今回解説していくのは朝鮮が開国するきっかけとなった江華島事件!
江華島事件によって朝鮮は日朝修好条規を結ばされることとなるのですが、今回はそんな江華島事件について
- そもそも江華島事件とは?
- 江華島事件が起こった場所
- 征韓論が起こってから江華島事件が起こるまで
- 日本が朝鮮に開国を迫った理由
- その後の影響
などについて解説していきたいと思います!
江華島事件とは?
江華島事件というのは1875年から日本が朝鮮の首都であるソウル近くの島である江華島近くで武力挑発を行なって起きた武力衝突のことです。
江華島事件が起こる前の朝鮮は日本と同じく鎖国状態となっていました。
外国人や外国勢力を排斥するいわゆる攘夷を行なっていたこともあり、日本との関係が悪くなってしまいいわゆる征韓論という考えが日本で巻き起こったりもしました。
この事件の結果、朝鮮と日本の間で日朝修好条規が結ばれて朝鮮は無理矢理開国させられてしまう結果となってしまいました。
場所
今回の事件の舞台となった江華島。
この事件が起こった理由の一つに首都に近いところに江華島があったことがあります。
江華島という島はソウル近くを流れる川である漢江の河口近くにある島です。
元々高麗の時代には宮廷も建っていた朝鮮の歴史にはゆかりのある土地でした。
しかも、その近くにある永宗島は今では韓国どころかやアジアの中心国際空港の一つとして数えられている仁川国際空港が建っています。
地図
江華島事件とは簡単に言えば地図を作るために起きた事件とも言ってもいいほど地図というものはこの江華島事件にとって重要なものの一つとなっていました。
日本はこの年に朝鮮の江華島近くの周辺で軍艦雲揚号を使ってなんと地図を作るための測量をしたんだとか。
地図を作ることならいいのではないの?とは思いますが、測量というのは敵に何処を攻めればいいのかということを分かりやすく書いているため国家のトップシークレット情報の一つでもあったのです。
シーボルト事件の理由だってシーボルトが伊能忠敬の地図を持ち帰ろうとしたから起こった出来事ですしね。
そのため地図を作ることはもちろん国として看過できないことだったのです。
さらに、その日本が測量した場所も首都ソウル近くの江華島だったこともあり、日本と朝鮮は武力衝突してしまう状況に突入してしまいます。
征韓論争から江華島事件が起こるまでの流れ
明治時代が成立して間もない1868年。
日本は各国に「これからは明治新政府が日本を動かしていくんでそこんところよろしく」という感じの手紙を各国に送り、近代的な国際関係を結ぶように頑張っていきました。
イギリスやアメリカをはじめアジアの国もその手紙に応じていたのですが、その中で当時朝鮮半島を統治していた李氏朝鮮はこの日本の手紙に難色をしめしていました。
日本のお隣の国である朝鮮なんですからいち早く関係を結びたいとは日本側は思っていたと思いますが、実はこの頃朝鮮ではかつて日本が行なっていた攘夷の真っ最中。
朝鮮からしたら「西洋かぶれの日本と付き合えるか!」みたいな感じで突っぱねた模様でなかなか関係を結ぶことができません。
日本からしたら朝鮮のこの行動は無礼極まります。
そんな時に日本で巻き起こったのが征韓論という考えでした。
征韓論というのは簡単にいえば「朝鮮を無理矢理開国させろ」という意見です。
ただ、これが当時日本がまだまだ近代化を目指していたという理由で大もめ。
結局、西郷隆盛や板垣退助など征韓論を主張していた政治家たちが辞めてしまう明治6年の政変が起こってしまいました。
これがのちの西南戦争や自由民権運動なんかに関わっていくのですが、日本は朝鮮に関わるよりも前にまずは日本の近代化を推し進めていく方針をとります。
そんな中1874年に台湾出兵を断行。
征韓論のはけ口を作ってなんとか朝鮮に目を向けさせないようにし、さらには朝鮮側でもクーデターによって大院君が失脚すると徐々に征韓論の動きは沈静化されていき、日本との交渉が再び行われ始めたのでした。
しかし、この交渉も朝鮮の攘夷派の意見が強かったために失敗。
この頃には士族の不満が溜まっていた頃でもあり、明治新政府は士族たちの不満をぶつけることや、朝鮮を開国させて貿易をしたりするために朝鮮に対してさまざまな挑発行為を行なっていくのでした。
当時日本はなぜ韓国に開国を迫ったのか?
日本が朝鮮に開国を求めた理由。
それは朝鮮を日本のような近代化な状態にさせてロシアに対抗するという考えがあったからだと言われています。
この当時、アジアにおいて近代化を推進していたのは清か日本のみでした。
しかもその清もうわべだけの改革だった模様で本格的な近代化という点であれば日本のみという状況だったんです。
この状況を見て日本は考えはじめます。
日本からしたら一番怖い敵は不凍港を求めて南へと攻め始めているロシアです。
朝鮮とロシアは少しだけですけど繋がっておりますので、攻めようとしたら普通に攻めれる立場にありました。
そこで日本は朝鮮をロシアの防壁もするために、そして日本の友好国とするためにかつて清の属国であった朝鮮を独立国扱いしてさらには日朝修好条規という条約を結んだのでした。
日朝修好条約では日本では釜山などの港の解放をはじめ、開港した地域の領事裁判権の認可・輸入品の関税の免除・朝鮮沿岸の地図作成権など。
特におぞましいのは地図作成権と輸入品の関税。
アメリカですらやらなかったことを日本は朝鮮に対して無理矢理締結させたのでした。
その後の影響
江華島事件が起こり日朝修好条規が結ばれた後、朝鮮は一応日本の立場上では独立国としてみてもらうことはできました。
しかし、この条約が原因でこれまで鎖国状態だった朝鮮は幕末の日本と同様ヨーロッパの国々とも条約を締結することを余儀なくされてしまい、日本と同じように開国するようになりました。
幕末の日本と同じような状況に陥った朝鮮ですが、その後大院君が失脚した後は閔妃という当時の国王の奥さんが権力を握るようになり、日本の援助を受けながら近代化を目指していくようになります。
しかし、攘夷派の大院君や家臣たちはそれを認めることはありませんでした。
こうして時代は江華島事件から壬午事変へと移り変わり、朝鮮は長年にわたる混乱状態へとなってしまったのでした。
さて、まとめに入りたいと思います。
まとめ
まとめに入りたいと思います。
- 江華島事件とは1875年に日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件のこと
- この事件の少し前、日本では朝鮮が日本と関係を結ばないとして征韓論という朝鮮に攻め入ろうという考えがあった
- 江華島事件は地図を作るために日本が測量していたことが一つの原因となって起こった事件でもあり、さらに江華島の場所も朝鮮の首都のソウルに近かった
- この事件によって日本と朝鮮の間で朝鮮がかなり不利である日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は開国することとなった
最後になりましたが、朝鮮はこの江華島事件によって混乱が始まり、そして最終的には35年後の1910年に韓国併合という形でついに日本の領土となってしまいます。
江華島事件はその最初の序章であった重要な事件でもあったのです。