今回解説していくのは、奈良時代〜平安時代の日本の政治に影響を与えた遣唐使!
この遣唐使によって日本は唐のような政治を行っていくのですが、今回はそんな遣唐使について
- 遣唐使はどんな使節なのか?
- 遣唐使船が難破しやすかった理由とルートについて
- 遣唐使で唐に留学した空海と阿倍仲麻呂について
- どうして遣唐使は廃止されたのか?
- 今でも残る遣唐使の遺跡
などについて解説していきたいと思います!
目次
遣唐使とは
遣唐使は630年から894年の間に日本が唐に20回派遣した使節のことです。
日本は中国の発展した文化を日本に取り入れて唐と肩を並べるような国づくりを進めるために多数の人材を留学生として送り出し、唐で学んだ留学生が日本でいろんな貢献をしました。
ちなみに、似てる単語として遣隋使がありますが、基本的には内容は一緒です。
人物
遣唐使は
- 大使、副使
- (唐で学ぶ予定の)留学生
- 翻訳者
- 医師
など一気に600人も乗る大所帯でした。
そんな遣唐使ですが、その中でも特に覚えて欲しい人物が阿倍仲麻呂や空海。
この2人については追々解説していくのですが、このように遣唐使では今の世でも知られている有名人同行していったのですね。
廃止理由
遣唐使が始まって約250年。
当時日本では平安時代中期となっており、この頃は菅原道真が宇多天皇の下で辣腕を振るっていました。
そんなある頃。
宇多天皇は久し振りに遣唐使を送る計画を立てるように命令を出すのですが、これに対して菅原道真は反対します。
それもそのはず、この頃の唐は安禄山の乱を始め、節度使と呼ばれる各地を治めていた王様みたいな役職の人たちが大暴れするようになり、唐の没落は火を見るよりも明らかでした。
さらにトドメと言わんばかりに874年に黄巣の乱が勃発。
これを機に唐は完全に崩壊寸前の国家へと成り下がってしまいます。
これを受けて菅原道真は「もう危険な航海をしてまで唐で学ぶことなんてありませんよ」という形で宇多天皇に進言。
宇多天皇はこれに納得して遣唐使を送ることを中止しました。
そしてその中止の11年後唐は滅亡。
唐が滅亡したことによって遣唐使は正式に廃止されたのでした。
遣唐使の航路変更の理由は?
遣唐使のポイント。
それは時代と共に遣唐使が渡るルートがガラリと変わっていることです。
遣唐使の歴史の中で使われていた航路は3つありました。
それが
- 北路
- 南路
- 南島路
です。
最初の頃は北遣隋使が向かったルートと同じである北路を使用して朝鮮半島を伝って山東半島に上陸するルートを使っていました。
ですが、よりによって663年に白村江の戦いによって新羅と敵対すると朝鮮半島を経由することが難しくなってしまいます。
仕方なく、日本は北路に変わって沖縄や奄美大島を経由して中国の蘇州に向かうルートをとります。
しかし、南島路が通ることとなる東シナ海はかなり荒れており、鑑真なんかは日本に来るまで5回失敗したそうな。
ここから見れば分かる通り、この時代になると極端に遣唐使が危なっかしいものとなります。
ただ、白村江の戦いから時代が降り、平安時代に入ると南路と呼ばれる五島列島から蘇州を目指す南路となり、これで落ち着きました。
船の構造
遣唐使が乗っていた遣唐使船は資料によると底が平らな帆船だったそうです。
そこに、大使が住む部屋や人が漕ぐための部屋などがあり、船としてはとても立派だったそうな。
しかし、この頃の日本は中国や百済の造船技術を学んだものの、日本海や東シナ海の波に耐えられるだけの技術がなく、これが遣唐使船が難破しやすいという理由の一つになっているのです。
目的地にたどり着いた船は何隻?
遣唐使はとんでもなくヘビーな航路を取らざるおえない様になったことは上でも解説しましたが、一体どれぐらいの船が難破していたのでしょうかね?
例えば空海や最澄が唐に渡った18回目の遣唐使船は半分沈没し、全船が全て往復できたのはたったの一回というから驚きです。
さらに第2回遣唐使は二隻のうち一隻が沈没。
乗っていた人の95%が溺死してしまうという大惨事も引き起こされたのでした。
そのため、遣唐使の大使を拒否する人も続出したとか。
まぁ、やりたくないですけどね。
しかし、日本はこんな犠牲を払ってでも中国の文化を取り入れていったのです。
遣唐使船を奈良で見ることが出来る?
遣唐使を伝える資料は今では少なくなっていますが、2008年に平城宮を復元するプロジェクトが創始されることとなると、奈良時代の文化に多大な影響を与えた遣唐使船を復活させようとするようになります。
そして今では国営平城宮跡歴史公園の構内に当時の資料を基として遣唐使船が復元。
今では朱雀門の近くに常時展示されており、天気が良ければ中に入ることもできるのですよ!
もし、奈良近くを観光することがあれば平城宮跡を見るついでに寄ってみてはいかがでしょうか?
遣唐使として中国に渡った空海
803年に送られた第18回目の遣唐使。
これに乗って学問僧として唐に渡ったのがのちに真言宗を開く空海でした。
空海という人は元々は都で勉学に努める官僚だったのですが、突如19歳にして修行を行い出家。
そして都で勉学に励んでいた縁から唐に仏教を学んできてと依頼され唐に留学することになったのです。
ちなみに、この時同じように仏教を学びに唐に留学する学問僧が1人いました。
その人こそが後に天台宗を開く最澄だったのです。
そして空海は唐で密教と呼ばれる仏教のジャンルを完璧にマスターして帰国。
嵯峨天皇の許可を受けて高野山に金剛峯寺を建立して真言宗を開いたのでした。
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由は?
遣唐使として渡った留学生の中で一番悲劇的だったのはやはり阿倍仲麻呂だったのかもしれません。
この人は百人一首の歌を読んだことでも知られていますが、この人はなんと唐に渡ってから日本に帰ることができなかったのです。
その理由は簡単。
乗っていた船が難破したから。
阿倍仲麻呂という人はとんでもないぐらい頭が冴えており賢い人だったため、当時の唐の皇帝玄宗に気に入られたり、詩人として有名な李白とも友達になるほど顔が広い人物でもありました。
そのため、玄宗や李白から惜しまれるんですが、唐に渡ってから35年目の節目の年に帰国を許可され日本に帰る遣唐使船に乗り込みます。
しかし、頭は賢くてもここぞの運はなかった模様で船は難破してしまい、ベトナムに上陸。
ボロボロになりながらも唐に戻れたのは良かったのですが、これ以降阿倍仲麻呂が日本に帰る機会は訪れることはなく、当時唐の配下であった安南国の節度使(ベトナムの王様と同じくらい偉い)という日本人にしたら破格な待遇を受けるのですが、73歳で唐にて人生の幕を下すこととなりました。
遣唐使と遣隋使の違いは?
遣唐使と遣隋使の違いはほとんどありません。
そもそも、遣隋使が遣唐使になったのも中国において隋(ずい)が滅ぼされてしまい、代わりに唐(とう)が代わりに建国されたため日本も遣隋使(けんずいし)から遣唐使(けんとうし)と呼び名が変わっただけです。
しかし、遣隋使の場合だと例えば隋の煬帝に国書を渡して中国との関係を樹立しようとしたなどの古墳時代の朝貢の影響を受けており、中国の文明を習う以外にも外交的な目的があったのです。
それでも遣唐使と遣隋使には本来の目的である中国の文明を吸収をすると共に重要な役割があったのですね。
遣唐使ふるさと館
遣唐使船のルートの経由地となった五島列島には遣唐使ふるさと館という遣唐使の面影を知れることができる施設があります。
ここでは空海などの唐に向かった留学生が出発した港が残されており、さらには奈良時代の頃の遣唐使のことが知れる展示品も数多く揃えています。
最近では五島列島が話題沸騰中のスポットになっているそうなので、機会があれば遣唐使ふるさと館に訪れてみて当時の遣唐使の感情を味わってみてはいかがでしょうか?
それではまとめに入ります。
まとめ
まとめです!
- 遣唐使は630年から894年まで20回に渡り行われた日本が唐に送った使節のこと
- 遣唐使は大使や副使を中心として600人の大所帯で行われ、その中には空海や阿倍仲麻呂などの有名人もいた
- 遣唐使が乗っていた船は平底の船で転覆しやすく、さらには東シナ海の波に遭うこともあり、難破しやすく半分沈没するのは当たり前だった
- 遣唐使は唐の衰退などを理由に菅原道真が廃止した
- 遣唐使の面影を残そうと国営平城宮跡歴史公園には遣唐使船が復元され、五島列島には遣唐使ふるさと館が存在している
最後になりましたが、この遣唐使によって日本に中国の文化や政治システムが導入されていき、日本の発展に大きな影響を与えました。
遣唐使は日本の発展を支えていったのですね。