今回解説していくのは、日本が近代国家になるために推進した政策のスローガンである、富国強兵!
富国強兵といえば明治維新のスローガンとしても有名なんですか、今回はそんな富国強兵について
- どうして富国強兵をする必要があったのか?
- 富国強兵の重要な三つの政策
- 富国強兵を行なった結果
- 富国強兵とよく間違えやすい単語との違い
などについてわかりやすく、そして詳しく解説していきたいと思います!
目次
富国強兵とは?
富国強兵とは明治維新を迎えた日本が次々と近代化的な政策を実行していき、国を強くして強い軍隊を持つようにしたことを指します。
日本はまさしく国を富ませて強い兵士を持つように様々な政策を矢継ぎ早に実行していき、そして日本をアジア唯一の一等国へと押し上げる原動力となっていったのでした。
年号
富国強兵が始まった時の年号は一般的には大久保利通が内務卿に就任した時の年号である1873年だと言われています。
まぁ、富国強兵は国を強くしていこうというスローガンなんですから事件や内乱のように確実な年号は無いんですけどね。
中心人物
明治維新を成し遂げた日本。
そんな明治維新の直後を担いそして富国強兵政策を推し進めたのがあの西郷隆盛の盟友であった大久保利通でした。
大久保利通は西南戦争と呼ばれる日本における最後の内戦を鎮圧した後内務卿(今の内務大臣)に就任。
大久保利通の独裁とも言える強力な権力を握り、独裁のメリットを上手く使いながら大久保は富国強兵を進める政策を行なっていくのでした。
目的
日本が富国強兵の政策を行った理由。
それはやはりこの頃の日本は欧米列強から未開な地として舐められていたことにあったと思います。
日本は1853年の黒船の来航によって鎖国状態を解除して外国との交流を開始しました。
ですが、やはり250年もの間オランダ以外のヨーロッパの国との交流を絶っていたため、欧米の進んだ文化や制度を全く持っておらず、近代国家としての基礎すらなっていない状態でした。
そこで明治維新を成し遂げた明治新政府はこの状況をなんとか脱出して欧米列強と肩を並べられるように富国強兵という政策を推し進めていったのでした。
どのような影響があったか?
富国強兵政策を推し進めた結果、日本は数年前までは欧米列強から未開な地として見られていた時から大変化を遂げ、近代的な国家へと一気にランクアップするようになります。
その一つの成果と言えるのが1894年から起こった日清戦争だと言えるでしょう。
当時、中国を治めていた清朝は日本と同じように洋務運動という日本の富国強兵政策と同じような政策をる行なっていたのですが、西太后の陰謀もありこれは頓挫。
富国強兵を順調に進めていた日本に太刀打ちすることが出来なくなり、この日清戦争は日本の大勝利に終わりました。
富国強兵の政策はまさしく日本を強力な国家に仕立て上げた成果をきっちり収めて、列強国へのステップアップの原動力となっていったのでした。
富国強兵3つの政策の意味や違いは?
こうして始まっていった富国強兵でしたが、その中でも特に重要な政策が三つあり、この三つの政策によって日本は大成長を遂げたと言っても過言ではないまさしく重要な政策ばかりでした。
次はそんな富国強兵をするために推進した三つの政策を見ていきましょう。
学制
国を富ませていくにはやはり国民の教育というものは非常に大切なものになっていきます。
だって、日本を動かしていくには深い教養や知識がどうしても必要になってきますし、さらに言えば基礎知識がないと近代化以前の問題となってしまいます。
そのため、明治新政府は明治5年(1872年)に学制と呼ばれる教育制度を設置。
全国を学区と呼ばれる一つのブロックにして、そこからまんべんなく日本国民全員が教育を受けるようにする、今の義務教育のような制度がこの時確立させたのでした。
さらに元々寺子屋という今の学校みたいな施設があったため、この政策は大成功。
国力の一つの指標となる識字率はなんと8割を超えるというこの頃の世界の国ではありえないほどの高水準を叩き出すことができたのでした。
兵制
教育制度を整えたのならば次は富国強兵の強兵の部分を推進していくようになります。
そこで明治新政府は日本国民全員が兵士としての義務を務めるように徴兵令を発布。
これまで武士という身分だけが戦っていた状況を見直して日本国民が一致団結して国を守るという意識がこの時確立されました。
そしてこの徴兵令を始めとする兵制はのちの日清戦争や日露戦争へと活かされていくようになるのです。
税制
さてさて、教育・兵制を整えた政府は次に国の運営になくてならない税についての改革を行っていくようになります。
明治維新前の日本では税といえば田んぼから取れるお米を代官様に納めるというのが主流でしたが、これではもし凶作になった時に国の運営が成り立たなくなります。
そのため明治新政府は明治6年(1873年)に地租改正を実施。
この制度によってこれまでお米で治められていた税を土地の値段の3%のお金を納めるように変更。
どんなことがあっても一定な税が政府に入るようになり、安定した国の運営が可能になったのでした。
富国強兵と殖産興業の違いは?
富国強兵と似ている言葉に殖産興業と呼ばれるものがあります。
この一見同じように見えるこの二つですが、実は両者には決定的な違いがあったのです。
富国強兵というのは上にも書いた通り、『国を富ませて強い兵士を作ろう!そのためには日本に近代的な政策を取り入れていくべきだ!』のように日本の政治部分の改革を推し進めていったのが、富国強兵でした。
その一方で殖産興業とは『工場を建てて日本の産業を育成しよう!』というもので特に日本の経済や産業の育成を中心に行われていました。
ちなみに、殖産興業は富国強兵を推し進める一つの手段という面もあり、『富国強兵をするために殖産興業をやった』という認識が正しいのですよ。
教育勅語は悪影響?
富国強兵の政策の中に学制というものがありましたが、政府はこれから先日本人としての自覚を持っていくようにと教育勅語というものを発布しました。
勅語というものは簡単に言うと天皇が言ったこと。
つまり教育勅語は天皇が教育に関して発布したことだったというのです。
しかし、この教育勅語は後の太平洋戦争の敗戦によって『この教育勅語が原因で日本は戦争に突っ走っていったんだ!』ということで廃止。
教育勅語は軍国的な考えだったとして今に教えられています。
しかし、本来の教育勅語は『父と母を大切にしましょう』や『知識を身につけて日本の発展のために尽くしていきましょう』など意外に普通なもの。
教育勅語が全文良いとは私は思いませんが、そこまでして目くじら立てて排除しなくても良かったと思うのですがね。
富国強兵と文明開化の関係は?
富国強兵の時期と同じ時に日本で巻き起こったものに文明開花というものがあります。
文明開化というのは簡単に言えば日本が外国と交流するようになっていき、欧米の進んだ文化が日本で取り入れられていったことを指すのですが、この文明開化は富国強兵の賜物だったと私は思います。
つまりは国のトップである明治新政府が率先して外国の制度を導入していき、欧米列強の国に追いつこうとしたことによって、それが庶民にも普及して文明開化へとつながっていったと言うことです。
例えば文明開化の象徴的な出来事である廃刀令や断髪令は政府によって出された法律ですからね。
それではまとめに入りましょう
まとめ
まとめに入りたいと思います。
- 富国強兵とは明治新政府が日本の国力を上げようとして掲げたスローガンのこと
- 富国強兵は内務卿に就任した大久保利通が特に推進していった
- 富国強兵の三つの代表的な政策は税制・兵制・学制
- 富国強兵を行なったことによって日本は近代国家としての第一歩を踏み出すようになり、後の日清戦争や日露戦争の勝利にも繋がっていった
- 殖産興業とは富国強兵の政策の一つ
最後になりましたが、外国人は明治維新のことを奇跡のような出来事だと称賛しています。
その奇跡のような出来事の裏側には日本が掲げた富国強兵がしっかりといきたことにあると私は思います。