今回解説していくのは道鏡事件!
日本史でも類を見ない皇位簒奪を狙った事件としてはよく知られていますが、今回はそんな道鏡事件について
- 道鏡事件とは一体どんな事件だったのか?
- 道鏡事件の当事者である道鏡とはどんな人物だったのか?
- 道鏡事件の謎とその後
- 道鏡と称徳天皇の関係
などについて解説していきたいと思います!
道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)とは?
道鏡事件とは769年に起こった弓削道鏡が皇位を簒奪しようと全国の八幡宮のトップである宇佐八幡宮の神託を受けたとして紛糾した事件のことです。
元々、称徳天皇の厚い信頼を受けた道鏡は765年に太政大臣禅師という太政官のトップの太政大臣のお坊さんバージョンの役職に就き、政治の権力を握りました。
しかし、道鏡はこれだけでは飽き足らず、最終的には天皇になろうと画策し始めるようになりました。
そして、769年に宇佐八幡宮で道鏡を天皇にするべきだという御神託が下されたという噂が流れ、これを確認しようと和気清麻呂という役人を宇佐八幡宮に派遣しました。
もちろん、天皇というものは皇族が代々つぐもので道鏡のような出身も微妙な人材が慣れるものではありません。
2度目の御神託は最初の道鏡を天皇にするべしとは打って変わって道鏡を直ちに排除せよというもの。
これに怒った称徳天皇と道鏡は和気清麻呂を追放するのですが、最終的に道鏡が天皇になることは防げたのでした。
弓削道鏡ってどんな人?
道鏡といえば奈良時代の政治の腐敗を象徴するような人物で、女帝をたぶらかして皇位を簒奪しようとした日本史上屈指の大悪人と言われることもしばしば。
そんな弓削道鏡は名前の通り弓を作ることを専門にしていた弓削氏の出身であり、一説では700年に今の大阪府八尾市に生まれたそうです。
この頃は仏教というものは聖武天皇が仏教を使って国を治めるいわゆる鎮護国家という流れができていたということもあり、非常に大切に扱われていました。
その中で道鏡は仏教の高僧である義淵の弟子となり、仏教を学び始めるようになります。
特に禅を中心に学んでいたとされ、これが理由の一つとなり朝廷の御用の僧として出世。
道鏡は聖武天皇の娘である孝謙天皇(のちの称徳天皇)の加持祈祷をやったことがきっかけで称徳天皇が道鏡にゾッコン。
道鏡のことしか考えられなくなってしまった称徳天皇は道鏡や道鏡の親族を次々出世させ、道鏡を太政大臣にした上にさらに法王という地位を与えました。
ここまでくるともう有頂天なのが道鏡。
ノリノリの状態の彼は僧でありながら欲望を丸出しにします。
この頃朝廷で権力を握っていた藤原南家出身の藤原仲麻呂(恵美押勝)を恵美押勝の乱で打倒した後、遂に皇位まで狙うようになったのです。
これが原因で起こった今回のテーマである道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)でした。
この事件以降道鏡の勢いはどんどん落ち込んでいき、道鏡は最終的に追放されることになります。
道鏡という人物は僧でありながら出世欲がとても強く、さらには江戸時代には「道鏡は 座るとひざが 三つでき」という川柳が詠まれるほどのモノを持っており、性欲もかなり強かったそう。
そもそも日本の歴史の中で天皇になろうとした一般人はほとんどいないため、この道鏡という人物は日本の悪人の代表格として扱われることになりました。
道鏡事件の真相とその後
道鏡事件の最大の謎。
それは何と言っても道鏡を一回天皇にするべしとだした御神託の真相だと思います。
道鏡事件は和気清麻呂が調査した時はキッパリとノーを突きつけましたが、最初は道鏡を天皇にするべしという御神託が出されました。
おそらく、最初の神託は道鏡が偽装したのではないか?という説が濃厚なようです。
そもそも最初に御神託があると進言したのは道鏡の弟。
そうなると道鏡は自身が天皇になるためにわざわざ御神託を偽造して提出したのではないかといわれているのです。
さらに、称徳天皇が天皇を道鏡に継がせたかったことについてなんですが、これはかなりあり得る話ではないかと思います。
そもそも称徳天皇自身仏教を厚く信仰していたため子供を産むことはほとんど不可能な状況にありました。
そのため天皇は徳がある人がやればいいのではないかと思っていたのではないかと考察されます。
称徳天皇にはちょっと変わった趣味があって、自分のことや自分が好きな人物をけなした人にとんでもない名前をつけることが趣味だったそう。
和気清麻呂もこの道鏡事件によって別部穢麻呂に改名させられることになりました。
本来ならこんなことを気にしなくても道鏡を天皇にする道筋はすでに建てられていたのですが、称徳天皇はようやくここで自身が日本史上最大級のとんでもないことをやらかそうとしたと気づいたのでしょうか。
これ以降、道鏡を天皇にすることをためらうようになり、称徳天皇は道鏡事件の翌年に崩御。
称徳天皇がいない道鏡なんぞ単なるお坊さんでしかないため、その後天皇として即位した光仁天皇によって下野国の薬師寺に左遷させられることが決定しました。
こうして、道鏡による一連の騒動は幕を閉じたのです。
道鏡と称徳天皇の関係
道鏡がこんなにも権力を振るうようになったのはやはり称徳天皇が道鏡にゾッコンだったことにあるでしょう。
称徳天皇は元々孝謙天皇として藤原氏とともに政治を運営していました。
そこに、上にも書いた通り孝謙天皇が病気にかかった際、道鏡は孝謙天皇の加持祈祷を行い、その際に関係を結んだとされています。
孝謙天皇はここから道鏡を寵愛し始め、これまでの政治をぶち壊して藤原氏を排斥。
上皇になった時でも道鏡の事を忘れることもなく、徐々に疎ましくなってきた淳仁天皇を廃嫡した上で淡路島に配流。
孝謙天皇は称徳天皇として重祚を行い、自分のことを愛してくれる道鏡を太政大臣禅師として二頭体制を確立していくことになります。
しかし、称徳天皇の道鏡に対する想いはとどまるところを知らず、
- 墾田永年私財法は寺院のみ開墾して良い事にする
- 寺院や神社の拡張
- 権威の増加
など、政治をやる上で一番ダメな事を行なっていくようになりました。
やはりその裏には道鏡と称徳天皇の熱い関係があったと思われていました。
なので、この一大スキャンダルと言えるような行動がのちの平安京遷都の一つの理由となっていくようになりました。
ちなみに、このようにとある男性が有力者の女性に取り込まれてしまい国が大きく乱れることは世界を見ても多々ありました。
- 秦の時代の嫪毐が起こしたクーデター
- ロシア帝国末期にロシア帝室の女性を虜にしてロシアの政治で暗躍したラスプーチン
などがその例で、他にも様々なものがありました。
特にラスプーチンは、
- 元々あまりいい家門出身ななかった点
- 加持祈祷のお陰で出世した点
- 皇室の女性と関係を結び権力を握った点
- 男性のシンボルが大きかった点
など、道鏡と境遇が同じこともあり結構類似していると言われているのですよ。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです!
- 道鏡事件とは769年に宇佐八幡宮の神託によって起こった道鏡による皇位簒奪を狙った事件のこと
- 道鏡事件が起こった背景には道鏡と称徳天皇の密接な関係があり、道鏡事件のきっかけとなった神託も偽装したという説がある
- 道鏡は道鏡事件の後に称徳天皇が崩御すると失脚した
- 道鏡の皇位簒奪計画などの行動がのちの平安京遷都に繋がっていったが、世界を見てもラスプーチンのような例があった
最後になりましたが、この道鏡の皇位簒奪計画は日本における仏教が脅威になったことを明確に示した事件でもありました。
このような行動が日本史を大きく変えていったと考えると道鏡という人物は悪人でもあり、日本史のキーマンだったと思います。