今回ご紹介するのは、王政復古の大号令です。
開国から15年ほど経ち、ついに政治の主導権は徳川幕府から離れました。
しかし、依然として徳川家は力を維持しており、新政府は基盤を整えきれずにいました。
そこで行われたのが、王政復古の大号令です。
- 王政復古の大号令は、誰が何の目的で行ったのか。
- 大政奉還との違いはなんなのか。
- そののちに出された五箇条の御誓文とは、どんなものであったのか
といったところに特にご注目ください!
また、今回は政復古の大号令だけでなく、それと近い時期に起きた重要な出来事もピックアップしているので、ぜひあわせて見てみてください!
目次
王政復古の大号令とは?
王政復古の大号令とは、幕府の廃止と新政府の樹立を宣言したものです。
これは当時の長州藩と薩摩藩が合同で取り決めたものであり、これにより天皇のもとで有力な藩が共同で政治を執り行うこととなります。
この時、朝廷での摂政や関白は廃止され、新たに総裁・議定・参与の三職が置かれました。
次の章では、この王政復古の大号令を主導した人物について見ていきます!
誰が行った?
この王政復古の大号令を主導したのは、岩倉具視です。
江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜により、1867年に大政奉還が行われますが、そののちも朝廷は慶喜の言いなりのような状態になっていました。
慶喜が依然として所領を保持していたことも、かれの影響力を維持させていた要因です。
このままでは新しい政治体制になっても、慶喜が再び主導権を握ることになるだろう、と岩倉は考えたのです。
そこで岩倉は、大久保利通や後藤象二郎、ほか公家数名と共に、慶喜に官位と領地の返上をさせる計画を打ち立てるに至るのです。
次に、この王政復古の大号令の目的について見ていきます。
目的
この宣言の目的は、天皇親政の名のもとに一部の公家や雄藩の有力者が主導できる体制を作ることでした。
そのために、慶喜を政治の中枢から遠ざけつつ、かつ五摂家を頂点とした朝廷の公家社会をも解体することとなったのです。
次の章では、王政復古の大号令と大政奉還の違いについて見ていきます!
王政復古の大号令と大政奉還の違いは?
大政奉還は、徳川慶喜が政権を明治天皇に返上した出来事です。
政権こそ返上されましたが、この時点では慶喜はまだ征夷大将軍でした。
つまり、慶喜は依然として諸藩への軍事指揮権を持っていたのであり、政治的主導権を握っていたのです。
その後の王政復古の大号令により、こうした慶喜の実質的権力がようやく奪われたのです。
大政奉還の目的は、徳川家を中心とした議会制度を有する公議政体体制を築くことでしたが、それが始まる前に王政復古が行われたというわけです。
次に、王政復古の大号令から3ヶ月後に出された、五箇条の御誓文について見ていきます!
五箇条の御誓文とは?
五箇条の御誓文は、明治天皇により公卿や諸侯などに示された、明治政府の基本方針です。
明治新政府は、大政奉還後から国のスローガンのようなものを模索していて、その折に作成されたのが、この御誓文です。
この御誓文は一朝一夕に仕上がったものではなく、それなりの時間と人員を割いていました。
はじめに原案を書き上げたのが、参与の由利公正という人物で、それを福岡孝弟が修正しました。
福岡の修正事項が、封建制への後戻りのニュアンスを持っていたため、そのあとさらに参与の木戸孝允が加筆し、最終的に岩倉具視のもとに渡ったのです。
五箇条の御誓文が出されたのは1868年の4月ですが、由利公正が原案を書いたのは、なんとその3か月も前なのです!
一文字一句にとてもこだわったという跡が見受けられますね。
これだけしっかりと推敲されたため、この御誓文は長く影響を持っており、第二次世界大戦後の昭和天皇による「人間宣言」にも引用されているんですよ!
次に、五箇条の御誓文の内容を見ていきましょう。
内容
これは、明治天皇が天地神明に誓約する形で出されたものであり、その内容は次のようなものです。
- 広く会議を開き、全ての政治は世論に従って決定すべきである。
- 為政者と人民が心を一つにして、盛んに統治の政策を行うべきである。
- 公家と武家が一体となり、庶民にいたるまで、志を遂げて、人々の心を飽きさせないことが必要である。
- 古い悪習を改め、国際法に基づくべきである。
- 知識を世界に求めて、天皇政治の基礎を盛んにするべきである。
次の章では、御誓文の目的について見ていきます!
目的は?
当時日本国内は、政治体制の移行期にあってとても混乱していました。
この御誓文は、明治新政府の基本方針を盤石とする目的があったのです。
ただ単に誰かが書き上げたものを発表したのではなく、「天皇が神に誓う」という形で示したことで、とても強い影響力を持たせようとした、とも言えるかもしれません。
次の章では、御誓文の翌日に出された五榜の掲示とはなんなのか、について見ていきます!
五箇条の御誓文を出した翌日に国民に示したものは
五箇条の御誓文が出された次の日、太政官により五榜の掲示が国民に示されます。
これは明治政府から民衆へ向けて出された最初の禁止令なのですが、五箇条の御誓文とは大きく異なるものです。
まず、御誓文は前の章で述べたように、天皇から全国民に向けて出された「詔勅」(天皇が公に意思を表示する文書のこと)であるのに対して、五榜の掲示は新政府による暫定的な取り決めを表したものでしかありませんでした。
しかも、当時新政府の支配下にあった地域にしか掲げられていなかったのです。
またこのあと述べますが、幕府の禁止令を踏襲した箇所も多く、そこにはキリスト教の禁止などもあったので、諸外国からの批判も大きかったようです。
そうした理由のためか、五榜の掲示は6年足らずのうちにすべてなくなってしまいました。
「五榜」とは、異なる内容の5つの札を表しています。
第一札から第三札は、それぞれ忠孝や憐れみの推奨、強訴などの禁止、キリスト教などの禁止であり、江戸幕府の統制を引き継いでいます。
第四札では万国公法の履行などを、第五札では脱籍浮浪化の禁止を表しており、これらは新政府独自のものでした。
まとめ
それでは、王政復古の大号令とそれに前後して起きた出来事について振り返ってみましょう。
まず、王政復古の大号令により、幕府の廃止と三職の設置が決められました。
これにより摂政や関白は廃止され、かわりに三職が置かれます。
これを主導したのは岩倉具視であり、彼は大政奉還後も征夷大将軍として実質的権力を持っていた徳川慶喜の官位および所領の返還を目指していました。
また、王政復古の大号令により公家社会は解体することとなりましたが、これは大政奉還の際にはなされなかったことです。
王政復古の大号令から約3か月後、五箇条の御誓文が出され、明治新政府の基本方針が示されます。
これは明治天皇が天地神明に誓うという形で出されたものであり、のちの時代まで影響力を持っていました。
御誓文の翌日には五榜の掲示が出されますが、これは新政府による間に合わせのようなものであり、諸外国からの批判も浴びたことから数年で取り払われてしまいましたね。
明治初期は政治体制が変わりやすく紛らわしい時期ですので、注意してみてください!