今回ご紹介するのは、大化の改新です。
豪族蘇我氏が天皇の廃位・擁立をするほど権力を誇っていた時代に、その専横を快く思わなかったとある人物が立ち上がります。
後に日本の政治に常に居座り続ける藤原氏の祖となった彼を中心に行われたこの改革により、日本の政治は大きく変わることとなります。
- 大化の改新では何が起きていたのか。
- 教科書での大化の改新についての記述が変わってきている?
- 大化の改新はなかったという説もある?
今回は特にこのような点について詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
目次
大化の改新とは?簡単に解説!
大化の改新とは、飛鳥時代の645年から行われた一連の政治改革のことです。
中臣鎌足や中大兄皇子らが主導したこれらの改革により、日本は従来の豪族による政治から天皇を中心とした政治へと移行することとなります。
改革前に政治の主導権を持っていたのは、蘇我蝦夷と蘇我入鹿でした。
この蘇我氏は4代にわたり政権を掌握してきており、中臣鎌足はこの蘇我氏の専横を快く思っていませんでした。
そこで中大兄皇子と協力して蘇我入鹿を暗殺することに成功します。
これを乙巳の変と言います。
改革はこの乙巳の変に始まり、その後元号の使用、男女の法の制定、新たな政治の役職の決定などが行われました。
さらに、新政権の方針を示した改新の詔が発布されました。
なお、701年に大宝律令が制定されるのですが、大化の改新は広義ではこの大宝律令の制定までの改革を指しています。
次に、大化の改新の年号や起きた場所、改革を進めた中心人物について見ていきます。
年号
改革が始まったのは645年のことです。
元号が「大化」であったのは650年までであり、この約5年間が大化の改新の行われた年とされています。
大宝律令の制定は701年ですので、広義では大化の改新は50年以上行われたことになりますね。
場所
当時の都は飛鳥という、現在の奈良県にありました。
乙巳の変が起きたのはこの飛鳥の宮中です。
この変後しばらくして、改革の一環として都は飛鳥から、現在の大阪府にある難波へと移されています。
中心人物
改革の中心となったのは、中臣鎌足や中大兄皇子の他に、当時の蘇我一族の長老であった蘇我倉山田石川麻呂がいました。
次の章では、大化の改新の意義について検討していきます。
大化の改新の意義
大化の改新により、日本はどのような変化を見せたのでしょうか。
最大の変化は、当時の中国を手本とした中央集権国家となったことです。
- 土地と人民の私有を認めず、全て国家のものとする公地公民制
- 租調庸の統一税制
- 田の収穫から税をとる班田収授法
などが取り決められたことが、中央集権化の大きなポイントです。
また、蘇我氏が倒されたことや、豪族も私有地を奪われたことから、天皇を中心とした政治が行われるようになったことも、この改革の大きな意義です。
次に、大化の改新の年号の覚え方をご紹介します!
大化の改新の年号の覚え方は?
大化の改新の始まった年号である、「645年」の覚え方をご紹介します。
- 無事(64)よ、こ(5)の世は大化の改新
中央集権が進むのと同時に、朝鮮などとの外交関係も整理されて緊張が和らいだため、日本は「無事」だったというわけです。
- 虫こ(645)ろしの大化の改新
蘇我蝦夷の「蝦」の字に虫が入っていることから作られています。
ちなみに、蝦夷は厳密には殺されたのではなく、自害しています。
次に、近年変わりつつある、大化の改新の教科書における記述について見ていきます。
大化の改新が教科書から消えた?
近年の教科書での、大化の改新についての記述は変化を見せています。
結論から申しますと、「大化の改新」という言葉や出来事についてはしっかりと記述されています。
しかし、冒頭で触れたように、645年に起きた政変は「乙巳の変」であり、「大化の改新」はここから始まったとされています。
以前の教科書では「大化の改新=645年」という表記がなされていましたが、今ではその記述は変わったというわけです。
また、今まで日本最初の元号は「大化」であるとされてきましたが、これにも意義が唱えられています。
改革当初は元号のようなものは干支で表されており、どうやら「大化」は実用されていなかったようなのです。
その代わり、現在の教科書では、最初の元号は「大宝」となっているようです。
大宝律令の定められた時期ですから、701年頃ということですね。
次の章では、そもそも大化の改新はなかったのではないか、という大胆な説について見ていきます!
大化の改新はそもそもなかった?真実は?
大化の改新がそもそもなかったのではないか、という壮大な説も唱えられています。
これは、改新の詔が本当に出されたのか、ということに関わっています。
大宝律令は、律令国家としての日本を形成する上で必須のものでしたが、この作成に関わっていた当時最大とも言える権力者が藤原不比等という人物です。
この藤原不比等の父親は中臣鎌足でした。
つまり、不比等が自分の地位を揺るぎないものにするため、父である中臣鎌足が改新の詔という立派なものを作っていたことにしよう、というでっち上げを行ったというのです!
これは、日本書紀以外の文献には大化の改新についての記述がないことや、日本書紀に記述されていた大化の改新の内容が大宝律令と似通っていたことが理由とされています。
もちろん、大化の改新期の天皇の権力は大きくなったため、その背景に大きな政治改革はあったはずだとの反論を受け、この大胆な説はあまり一般的とはなっていません。
次の章では、大化の改新を取り扱ったドラマをご紹介します!
大化の改新のドラマ
大化の改新を扱ったドラマとしては、NHKの『大化改新』があります。
中臣鎌足役を岡田准一氏、蘇我入鹿役を渡部篤郎氏が演じています。
当時の天皇を黒幕としているなど、大化の改新を定説に拘らずに描いているところがポイントと言えるでしょう。
次に、大化の改新の歌についてご紹介します!
大化の改新の歌
大化の改新を扱った歌があることをご存知ですか?
この歌は、大化の改新で行われた改革について分かりやすく紹介しています。
前述の公地公民制や、租調庸の税制にも触れられていますね。
とてもコミカルで、内容を覚えやすい歌となっています!
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、大化の改新について振り返ってみます。
大化の改新は、645年に始まった政治改革です。
中臣鎌足や中大兄皇子が中心となったこの改革は、当時専横を行なっていた蘇我氏を滅ぼした乙巳の変に始まります。
この改革では、公地公民制や租調庸の税制、班田収授法などが定められ、日本は天皇を中心とした中央集権国家へと変化していくこととなります。
近年の教科書では、大化の改新についての記述が少し変化してきています。
大化の改新=645年、というわけではなく、645年は乙巳の変、これを皮切りに数年続く改革のことを大化の改新としています。
また、「大化」という元号は日本初の元号ではない、ということにもなっています。
大胆な仮説の中には、大化の改新はそもそもなかった、といったものもありましたね。
645年の年号は、「無事(64)よ、こ(5)の世は大化の改新」などの語呂合わせで覚えましょう!
大化の改新を扱ったドラマや歌も出ているので、是非一度見てみてください!