今回解説していくのは崇徳上皇と後白河天皇の争いである保元の乱!
この内乱によって武士階級がどんどん躍進していくことになります。
今回はそんな保元の乱について
- 保元の乱とはどんな内乱だったのか?
- 乱が起こった原因である跡継ぎ騒動について
- 保元の乱の始まりと顛末
- 保元の乱と平治の乱の違いと戦った人の覚え方
などなど保元の乱の謎について迫ろうと思います!
保元の乱とは?わかりやすく解説!
保元の乱とは1156年に崇徳上皇と後白河天皇の間で起こった内乱のことです。
この保元の乱は天皇家はもちろん、藤原摂関家、平氏、源氏がそれぞれ親戚で分裂して戦うという悲惨な戦争となりました。
勝利した後白河天皇は院政をするようになり、平氏は平清盛が、源氏はば源義朝がそれぞれ武士団のリーダーとなり出世したのでした。
原因と結果
保元の乱を簡単に言えば天皇と藤原摂関家の跡継ぎ争いが一緒のタイミングで起こったことで引き起こされた内乱だと言えると思います。
1156年に当時院政を行っていた鳥羽上皇が亡くなると平安京では当時鳥羽上皇に嫌われていた崇徳上皇が左大臣藤原頼長とタッグを組んでクーデターを起こそうとしているという噂が流れ始めました。
もちろんこの噂は根も葉もない嘘なんですが、これを使って崇徳上皇のライバルであった後白河天皇サイドの有力な人物藤原信西は検非違使と呼ばれる今で言うところの警察みたいな組織を使って崇徳上皇側に圧力をかけにいきます。
そして7月8日、後白河天皇は攻勢に出て藤原頼長は後白河天皇に謀反を起こそうと軍を起こしているという情報を流して、頼長を失脚に追い込みます。
こうなるとどうしようもない藤原頼長は本当に軍を集め始め崇徳上皇とタッグを組んで後白河天皇と対峙体制に入ります。
そして崇徳上皇サイドは白河北殿でこもり始め、保元の乱が起こりました。
しかし、崇徳上皇サイドは後白河天皇サイドの軍勢と比較すると圧倒的に少数。
さらに、戦というものをわからない藤原頼長は崇徳上皇側についた当時の源氏の棟梁の弟である源為朝が夜襲をする提案を突っぱねて無視。
こんな状態で勝てるはずもなく、勝負はあっさりと後白河天皇サイドの勝利で終わりました。
その後、崇徳上皇は捕まり讃岐で配流。
藤原頼長は興福寺に逃げようとした時に亡くなってしまい、崇徳上皇側についた武士たちは全員斬首となってしまいました。
この当時形骸化していた死刑を復活させることはその後の日本が大きく変わる前触れとなったように、その後時代は平治の乱に移ることになるのでした。
兵力
保元の乱における兵力は
- 崇徳上皇側200騎
- 後白河天皇側1100騎
となっていました。
(騎というのは馬に乗っている武士の単位のことで、その下には歩いている兵士ももちろんいます。
一騎大体5人ぐらいが連れ添っていたため、崇徳上皇側約1000人、後白河天皇側5500人となるということでしょうね)
これだけ見れば、後白河天皇の圧倒的優勢なんですが、しかし、崇徳上皇側には藤原頼長が頼っていた興福寺の僧兵1000騎が後ろで準備を行っていたのです。
そのため、後白河天皇側はこの興福寺の兵力が来ないうちに夜襲を行うことによって早期決着を目指そうとしたのでした。
相関図
保元の乱では天皇家・藤原摂関家それぞれが激しい対立が起こっていました。
まずは天皇家ですが、この時代は院政といって治天の君と呼ばれた上皇が天皇の代わりに政治を行うというシステムが確立されていました。
そのため、例え天皇になったとしても単なるお神輿的ポジションにしか治らないというかわいそうな事例が起こることになるのですが、そのパターンに見事当てはまってしまったのが崇徳天皇だったのです。
崇徳天皇は当時院政を行っていた鳥羽上皇とすごく仲が悪く、崇徳天皇に対して激しく退位を要求して、そのかわり上皇が溺愛していた近衛天皇を新しく天皇として擁立します。
こうして近衛天皇の役割は終わったかと思いきや、再びチャンスが巡ってきます。
近衛天皇は病弱であったため1155年に死去。
その翌年には鳥羽上皇も無くなってしまったのです。
これはチャンスと見た崇徳上皇は自分の息子を天皇に擁立しようと躍起になるのですが、結局次の天皇となったのは崇徳上皇の弟である雅仁親王、いわゆる後白河天皇でした。
院政というのは自分の息子や孫に天皇を継がせなきゃいけないため、弟が即位した瞬間に崇徳上皇が院政を行うという計画はおじゃんとなってしまいます。
こうして、崇徳上皇と弟の後白河天皇は対立してしまうことになってしまいました。
一方の、藤原摂関家では藤原忠実が藤原長者を左大臣であった藤原頼長に渡すことを反発した藤原忠通が父から勘当宣言を受けてしまいます。
そのため藤原頼長と藤原忠通の間で跡継ぎ騒動が勃発。
この天皇家と藤原摂関家の争いが保元の乱を起こしたのでした。
場所
保元の乱は主に白川北殿で戦闘が行われました。
白川北殿は院政で有名である白河天皇が院政を行うために建てた屋敷で崇徳上皇サイドはここにこもっていたのです。
崇徳上皇は敗北を確信した後、仁和寺に逃げるのですが、この仁和寺に逃げる途中で捕まりました。
保元の乱の覚え方
保元の乱は戦った人などがごちゃごちゃしていてわかりづらいですよね?
そんな保元の乱の参加武将について一番覚えやすいのが、「ゴジラ(後白河天皇)が西(藤原信西)の道(藤原忠通)ととも(源義朝)にぜいぜい(平清盛)歩き、ずっと(崇徳上皇)長い(藤原頼長)溜池(源為義)にとどまった」です。
ここら辺は本当に同じ一族で争うことが多いので、しっかりと覚えておきましょう。
保元の乱と平治の乱の違いは?
保元の乱と平治の乱。
それぞれほとんど同じ時期に起こり、そして同じく武士階級の台頭を許してしまうことになる重要な内乱であったため、この二つの内乱はごっちゃにしてしまう人も多くいると思います。
しかし、保元の乱という内乱は朝廷・藤原摂関家の争いだったのに対して、平治の乱は源氏と平氏の武家同士の争いという重要な特徴がありました。
また、平治の乱が起こった理由も保元の乱が終わった後に藤原信西という人が平氏を優遇しすぎたことに対して源氏が反発したことで起こった内乱でもあったため、これを踏まえて考えると自然的に保元の乱は平治の乱よりも前に起こったことがわかりますよね?
このように歴史の事件を思い出す時は、どうしてその内乱が起こったのかということを考えると思い出す可能性があります。
ただ単語を覚えるだけではなく、その近くの事象についてもしっかり抑えておきましょう。
それではまとめに入りたいと思います。
まとめ
さて、まとめです!
- 保元の乱とは1156年に起こった後白河天皇と崇徳上皇の間に起こった内乱のこと
- 保元の乱の裏には天皇家や藤原摂関家の争いがあった
- 保元の乱は白河北殿で行われたがあっさりと終わり、この結果崇徳上皇は讃岐に配流され、崇徳上皇側の人物はほとんど処罰された
- 保元の乱の後信西が台頭して保元の乱に繋がっていった
最後になりましたが、この保元の乱によって武士の力がどんどん強大となっていき、のちに続く鎌倉幕府へと繋がっていくことになります。
保元の乱とは武士階級の権力を決定づける歴史的な事件だったのですね。