今回ご紹介するのは、邪馬台国です。
日本史上最も謎の多い国のひとつとも言える、この邪馬台国。
どのような国で、そして現在どのような議論が行われているのでしょうか。
- 邪馬台国の場所はどこ?
- 未来人の残した暗号が邪馬台国の位置を示している?
- 邪馬台国と大和朝廷の関係は?
今回はこうした謎について特に詳しく迫りますので、ぜひご注目ください!
目次
邪馬台国の場所はどこ?
邪馬台国がどこにあったのかという点は長らく論争されてきました。
こちらが主流となっている2つの説です。
- 「畿内説」
- 「九州説」
まずは「畿内説」から見ていきましょう。
奈良県に纏向遺跡という3世紀頃と思われる遺跡があり、これが邪馬台国の都であったのではないか、という考えもあります。
ですが、「畿内説」には琵琶湖湖畔や大阪府などの説もあります。
年輪年代学(樹木の年輪パターンの分析により、年代を科学的に決定する方法)の観点からして、
- 邪馬台国のあったとされる時期に前方後円墳が作られ始めたとみられること
- 卑弥呼の使者との関係をうかがわせる銅鏡が畿内に分布していること
などが、その根拠となっています。
しかし、この「畿内説」に対する反論としては、
- 古墳の造営が邪馬台国以外の国によって行われたとしても不思議ではないこと
- 中国の『魏志倭人伝』の記述の中に、本来通るべき近畿以西の国が全くないこと
などが挙がっています。
それでは、「九州説」はどうでしょうか。
具体的に九州のどの位置に存在したのかをめぐっては、非常に多くの説があり、九州全域に候補地があるようです。
「九州説」の根拠としては、邪馬台国は「伊都国」の南にあるとされており、
- その「伊都国」が九州北部に存在したと思われること
- 邪馬台国は海中の島の上にあってその島の大きさが九州に近いこと
などが挙げられます。
しかしこの説にも弱点がありました。
弥生時代から古墳時代に4000枚もの鏡が出土するのですが、
- このうち紀年鏡13枚はすべて3世紀のもの
- 12枚が畿内を中心に分布している
ということで、九州説ではこの紀年鏡の存在については明確な説明を与えていないのです。
どちらにも根拠と反論があり、はっきりしたことは掴めていないままです。
実はこのほかにも、
- 邪馬台国は四国にあったとする「四国説」
- 九州で成立したあと畿内に移動したという「東遷説」
などもあるのです!
次の章では、こうした諸説の中で現在有力なものをご紹介します!
最新の有力候補
それでは、現在有力となっているのはどの説なのでしょうか。
それは、「九州説」です!
畿内には纏向遺跡や前方後円墳があり、そのような考古学的見地からすれば「九州説」は劣っていたのです。
しかし、近年福岡にも巨大な前方後円墳らしきものが存在することがクローズアップされています!
卑弥呼の墓についての記述は『魏志倭人伝』に見られるものであり、この福岡の前方後円墳はその記述にある大きさとほぼ同じだそうです!
しかし、依然として紀年鏡に関する説明は与えられていないので、ここから「畿内説」をはじめとする他の所説が巻き返してくるかもしれません。
今後の動向に注目です!
次に、邪馬台国発見のカギとなる、『魏志倭人伝』について見ていきます。
発見のカギは疑心倭人伝?
『魏志倭人伝』とは、中国の歴史書『三国志』の中の「魏書」東夷伝倭人条のことです。
『三国志』は3世紀末に書かれたものであり、この部分には当時の日本人の習俗などが書かれています。
邪馬台国に関しては、たどり着くまでに通る国や使者を送った年のことなど、さまざまな情報が記載されており、邪馬台国の存在を強く知らしめる史料となっているのです!
しかし、そこに記載された位置関係や行程が正確ではないがために、前述のような論争が巻き起こっているのです。
次に、未来人が邪馬台国の場所を示した暗号とはどのようなものなのか、見ていこうと思います!
未来人が残した暗号が邪馬台国の場所を示している?
ここで、未来人と称する人物が邪馬台国の位置について言及していることに触れておきます。
この未来人とされる人物は、2010年にネットに姿を現し、暗号を用いつつ日本に起きた出来事の予言を行ってきました。
そんな彼が邪馬台国の位置について出した暗号は「75srp6eye9」です。
この暗号の答えは、現在では「やよいすえ とおせんい(弥生末 東遷移)」とする説が主流となっています。
つまり、邪馬台国はもともと九州にあり、近畿地方に移ったという説です。
未来人が何者かということもはっきりしてはいませんが、なにか隠された事実があるのかもしれませんね!
次に、邪馬台国とはどんな国だったのかについて、簡単に解説します!
邪馬台国について簡単に解説
邪馬台国は、2世紀から3世紀にかけて日本列島に存在した国です。
国が成立してから70年か80年ほど経って、当時の日本で大規模な騒乱が起きました。
さまざまな国どうしの争いが絶えませんでしたが、卑弥呼という女性を王とすることでようやく争いは収まったようです。
卑弥呼は弟の補佐の下で国を治めていましたが、男性の王の時代になるとまた争いが起こるようになり、卑弥呼の娘とも言われる台与が女王となるとまた争いは収まりました。
次の章では、女王卑弥呼について見ていきます。
邪馬台国の女王卑弥呼について
卑弥呼は、邪馬台国の女王とされている人物です。
卑弥呼は王となっていた時にはすでに高齢であり、弟が政治を助けていたようです。
その政治は占いをもとにしていたと言われています。
王となった後はある男子一人だけが彼女の下に出入りできたようで、彼女を見た者は少なかったようです。
彼女は当時の中国の王朝である魏に使者を派遣しており、「親魏倭王」の称号を得ました。
出生年はもちろん明らかではなく、亡くなった年に関しても242年から248年の間であると言われており、はっきりしていません。
次の章では、邪馬台国と大和朝廷の関係性について言及していきます!
邪馬台国と大和朝廷の違いは?
大和朝廷が現れたのは3世紀頃とされており、時期的には邪馬台国のあった時代と被っていたようです。
実のところ、この両者の関係性もまだ明らかにされていないのです。
考えられる説は、主に3つあります。
- 邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされた。
- 邪馬台国が畿内を平定し、大和朝廷を樹立した。
- 国内の別の国が邪馬台国を滅ぼし、大和朝廷を樹立した。
現在につながる天皇の血統は大和朝廷から続いているわけですが、邪馬台国の王の血統を受け継いでいるのか、その血統は途絶えたのか、という関係も分かってはいないのです。
この期間にこれだけ謎が多いのは、3世紀後半から5世紀の初めにかけて、中国の文献から日本に関する記述が消えてしまっているためであり、これは「空白の4世紀」とも称されています。
邪馬台国はその位置とともに、大和朝廷との関係性に関しても、謎が多いのです。
まとめ
いかがでしょうか。
それでは、おさらいを兼ねて邪馬台国についてもう一度振り返ってみましょう。
邪馬台国は、2世紀から3世紀にかけて存在したとされる国です。
この国の女王であった卑弥呼は、占いによる政治をしていたようで、彼女の弟が彼女を補佐していました。
卑弥呼は中国の魏に使者を派遣しており、「親魏倭王」の称号を得ています。
邪馬台国と大和朝廷の関係性はまだ明らかにされておらず、王の血統が変わったのかどうか、変わったとすればどのポイントでのことなのかについて、研究が進められています。
そして、邪馬台国に関連して最もよく議論されるのは、その位置についてでしたね。
現在出ている説としては「畿内説」「九州説」「東遷説」「四国説」などが挙げられ、現在有力とされているのは「九州説」です。
邪馬台国の存在をよく示している史料としては 『魏志倭人伝』が代表的ですが、この記述が不明瞭なために、いろいろな論争が巻き起こっているわけですね。
また、未来人と称する人物がネット上で邪馬台国の位置について暗号を出しており、隠された真実が見つかることが期待されています。
邪馬台国の謎は、壮大な歴史ロマンと言えるでしょう!
さまざまな角度からこの謎を追ってみてください!