今回ご紹介するのは、清少納言です。
平安時代を代表する文学作品『枕草子』を書いた彼女は、どのような人生を送ったのでしょうか。
また、同時期に活躍した紫式部とは仲が悪かったとも言われていますが、はたしてその真相とは!?
- 清少納言の生涯について
- 『枕草子』の内容について
- 清少納言と紫式部の関係について
今回はこのような点について特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
目次
清少納言とは?
清少納言は、平安時代中期の女流作家にして歌人として活躍した人物です。
彼女の書いた随筆である『枕草子』は、当時を代表する文学作品として有名です。
「清」は父親の姓である清原から来ており、「少納言」は職名から来ています
(彼女の近い親族の内少納言を務めた者はいないため、なぜ「少納言」の名を有しているのかは謎です)。
そのため、発音する時は「せい・しょうなごん」のように区切るのが良いでしょう。
次に、清少納言に関連した年表、および家系図に触れていきます。
年表
年 | できごと |
---|---|
966年頃 | 誕生 |
970~978年 | 紫式部誕生 |
974年 | 父に従い京を離れる |
981年頃 | 橘則光と結婚 翌年則長を生む |
993年頃 | 中宮定子に仕え始める |
1000年 | 中宮定子亡くなる 宮仕えを辞める |
1001年 | 『枕草子』ほぼ完成か |
1006年頃 | 紫式部 中宮彰子に仕え始める |
1025年頃 | 死去 |
清少納言をとりまく家系図
清少納言の父親も著名な歌人であり、名を清原元輔といいました。
また曾祖父(祖父の説もある)に、こちらも『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父がいます。
このような歌人の名家ともいえる環境で、清少納言は育ったのですね。
以下の図も参考にしてみてください。
清少納言関連家系図
次の章では、清少納言の生い立ちや性格について見ていきます。
性格と生い立ち
清少納言は966年頃に生まれました。
974年に父・清原元輔が周防守に赴任すると、清少納言も同行し、以後4年間を京から離れた場所で過ごすこととなります。
この地にいたことが、彼女の京への想いを強くしたようです。
最初の夫となる橘則光と結婚したのが981年頃です。
しかし、則光とは反りが合わず、のちに藤原棟世と再婚しています。
993年頃から、一条天皇の皇后である中宮定子に仕えます。
1000年に中宮定子が出産で亡くなるまで、清少納言は宮仕えをしており、それまでの宮廷での生活は『枕草子』に描かれています。
清少納言は博学であり、ほかの公卿たちとの機知に富んだやりとりをしていたようで、中宮定子の恩寵も受けていました。
このように彼女の性格は溌剌としたものだったようですが、紫式部にはこのことをよくは思っていなかったようです。
両者の関係はのちの章でもう一度見ていきます。
宮仕えを辞めた後の清少納言の詳細な暮らしぶりは分かっていません。
夫の棟世の任国である摂津に下り、その後亡き父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住んでいたようです。
紫式部が彼女を酷評したことも相まって、鎌倉時代頃から、清少納言は宮仕えを辞めた後落ちぶれたとする説が出るようになりましたが、その真相も定かではないのです。
没年は不明ですが、1025年頃とされています。
次に、清少納言の本名について解説します。
本名
清少納言の本名は、現在も判明していません。
「清原諾子(きよはらのなぎこ)」であったという説もありますが、確たる証拠は残っていないのです。
現在私たちが「名前」と読んでいるのは、本名、すなわち「諱(いみな)」です。
「諱」とは「忌み名」、すなわち公にすることが憚られるものだったので、当時の人々は役職名などを代わりに用いたのです。
それが、清少納言の本名を知るための手がかりを少なくしている要因のひとつなのです。
次の章では、清少納言の夫について見ていこうと思います。
夫は?
清少納言は981年頃、陸奥守であった橘則光と結婚し、その後則長を生みます。
しかし、則光は無骨な人物であったようで、この夫婦は反りが合わなくなり、やがて離婚してしまいました。
ただ、両者はその後も交流していたようです。
則光に関しては、盗賊に襲われた際に逆にその盗賊を取り押さえたというエピソードが残っていますが、『枕草子』ではやや気弱に描かれています。
清少納言はその後、摂津守を務めていた藤原棟世と再婚し、小馬命婦という娘を生みました。
次に、清少納言が仕えた人物と両者の関係について見ていきます。
藤原定子に仕える
藤原定子は一条天皇の皇后であり、清少納言は彼女に長らく仕えました。
藤原定子は「中宮」を号し、「中宮定子」の名でも知られています。
清少納言は定子のことをとても尊敬していたようで、定子もまた博学で才気のあふれ出た清少納言を寵愛していたようです。
『枕草子』においても、清少納言の定子に対する尊敬の念が表れた記述が多く見受けられるのです。
次の章では、清少納言の残した作品である『枕草子』について見ていきます。
清少納言の作品
清少納言の代表作といえば、『枕草子』です。
平安時代を代表するこの作品について、次の章で見ていきましょう。
また、『清少納言集』という歌集がありますが、これは清少納言本人の作ではなく、後世の人の手によって平安時代後期から鎌倉時代中期頃に成立したようです。
枕草子
『枕草子』を傑作たらしめている要因に、清少納言のセンスと鋭い観察眼があります。
『源氏物語』は心情的な面が強調されており、「もののあはれ」の文学と言われますが、これに対し『枕草子』は知性的な「をかし」の文学と言われます。
「春はあけぼの」から始まる第一段は、『枕草子』の中でも有名な部分でしょう。
この第一段では、季節ごとにどの時間帯や風物に風情があるかが示されています。
春はあけぼの(夜が明け始めるころ)が良いとし、山ぎわが少し明るくなって、紫色を帯びた雲が細くたなびいているのが良いとしています。
また、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)が良いとも述べています。
この『枕草子』の内容は、次の3つに分類できるとされています。
- 標題を掲げ、それにふさわしい対象を清少納言の好みや考えで集めた「類聚章段」
- 日常生活や自然が観察されている「随想章段」
- 中宮定子周辺の宮廷での生活を振り返った「回想章段」
です。『枕草子』は簡潔で短い文も多いため、平安時代の文章のなかでも読みやすいとされています。
ぜひ原文を味わってみてください!
次に、清少納言が残した名言について見ていきます!
清少納言の名言
それでは、清少納言の名言をいくつかご紹介していきます。
「ただ過ぎ過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。」
これは、どんどん過ぎ去っていくものとして、追い風に対して帆を張った舟、年齢、春夏秋冬が挙げられることを述べています。
「にくきもの、急ぐことある折りに来て長言する客人。」
自分に急用がある時に長話をしていく客が不愉快だ、と述べています。
現代人にも親しみやすい体験ですね。
「よろづのことよりも、情けあるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。」
これは、男も女も、情があることが何よりも素晴らしいということを述べています。
次の章では、現代における清少納言の評価について見ていきます。
現代における清少納言の評価
清少納言および枕草子に対して、現在どのような評価がされているのでしょうか。
さすがに平安時代を代表する作家・作品なだけあって、現代でも「高評価」されることが多いです。
- 清少納言が人間存在や自然を深く愛していたこと
- 作中でも自由な表現が繰り出されること
これらが、現代でも高く評価されている所以です。
ただ、『枕草子』中で身分の高い人物への敬語表現がなく、そのことが批判的に捉えられることもあります。
次に、百人一首に選ばれた清少納言の和歌をご紹介します!
百人一首に選ばれた和歌
百人一首の62番歌に、清少納言の和歌があります。
- 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるともよに逢坂の 関はゆるさじ」
この現代語訳は、「 夜の明けないうちに、鶏の鳴き声を真似て夜明けたとだまそうとしても、(あの中国の函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にある) この逢坂(おおさか)の関は、決して開くことはありません。(百人一首の風景より)」となります。
中国の国境にあった関所である函谷関は、一番鶏の鳴き声を合図として門を開けていました。
そのことを受けて敵はこの鳴きまねをして門を開かせました。
歌での「逢坂」には「行き交うこと」という意味が含まれていることから、逢坂の関が函谷関のように開かないということは、会いに来ることが許されない、ということを示しているのです。
次の章では、清少納言と紫式部の関係性に迫ります!
清少納言と紫式部は仲が悪い?
清少納言と『源氏物語』の作者である紫式部とは仲が悪かった、としばしば言われます。
二人とも「平安時代を代表する作品を書いた女流作家」であり、先の章でも触れたような作風の違いから、このような風潮が広まったのでしょう。
しかし、実際の関係は私たちが抱いているイメージとは違うのです!
そもそも、清少納言が宮仕えを退いてからずっと後に、紫式部が中宮彰子(皇后)に出仕しており、両者には面識すらないと言われています!
紫式部は著書『紫式部日記』において、清少納言の人間性や功績を否定しているのですが、清少納言は紫式部について何も語っていないことからも、この説は支持を集めているのです。
次に、紫式部と同時代人である和泉式部と清少納言の関係について見ていきます。
和泉式部と清少納言の関係
清少納言や紫式部の同時代人としてもう一人挙げられる有名な女性が、和泉式部です。
彼女も百人一首に歌を残しており、紫式部が仕えた中宮彰子に女房として出仕しています。
つまり、清少納言と和泉式部もまた、宮仕えをしていた時期が異なっており、宮中ではあまり関わりはなかったと言われています。
ただ、両者は晩年に交流があり、和歌を贈り合っていたようです。
清少納言が老いていくことを嘆く歌を詠み、和泉式部がこれに同情する内容の歌を返しているなど、両者は仲が良かったものと思われます。
まとめ
いかがでしょうか。
それではおさらいを兼ねて、清少納言について振り返ってみましょう。
清少納言は、清原元輔の娘として966年頃誕生しました。
「清少納言」は本名ではありませんが、記録に残っていないこともあり、彼女の本名は謎のままです。
981年頃に橘則光と結婚しますがやがて離婚し、その後藤原棟世と再婚しています。
993年頃から、彼女は一条天皇の皇后である中宮定子に仕え始めます。
清少納言は博学で機知に富んでおり、中宮定子は彼女を寵愛しており、彼女もまた中宮定子を尊敬していました。
1000年に中宮定子が亡くなると清少納言は宮仕えを辞めるのですが、その後の消息は明らかにされていません。
清少納言の著作である『枕草子』には彼女のセンスと鋭い観察眼が表れており、現代でも高い評価を受けています。
「春はあけぼの」から始まる第一段は特に有名であり、全体的にも現代人が比較的読みやすいものとなっています。
彼女の残した名言としては、「よろづのことよりも、情けあるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。」などがありましたね。
また、清少納言の和歌は百人一首にも選ばれており、それが「夜をこめて 鳥のそらねは はかるともよに逢坂の 関はゆるさじ」という歌です。
清少納言と紫式部は仲が悪かったという説がありますが、時期からして両者は面識がないと思われるため、この説は事実ではないようです。
また、清少納言と和泉式部は宮仕えをしていた時期は異なるものの、和歌をやりとりするなど、交流はしていたようです。
平安時代の文学も、現代に通じる内容が多く盛り込まれているので、ぜひいろいろな作品に触れてみてください!