日本を支配した時代
  • 後期は院政といって上皇などが政治を行い、そして武士が台頭していった時代

 

などにそれぞれ全く異なった政治体制となっていました。

 

その一方で貴族中心とした国風文化が花開き、いまの日本の文化にもつながる様々な文化が誕生していき、日本固有の文字である仮名文字もこの時期に生まれました。

平安時代の貴族や庶民と武士の暮らし

平安時代の普段の暮らしは立場によって全く異なっていました。

 

貴族たちは1日3時間ほど仕事をした後、和歌を詠んだり、舟遊びをしたり、そして蹴鞠をしたりするなど本当にゆったりした生活を送っていました。

 

一方の庶民はというと租庸調と呼ばれる税金がかけられていたため、貴族のようなゆったりとした生活を送れるはずがありません。

庶民は税金を納めることで手一杯。

生きるか死ぬかと境目で必死に生きていたのです。

 

平安時代後期になると、武士という新しい階級も発生。

武士達はいつかくる戦に備えて鍛錬に明け暮れていたそうです。

服装

十二単を着た良子女王
十二単を着た良子女王(出典:ウィキペディア

貴族たちの服装は束帯や狩衣などを中心とした衣服を着ていました。

束帯といえば今の天皇も祭事の時には来ている日本では正装として使われているように、束帯は朝廷の仕事や祭事の時に着る正装として着られていました。

狩衣は字を見ればわかるように狩りをする時に着る衣ですので、貴族たちが外に出る時に動きやすいような身軽な形となっていました。

 

女性貴族はというと皆さんが知っている十二単が着られていました。

しかし、十二単というのは単に12枚の服を着ているわけではなく、実際には5枚〜7枚ぐらいの袿(うちぎ)と呼ばれる服を着ていたに過ぎなかったのです。

 

そもそも京都って盆地ですから暑いんですよね。

そのため、女性たちは季節に応じて服の数を減らしていました。

 

庶民の方はというと貴族が来ていた服よりもかなり簡素な直垂と呼ばれる服を着ていました。

この直垂はかなり動きやすいことから、その後台頭するようになる武士達の普段着として使われるようになりました。

食事

平安時代の貴族の食事は強飯というお米を蒸したものが主食として食べられていました。

 

また、この頃になると焼く・煮る・蒸すなどの調理法があり、それらを使っていろいろな料理が作られていました。

しかし、この頃は冷蔵庫などの保存技術は進歩していませんので、あまり美味しくはなかったのではないかとは言われていますがね。

 

一方の農民の方はというと、農民は奈良時代の頃と同じく、ヒエヤアワなどの雑穀を主食とて食べており、菜っ葉の漬物と一緒に食べるという非常に簡素なものでした。

平安時代の貴族たちの家は前の奈良時代の時から大きく進化して、新しい造りの家に住むようになりました。

これを寝殿造と言ったりするのですが、貴族たちは寝殿と呼ばれる大きな部屋に簾や屏風などで部屋をしきるという形を取っていたのです。

この平安時代における寝殿造の代表格がいまの十円に描かれている平等院鳳凰堂でした。

 

一方の庶民の方はというと、弥生時代から変わらず竪穴式住居に住んでいたみたいですが、後期になると木造の家も徐々に増えていきました。

トイレ

平安時代においてトイレというものは今のようなスタイルとは全く異なり、樋箱と呼ばれるいまのおまるみたいなもので済ませていました。

そのため、屋敷のにおいはかなりきつく、それが転じてお香などが発展していきました。

 

ちなみに、フランスにおいても同じ事例によって香水がどんどん発展していったのを見ると人間って考えることは同じなんだなと感じることができますね。

名前

百人一首をやってみると歌の横らへんにその歌を詠んだ人の名前が書かれていると思います。

しかし、その名前はヘンテコなものばかり。

三条右大臣って誰やねん!ってなると思いますが、実はその裏には平安時代の名前に関する様々なルールがあったのです。

 

この当時、平安時代の貴族たちは自分の名前を呼ばれることを徹底的に嫌っていました。

今でこそ、下の名前で呼びあうことは別になんとも思われないと思うのですが、この平安時代の時では人の名前を呼ぶことは人の心を支配しようとしているととらえられると思われていたのです。

そのため、お偉いさんを呼ぶときには住んでいる場所+その人の官位やポストで呼んでいたのです。

 

例えば東京に住んでいる課長みたいな形で呼んでいたということなんですね。

ちなみに、例として取り上げた三条右大臣の本名は藤原定方というめっちゃ普通の名前なんですよ。

恋愛

平安時代ではもちろん恋愛も行われていました。

しかし、その方式というものが今の世の中とは全然違うものだったのです。

 

平安時代の貴族が好きな女性に対してアタックするときにはまず、その人についての情報を徹底的に調べ上げることから始まります。

そこで自分とは分不相応だとわかればそこでおしまいです。

 

さらにこの当時は女性と面と向かって会うことはほとんどありません。

女性の顔を見るときには簾からジーと見つめるか、垣根越しで眺めるかの二択というわけだったのです。

ちなみに、垣根から見ることから転じて物事をコソコソと見ることを垣間見ると言ったりするようになりました。

 

さらに、男性たちは自分がアタックしようとしている人に対してその好きな気持ちを歌に乗せて相手に送りつけるような行為もします。

これじゃただのストーカーじゃないか!と思うかもしれませんが、平安時代ではこれが普通だったんです。

 

このように歌に乗せて女性に気に入られたら、ここでようやく女性の家に立ち寄ることができて、結婚することが出来たのです。

平安時代の文化

平安時代における文化は日本独自に発展していった文化と言ってもいいでしょう。

 

平安時代初期の頃は遣唐使が派遣されていたため、中国の影響を強く受けた文化が発展していましたが、894年に菅原道真が遣唐使を廃止すると、日本では風土に合った文化が発展。

これを国風文化と言ったりするのですが、この文化のおかげで日本では漢字を崩したひらがなや漢字の一部を使ったカタカナが使われるようになりました。

 

その一方で、日本では末法思想と呼ばれる「釈迦が死んでからしばらく経つととんでも無いことが起こるよ」みたいな思想が起こり、その末法が1052年にやってくると信じられていたため、貴族たちはなんとか死んでからも良い生活が送れるように阿弥陀如来にすがるようになります。

 

これをいわゆる浄土信仰と呼ぶのですが、これによって日本ではさまざまな阿弥陀如来に関する建物や仏像が作られたのです。

宇治にある平等院鳳凰堂もそんな浄土信仰の一環で建てられました。

 

また、平安時代には書道も発達

 

いわゆる

  • 三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)
  • 三跡(小野道風・藤原佐理・藤原行成)

などが達人としられていました。

遊び

古典などを勉強していると貴族たちはいろいろな遊びを行なっていたということがたまに見受けられると思いますが、貴族たちは一体どんな遊びをしていたのでしょうか?

 

実は、この頃の遊びというものは今の様なゲームなどをやるという意味ではなく、楽器を弾いたり、和歌を詠んだりすることが遊びとされていたのです。

貴族達が遊ぶということは自分のスキルを磨くということだったのですね。

和歌

平安時代には様々な思いを和歌にのせて表現していました。

それが例え天皇だろうが、貴族だろうが、武士だろうが女性であってもです。

 

そのため平安時代には様々な名作の和歌が誕生して、天皇たちはこの和歌たちをなんとか後世に残そうと家臣に対して編纂を命じたりもしていました。

この和歌のことを後撰和歌集と呼んだりします。

 

平安時代には8回にわたり後撰和歌集が作られ、ここには数々の名作の和歌が収められたのでした。

恋愛小説

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。
土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。

平安時代の代表的な恋愛小説といえばなんといっても源氏物語でしょう。

 

源氏物語は西暦1000年ごろに紫式部によって執筆された小説で、主人公である光源氏が行った様々な恋、平安時代の貴族の暮らしなどを繊細に表現して今でも読まれている文学の一つとなっています。

平安時代の美人とは?

小野小町
小野小町

平安時代の美人といえば小野小町などが思いつくと思いますが、この頃の女性というのは容姿よりもふくよかであり、色白の肌、そしてつやつやの髪を持っている方が美人とされていました。

そのため、平安時代の女性の絵を見ているとおたふくとまでは言いませんが、能面のような面立ちの女性がよく描かれています。

 

実はそこには当時の平安時代の美意識が描かれていたのですね。

平安時代の出来事

794年に桓武天皇が平安京に遷都すると、藤原式家藤原北家と呼ばれる二つの藤原家が台頭していきました。

 

しかし、式家は薬子の変という内乱を桓武天皇の息子である平城天皇とともに起こしたことによって没落。

北家が藤原氏の盟主となり、その後承和の変や昌泰の変などを煽ってライバルを蹴落としていき、最終的には藤原氏の娘達を天皇に嫁がせて自分はその外戚となる摂関政治が始まることとなりました。

 

これによって藤原氏は圧倒的な権力を握ることになります。

ですが、その最盛期も長く続くはずもなく、藤原氏とは全く関係の無い三条天皇が即位すると藤原氏は排除されるようになります。

 

その後天皇中心とした政治体制に戻ることになるのですが、後三条天皇の息子である白河天皇は自身が退位した後でも権力を握るいわゆる院政と呼ばれる政治体制を築き上げて、治天の君として政治を動かしていきました。

 

しかし、この頃になると平氏や源氏などに代表される武士が台頭。

平忠盛が比叡山の僧兵を抑える北面武士に就任したり、平氏としてはじめての殿上人になるなど武士が権力を握るようになり、保元の乱や平治の乱を経て平清盛が平氏政権を築くことになります。

 

その後源氏が追い上げていき治承・寿永の乱を経て源頼朝が1185年に鎌倉にて守護地頭を置くと平安時代は幕を閉じました。

年表

794年:平安京に遷都

810年:薬子の変

842年:承和の変

857年:藤原良房が太政大臣に就任し、翌年に摂政にも就任

866年:応天門の変

887年:藤原基経が史上初の関白に就任

901年:昌泰の変 菅原道真が大宰権帥として大宰府に左遷

939年:平将門の乱

969年:安和の変

995年:藤原道長が摂政に就任

1017年:藤原道長が太政大臣に就任

1019年:刀伊の入寇

1051年:前九年の役

1068年:後三条天皇が即位 摂関政治の終焉

1083年:後三年の役

1086年:白河天皇が譲位 院政が始まる

1132年:平忠盛が平氏初の昇殿を許される

1156年:保元の乱

1159年:平治の乱

1180年:治承・寿永の乱

1185年:壇ノ浦の戦いにて平氏滅亡 源頼朝が守護と地頭を設置

1192年:源頼朝が征夷大将軍に就任

 

平安時代は時代が長い分、起こった事件や内乱も多いためしっかりと覚えておいてください!

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめに入ります!

 

  • 平安時代とは794年から1185年までの約390年の間の時代のこと
  • 平安時代は貴族たちは寝殿造という家に住んで豪華な生活を送っていた一方、農民は苦しい生活を強いられていた
  • 平安時代では遣唐使が廃止されたことによって国風文化が発達し、さらには浄土信仰によって様々な仏像や建築物が建てられた
  • 平安時代ではふくよかで、色白の肌で、つやつやの髪を持っていた女性が美人とされた

 

最後になりましたが、平安時代は日本の文化の原点とも呼べるほど、今に繋がる文化が形成されていきました。

平安時代とは日本の文化が確立された時代だったのですね。

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