今回ご紹介するのは、『徒然草』です。
作者の吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代という動乱の時期を生き抜いた人物です。
彼が困難な時代から見出したものとは、なんだったのでしょうか。
そして、現代を生きる我々へよ教訓とは!?
- 『徒然草』の成立と作者について。
- 『徒然草』のうち有名な段の内容について。
今回はこのような点について特に詳しく見ていきますので、ぜひご注目ください!
目次
徒然草とは?
『徒然草』は、吉田兼好が書いたとされる随筆です。
- 清少納言の『枕草子』
- 鴨長明の『方丈記』
と並んで、日本三大随筆のひとつとして評価される作品です。
成立については諸説があり、必ずしも兼好が全て編纂まで行なったわけではないようです。
室町幕府の九州探題という役職を務めていた今川貞世が、吉田兼好の没後に原稿を編纂した、と言われてきましたが、この説も疑わしく、はっきりしたことは分かってはいません。
序段を含めて244段から成るこの『徒然草』は、随筆として高い評価を受けていることはもちろん、同時代の事件や人物について知る歴史的史料としても価値があるのです。
次に、『徒然草』の作者について見ていきます。
作者
出家したことから兼好法師とも呼ばれる吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍しました。
当初は官人として宮中に仕えたほか、二条為世という人物に和歌を学んで、為世門下の「和歌四天王」のひとりに数えられるなど、さまざまな分野で活躍を見せていたようです。
前述の九州探題・今川貞世や、足利氏の執事であった高師直といった当時の著名人とも交流がありました。
神職の家柄であったことは分かっていますが、彼の生年や没年についてははっきりしていません。
次に、吉田兼好が生きた時代について見ていきます。
時代背景
兼好法師が生きた時代について見ていきましょう。
鎌倉時代末期は、北条氏嫡流である「得宗」の権力が絶大なものとなり、彼らの専制政治が行われる一方、地方武士の間で鎌倉幕府に対する不満が大きくなっていました。
後醍醐天皇が倒幕運動の先駆けとなり、これに
- 足利高氏(のち尊氏)
- 新田義貞
- 楠木正成
らが呼応して、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
その後は後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、離反した尊氏は室町幕府を作り別の天皇をたて、2人の天皇が並立した状態となります。
これが南北朝時代です。
兼好法師と関わりのあった今川貞世は、この時代に九州を平定した人物であり、尊氏に仕えた高師直と同じく北朝の武将でした。
この南北朝時代は、1392年の足利義満により南北朝の合一がなされるまで続きました。
次に、『徒然草』の書名の意味について見ていきます。
徒然草の意味
『徒然草』の書名の意味について見ていきます。
この「徒然(つれづれ)」という言葉は、作品の序文の書き出しである「つれづれなるまゝに」で使われています。
この言葉はやるべきことがなく、手持ち無沙汰なさま、を意味、しています。
作品と自分自身を謙遜しての言葉と言えます。
次の章からは、『徒然草』の特に有名な段について、その内容を見ていきます!
徒然草の内容とあらすじ
『徒然草』は、序段を含めて全部で244段から成っています。
今回は、このうち特に有名と言える7つの段について見ていくこととします。
有名な7つの段を現代語訳で解説
7つの段は、それぞれ現代語で解説していきます。
それでは、お楽しみください!
(第10段)家居のつきづきしく
第10段では、住まいについての筆者の考えが述べられています。
以下がその内容です。
住まいが、そこに住んでいる人に似つかわしく、好ましいことは良いことです。
身分の高い人がゆったりとくつろいでいる所は、月の光もより身に染みて感じられるようであり、木立がどことなく古い感じになっていたり、簀の子や隙間のある垣根の配置も趣深いものです。
古風で落ち着きがあるのはいいことですが、職人たちが作り上げた、中国や日本の珍しい道具が並べてある上に、草木まで人の手が加えられているのは興ざめです。
このような場所では長生きできるようには思えません。
住まいを見ることによって、そこに住む人の人柄は推察できるものです。
後徳大寺大臣が寝殿に鳶がとまらないように縄を張ったのですが、これを見た西行は鳶がとまっても不都合はないはずと考え、屋敷の殿の心の小ささを感じていました。
しかし後日、烏が群がって池にいる蛙をとり、悲しまれたことから、烏除けのために屋敷の棟に縄を引いたという話を聞き、素晴らしいと感じました。
後徳大寺大臣にも、どんな理由があったのでしょうか。
第10段の内容は以上となります。
次に、第11段について見ていきます。
(第11段)神無月のころ
神無月とは10月のことです。
以下内容です。
10月ごろに栗栖野というところを通り過ぎて、人を訪ねて分け入ることがあったのですが、もの悲しい状態にして住んでいる草庵がありました。
水がしたたり落ちる音以外には、音をたてるものがありません。
閼伽棚(仏に供える水などを載せる棚)に菊の花や紅葉が折って辺りに散らばせていることから、それでも住む人がいることが分かります。
そうやってしみじみと思っていると、たくさんの実がなっている大きなみかんの木があり、その周りが頑丈に囲ってあるのを見て、少し興ざめして、この木がなかったらなあと思いました。
以上が第11段の内容です。
次に、第51段の内容について見ていきます。
(第51段)亀山殿の御池に
早速内容を見ていきます。
御嵯峨天皇が亀山殿の池に大井川の水を引こうとして、住民に命じて水車を造らせました。
住民には多くの金銭を与え、彼らは数日かけてこしらえたのですが、いざ完成すると全く回りません。
あれこれ直してみたものの結局最後まで回ることはありませんでした。
そこで、天皇は水車で有名な宇治の里の人を呼んで水車を造らせたのですが、彼らはたやすく組み立てて献上し、その水車は見事に回りました。
全てのことにいえますが、その道を理解している人は尊いものですね。
以上が第51段の内容です。
次に、第92段の内容について見ていきます。
(第92段)ある人、弓射ることを習ふに
この段では、弓を射る練習から、ものごとの上達のために大切なことが述べられています。
以下内容です。
ある人が弓を射ることを習うのに、矢を2本はさんで持って的に向かいました。
これを見た師匠は、初心者は2本の矢を持って的に向かってはならないと言います。
これは、2本目をあてにして最初の矢をいい加減にする気持ちが生まれるためです。
毎回この1本で射抜いてやろうと心がけるのが大切なのです。
師匠の前で怠けようとは思わないでしょうが、怠けようとする心は自分では認識できていなくても、師匠は分かっているものなのです。
仏道修行をする人は、夕方には明日の朝があるだろう、朝には夕方があるだろうと思って、あとでもう一度丁寧に修行しようと思うことがあります。
彼らは、まして一瞬のうちに、怠けようという心が潜んでいることを認識することはないでしょう。
この一瞬において、やるべきことを直ちにすることは本当に難しいものです。
以上が第92段の内容です。
次に、第109段を見ていきます。
(第109段)高名の木登り
この段では、油断が禁物であるというエピソードが述べられます。
以下がその内容です。
木登りの名人と言われた男が、人を高い木に登らせて梢を切らせていました。
とても危なく見えるところでは何も言いませんでしたが、木を降りて軒の高さくらいになると、注意して降りるように声を掛けました。
私はこれを見て、これくらいの高さになれば飛び降りることもできるのに、どうしてそのように言うのかと問いかけました。
すると名人は、危ないところでは自分自身が恐れているから注意する必要はないとした上で、けがは安心できるようなところでするものだと言いました。
その名人の身分は低かったが、その言葉は聖人の教訓と合致しています。
蹴鞠においても、難しいところを上手く蹴ったあと、安心だと思うと必ず失敗するものなのです。
以上が第109段の内容です。
次は、第137段です。
(第137段)花は盛りに
以下が第137段の内容です。
桜の花は真っ盛りに咲いているものだけを、月は少しの曇りもないものだけを見るものではありません。
雨が降っている時に月を恋い慕い、家の中で春が過ぎていくのを知らないでいることは趣深い。
今にも咲きそうな桜の梢や、桜の花がしおれている庭なども見る価値がある。
花見に行ったけれどすでに散ってしまっていたという和歌や、都合が悪くて花見に行けなかったという和歌も、花を見て呼んだ歌に劣ることはありません。
無風流な人は、花が散ってしまうと見る価値がなくなると考えるようです。
花や月に限らず、なにごとも始めと終わりが特に趣深いものです。
恋愛に関しても、一途に会うことだけが恋なのではありません。
会わずに終わった辛さを感じたり、昔の恋人との思い出を懐かしんだりすることを、恋愛の趣を真に理解しているというのです。
満月が千里の果てまで光を照らしているのを見ているより、明け方近くに出てきた青みを帯びた月が、木々の間ごしに見える様子や雲に隠れている様子が趣深いものです。
葉っぱの上に月の光がきらめくのが身に染みて、こんな気持ちを分かってくれる友達と一緒に見られたらなあと思い、都が恋しくなります。
月や花は目だけで見るものではなく、満月なら布団にいながらでも想像できるものであり、それはそれで味わい深いものです。
風情を感じとる人は、ひたすらに面白がる様子を見せません。
それに対して田舎者は、すべてを面白がろうとするもので、すべてのものをそっと見守るということができないのです。
そうした人たちが祭の見物をする様子も、とても珍しいものです。
祭の行列がなかなか来ないと、奥の部屋で酒を飲むなどして遊びます。
桟敷(見物席)には人を残しておいて、行列が来た際にはものすごい勢いで桟敷に走っていきます。
互いに押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守り、行列が過ぎると、また桟敷を下りていきます。
その一方で都の人は、眠っているかのようで、祭りを見ていないかのようであり、行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとはしません。
賀茂祭は夜も明けきらないうちから車が忍んで寄せてきます。
祭はとても面白く、さまざまな人が行き交っていますが、日が暮れる頃には人も車もどこかへ去っていき、まもなく人も車もまばらになってきます。
そんな寂しげな様子を見て感慨にふけるものです。
祭は最後まで見てこそ「祭を見た」ということができるのでしょう。
祭を行き交う人たちの中には見知った顔ぶれがおり、無常を感じることになります。
都に人は多いですが、人が死なない日はないのです。
死は思いがけないときに訪れるもので、今日まで死を免れてきたことは不思議なことであり、そうするとこの世の中がのどかだとは思えません。
「継子立て(ままこだて)」とは、サイコロの出た目の数字のコマに置いてある石を取っていく遊びなのですか、どの石が取られるかは分からないことや、一度は取られるのを免れた石もいつかは必ず取られることから、人の死に似ています。
出陣した兵士は、死に近いのを知って、家も我が身のことも忘れるものです。
出家した人の草庵では、水石をもてあそんで、死を忘れようとしますが、とても儚いものです。
どこにいても死は現れるもので、どこにいようと死に臨むことは戦場にいるのと同じなのです。
以上が第137段の内容です。
比較的長いですね。
次に第150段の内容を見ていきます。
(第150段)能をつかんとする人
ものごとの才能に磨きをかけようとする人たちに向けた教訓とも言えるのがこの段です。
以下が内容です。
芸能を身につけようとする人は、上手くないうちは人に知られないように練習して、上手くなってから人前に出たらたいそう奥ゆかしいだろうなどと考えるものです。
しかし、このように言う人は一芸も身につくことはありません。
まったく何もできないころから上手い人たちに交じり、けなされたり笑われたりするのも恥じずに稽古する人が、たとえ天性の才能はなくても、そのままいい加減にしないで年を送れば、最終的には名人の境地に至ることができます。
天下のものの上手といっても、はじめはひどい欠点もありました。
しかし、その人がその道の規則や規律を守り、怠けなかったからこそ、いつしか世間に認められ、万人の師となることは、どのような道においても同じなのです。
以上が第150段の内容です。
次の章では、作者の吉田兼好についてもう一度見ていきます。
吉田兼好とは?
吉田兼好は1283年頃に生まれたとされ、1352年までは存命であったようです。
出家したことから兼好法師と呼ばれることも多いですが、彼の本名は卜部兼好(うらべかねよし/うらべのかねよし)といいます。
若いうちは官人として天皇に仕え、30歳前後に出家しました。
現在の神奈川県横浜市の上行寺の境内に庵があったと伝えられ、南北朝時代には現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住みました。
前述のように二条為世に和歌を学んでおり、今川貞世や高師直とも関わりがありました。
次に、吉田兼好が残した名言をご紹介します!
名言
それでは、吉田兼好の残した名言をいくつかご紹介します。
- 一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。
懈怠というのは、怠けること、おこたることをいいます。
その瞬間に真剣に立ち向かうことが大事だということですね。
- 勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
彼が双六の上手な人に尋ねた際の返答です。
勝とうとすると焦りが生まれて失敗しやすくなるが、負けなければいいと思うと心理的に余裕が生まれ、結果として勝つことができる、ということです。
- 大欲は無欲に似たり。
大きな欲を持った人は、目先の小さな利益にはこだわりません。
そのような人ははたから見れば無欲に見えるのです。
- 一日の命、万金よりも重し
第137段の後半の内容に通じるものがあります。
命の重さを述べています。
次の章では、吉田兼好の墓について見ていきます。
吉田兼好の墓
吉田兼好の墓は、岐阜県中津川市神坂にあるようです。
彼はこの地に庵をつくりますが、国守が家臣とともに狩りをする様子に失望し、この地を去ったと言われています。
ちなみに、吉田兼好の墓として伝えられるものは、京都市の長泉寺や、三重県伊賀市にもあります。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、『徒然草』について振り返ってみましょう。
『徒然草』は吉田兼好によって書かれた随筆であり、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とともに、日本三大随筆のひとつとなっています。
全244段から成るこの作品は、随筆としてだけでなく、同時代の歴史史料としても高い評価を受けています。
「徒然」は、序文に「つれづれなるまゝに」という形で使われており、やるべきことがなく、手持ち無沙汰なさまを意味します。
作者の吉田兼好は、本名は卜部兼好といい、出家したことから兼好法師とも呼ばれます。
はじめ官人として働き、のち出家しています。
二条為世に和歌を学び、今川貞世や高師直らとも関わりがありました。
生年と没年ははっきりしていません。
彼が生きた鎌倉時代末期から南北朝時代は、強大な権力を持っていた北条氏が反発を受けるようになってから、鎌倉幕府が後醍醐天皇らの活動により滅亡し、その後南朝と北朝に別々の天皇がいる時代にかけての、動乱の時期です。
有名な段の中では、第10段では住まいが住んでいる人に似つかわしいのは良いことだとしています。
第11段ではしみじみと感じいるような草庵を見つけたがみかんの木に囲いがしてあり興ざめしたとありました。
第51段はその道を理解している人は尊いと述べています。
第92段は、弓矢の練習から、怠けを戒めよという内容でした。
第109段では、木登りのエピソードから、失敗は自分が安心した時にこそする、とありました。
長い第137段では、月や花は盛りの時ばかりに風情があるわけではないということや、都の人と田舎者の行儀の違い、そして人は誰しも死を迎えるという無常が述べられていました。
第150段では、能力を身につけるには若いうちから上手な人に混じって稽古すべきという内容が述べられています。
吉田兼好の残した名言としては、「一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。」「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。」などがありましたね。
吉田兼好の墓として伝わっているものは、岐阜県中津川市や京都市、三重県伊賀市にあります。
『徒然草』には今回ご紹介したもののほかにも面白い段がいくつもありますので、ぜひ見てみてください!