今回解説していくのは、大政奉還が行われてようやく新しい日本が生まれると思った矢先に起こった、坂本龍馬の暗殺事件である近江屋事件です!
この事件は土佐藩士を始め、沢山の攘夷志士達が衝撃を受けた事件なんですか、今回はそんな近江屋事件について
- 近江屋事件が起こった時の龍馬の様子
- 近江屋事件の場所
- 近江屋の今
- 坂本龍馬の墓について
- 近江屋事件の犯人ば誰なのか?
などなど詳しく解説していきます!
目次
近江屋事件とは?
近江屋事件とは1868年に京都の醤油屋であった近江屋で起こった坂本龍馬の暗殺事件のことです。
この事件によって坂本龍馬とその盟友であった中岡慎太郎が死亡。
岩倉具視や三条実美など倒幕派の公家達がその死を悼み、さらに薩長同盟を結び大政奉還を成し遂げた土佐藩の星を失ってしまった土佐藩士はこれ以降パッとした成果を上げることができなくなってしまいました。
場所と地図
事件が起こった近江屋は元々宿とかそんなものではなく単なる醤油屋でした。
しかし、坂本龍馬が重要視していたのがその近江屋があった場所で、この近江屋は坂本龍馬の出身地である土佐藩邸に近く、さらには近江屋自身も土佐藩御用達の醤油屋だったこともあり、坂本龍馬か宿泊するのはうってつけの場所だったのです。
さらに龍馬自身も自身がやった業績から命が狙われていることは重々承知であり、さらに寺田屋事件で襲われた教訓としてこの近江屋には土蔵を経由して京都の誓願寺に逃げれるルートも築いていたのでした。
しかし、この近江屋事件が起こる日に限って龍馬は風邪をひいてしまい、本来ならいくはずのない近江屋の二階に宿泊していたのです。
暗殺現場の状況
坂本龍馬が暗殺される直前。
日本では大政奉還が行われ幕府が崩壊し、龍馬が夢にまで見た新しい日本の夜明けがやってきたのでした。
そこで龍馬は宿泊していた近江屋にて中岡慎太郎と岡本健三郎を呼び出して今後の日本のあり方や将来のビジョンについて語り合っていました。
そんな時、龍馬は「腹が減った」と大好物であった軍鶏を買いに行かせようととある藩士に買いに行かせました。
そして夜になるとついに運命の時がやってきます。
軍鶏を買いに行かせてからしばらくして近江屋に十津川郷士と名乗る人が龍馬に会いたいと懇願します。
これを怪しいと察知した龍馬の付き人は対応しますが時すでに遅し。
付き人は背中を向いたところを斬られ、即死してしまいます。
そしてその喧騒は龍馬にも伝わり、 「ほたえな!」と叫んだところを犯行グループが襲撃。
龍馬の額を斬りつけてさらに龍馬が刀を取ろうとしたところを斬りつけて深傷を負わせます。
また、犯行グループは中岡慎太郎も襲撃。
両手両足を斬りつけて瀕死の重体となってしまいました。
間も無くして龍馬は慎太郎に対して「慎太郎、慎太郎。俺は脳をやられたからもうダメだ」と発言した後龍馬は死亡。
慎太郎も一時は容体が安定したものの、襲撃から2日後に亡くなってしまいました。
近江屋の現在は?
こうして暗殺された龍馬と慎太郎。
この暗殺の現場となった近江屋ですが、現在では近江屋が元々河原町通り付近にあったこともあり、その面影はほとんど見られません。
しかも、その近江屋の跡地には現在回転寿司チェーン店が営業しており、かつてのその殺伐感はほとんどなくなったと言ってもいいでしょうね。
しかし、今でも店の横には『坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地』という石碑が建っており今でもその雰囲気は醸し出されているのでした。
坂本龍馬は脳をやられた?
坂本龍馬は上にも書いた通り、刀を取ろうとした瞬間に犯行グループによって額を斬りつけられました。
でも「流石に額を斬りつけられただけで脳はやられないでしょ?」と思いの方もいると思いますが、これは大きな間違い。
日本刀というのは斬れ味がそこいらの世界の刀とは段違いであり、慎太郎人も背骨のほとんどを切断されていました。
そのため、犯行グループが額に斬りつけたその衝撃はふつうに頭蓋骨を貫通してもおかしくはなく、龍馬が脳をやられちょるというのも納得がいきますね。
坂本龍馬の遺体はどこに埋葬された?
坂本龍馬が暗殺されるとその遺体は京都市東山区にある霊山護国神社に倒幕派の志士らと共に埋葬されました。
ちなみに、彼の墓石にある言葉は薩長同盟において長州側の代表であった桂小五郎(木戸孝允)が揮毫しており、攘夷志士達からある程度尊敬されていたことがわかります。
ちなみに、龍馬は他にも故郷の高知靖国神社や東京の靖国神社にも墓があります。
中岡慎太郎の死因は?
近江屋事件において坂本龍馬は額を斬られてしまい即死だったそうですが、中岡慎太郎の場合は背中や両手両足を切断寸前まで斬られていたものの、一時は奇跡的に回復して近江屋事件の事細かな情報を同じく土佐藩士であった谷干城に説明するほどまでとなりました。
そんな彼ですが、やはり背中と両手両足を斬られた傷は重く、出血多量によって徐々に衰弱。
「早く倒幕の挙を実行しなければ、却って敵のために逆襲せられる。同志の奮起を望む」という新政府や攘夷志士達への最後の言葉を残し、慎太郎は近江屋事件から2日後に亡くなったのでした。
享年30歳。
坂本龍馬を襲った犯人や黒幕は?
坂本龍馬を襲った犯人はいろいろ検討がつくところがあるのでしが、今のところはまだ謎のまま。
しかし、土佐藩士はとある組織を犯人としてみていました。
その組織こそが当時京都のパトロールをしていた新選組だったのです。
確かに、新撰組からすれば龍馬は幕府転覆を狙っているテロリストであり、それを基にして考えると暗殺した犯人としてみてもおかしくありません。
そのため、土佐藩士は土佐藩の希望の星であった龍馬を暗殺したとされる新撰組を度がすぎるほど恨んでいたそうです。
その後新撰組の組長であった近藤勇が千葉県の流山付近で捕縛されるとほとんどの新政府側の人が謹慎処分にすべきと主張した中、土佐藩士であり龍馬に憧れていた谷干城という人は執拗に近藤勇の処刑を主張。
この意見を無理矢理押し通して、近藤勇は板橋にて打ち首に処されるという武士としては大変屈辱的な処罰を受けてしまったのでした。
しかし、上にも書いた通り今でも龍馬を暗殺した犯人は謎のまま。
新撰組が行なったという説もあれば、同じく京都の治安を守っていた京都見廻組が行なったという説もあり、さらに薩摩藩士が行なったという説があるほど多種多様な説が存在しているのです。
さてそろそろまとめに入ります。
まとめ
さてさてまとめに入りましょう。
- 近江屋事件とは1868年に起こった坂本龍馬の暗殺事件
- 近江屋は土佐藩邸にも近く、いざとなったら逃げることができる便利なとこであった
- 龍馬は襲撃の際刀を取ろうとしたが、額を斬られ絶命した
- 坂本龍馬の遺体は今は京都の霊前靖国神社に埋葬されている
- 坂本龍馬を暗殺した犯人は新撰組や京都見廻組、薩摩藩士が行なったという説もある
最後になりましたが、『日本を今一度洗濯し申し候』と新しい日本の建設の決意を固めていた龍馬の生涯はここで終わりを迎えてしまいましたが、龍馬のその思いは土佐藩士や明治新政府の人たちに受け継がれていき、そして明治維新という日本の近代化へと繋がっていったのでした。