江戸幕府最後の将軍徳川慶喜によって、出された大政奉還。
これにより、260年続いてきた江戸幕府、そして源義家以降800年続いてきた武士の時代が終わりを告げます。
同時にこれは、身分をなるべく徹底的に固定化して社会の秩序を守ろうとした封建社会の終わりでもありました。
- なぜ、このような出来事が起きるに至ったか!?
- 大政奉還の本当の目的は!?
- 考案者は本当に坂本龍馬がなのか!?
一つ一つ詳しく解説していきたいと思います!
目次
大政奉還とは ?簡単に解説!
1867年11月9日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政(たいせい)、つまり政権を朝廷に返すと宣言した出来事であります。
折の長州征伐の失敗で幕府の力のなさを痛感した慶喜は、いったん正式に天皇に政権を返上するということで、尊王攘夷志士の不満を鎮めようとしました。
名目上は徳川家の独裁ではなく、天皇をトップとする形で幕府と諸藩が対等な関係で話し合いをしながら国内政治と外交を治めようとするものでした。
しかし『沈毅(ちんき。落ち着いていて中身がしっかりしている)』あるいは聡明と言われていた慶喜は、朝廷には世の中を統治する力、つまり政権担当能力がないことは、800年の武士の時代の歴史から見抜いていました。
さながら鎌倉時代の北条氏のように、天皇を飾り物のトップとして、引き続き自分は実質的政治を行おうとしていたようです。
ところが、それより前の、幕府との対話で話が通じないことを実感していた薩摩はこれに反発。
他の藩とも結束して外国に対抗していくためには、260年の太平の世で胡坐をかいていた旧幕府勢力ら古い体制を一掃する必要があると考えていたためでした。
後で詳しく話す王政復古の大号令によって旧幕府勢力を名実ともに排除するデモンストレーションを行い、不満が爆発した旧幕府軍は、ついに薩摩藩らと武力衝突せざるを得ないと判断。
戊辰戦争を起こすのです。
次に、その年号について見ていきます。
年号
当時は太陽の動きではなく、月の満ち欠けで暦を図る『太陰暦(たいいんれき)』を使っていたのですが、太陰暦では慶応3年10月14日。
現代の暦時法にあてると1867年11月9日。
次に、大政奉還に至った理由と経緯を見ていきます。
大政奉還に至った理由と経緯
元々701年に天皇をトップとして世の中を治めていく『律令制』は平安時代には事実上なくなっていたのですが、名目上はまだ残っているとされたまま鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府とできていました。
しかし天皇と周りの公家だけでは政権担当能力がないので、天皇名義で『征夷大将軍』という位を幕府のトップに渡すことで、幕府を中心に世の中を治めていくことが認められたと同時に、朝廷も生活を保障できるようになっていました。
ところが幕末、財政難から幕府の力が弱まってきたことや、ペリー来航以来異人嫌いの天皇と、外国の武力からなし崩し的に開国せざるを得なくなった幕府との意見がどんどん離れていったこともあって、朝廷と幕府の力関係が逆転していきます。
さらには、水戸学を学んだ諸藩の尊王攘夷志士たちが、幕府ではなく天皇に仕えるのが大事だということから次々と天皇名義で戦を起こしていきます。
特に長州が尊王攘夷の急先鋒でしたが、いったん幕府は薩摩と協力してその勢力をそぎ、さらに孝明天皇に朝敵(ちょうてき。朝廷に歯向かう悪者)の汚名を着せて長州を征伐します。
しかし、かねてから徳川家の立場しか考えていなかった幕府に愛想をつかしていた薩摩が、坂本龍馬の仲介で秘かに長州と同盟を結びます。
薩摩の援助を受けた長州は、圧倒的な数を持つ幕府軍を撃退することに成功。
さらに大政奉還の前の年に、14代将軍徳川家茂がわずか21歳で亡くなります。
その上、家康の子孫である会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)と親しかった孝明天皇(こうめいてんのう)も亡くなっており、将軍と親幕府派の天皇を相次いで失った幕府はさらに侮られていきました。
後を継いだ明治天皇(めいじてんのう)はまだ幼く、政治をするにはまだ未熟です。
その一方、尊王討幕派の岩倉具視、三条実美といった面々は老獪な政治的駆け引きの名手で、なんとか彼らの力をそぐ必要がありました。
そこで徳川慶喜は、尊王攘夷の下、自分たち幕府を滅ぼそうとする人間の不満をそらすために、大政奉還を行います。
ここに260年続いた江戸幕府は滅亡するのですが、天皇や公家に政権担当能力がないということを見抜き、また、1867年5月に行った四侯会議(しこうかいぎ)で、薩摩、土佐等の雄藩をねじ伏せることに成功している慶喜は、名目上は幕府を閉じて天皇を政治のトップに据えながら、引き続き自身の政治力で日本を動かそうと考えていたのです。
『シャッポと担ぐ神輿は軽くてパーがいい』とは90年代の政治家の言葉ですが、慶喜もそれと同じで、鎌倉時代に天皇の一族をお飾りの将軍にし、自分は執権として下にいながら実権を握った北条氏のように、天皇を飾り物にして自分が実権を持とうとしたわけです。
しかし、四侯会議以降、薩摩が慶喜率いる幕府に対して強い不満を持っていたこと、薩摩が討幕派の岩倉具視を使って、討幕の密勅(みっちょく)、および武力を使った王政復古(おうせいふっこ)の大号令を出すことまでは計算に入れてませんでした。
ここから王政復古の大号令が出されるのですが、それについてみていきます。
大政奉還から王政復古の大号令へ
討幕と旧体制一掃の大義名分を失った薩摩藩と長州藩ですが、大政奉還と同じ日にここに助けが入ります。
岩倉具視が極秘で『討幕の密勅(とうばくのみっちょく)』というのを出してきたのです。
密勅(みっちょく)とは、『天皇政権ナンバー2の関白の署名がないまま、天皇名義で出される命令』のこと。
これには天皇の許可や日付の署名がないという異例のもので、じつは討幕派の岩倉が作ったとされる偽物という見方が強いものでした。
もともと明治天皇の関白は慶喜のいとこであった二条斉敬(にじょうなりゆき)が、摂政(せっしょう。天皇が幼い時や病気の時に天皇に代わって政治をする役職。)もかねてついており、関白も幕府派でした。
薩摩藩などの討幕派は、旧幕府勢力が温存されたまま新政権ができることを恐れ、大政奉還直後からひそかに、土佐藩等5藩を集めて兵を率いて上京しておりました。
そのようなさなか、12月10日は大政奉還の発案者とされる坂本龍馬が、京都の宿屋である近江屋にて、中岡慎太郎とともに暗殺されます。
そして龍馬ら公武合体派の実力者がいなくなった状態で年が明け、翌年1868年1月3日、朝廷での会議が終わったところで薩摩・土佐・長州ら5藩が御所を封鎖。
二条ら幕府派の人間が入れなくなった中、岩倉が朝廷に入り、『王政復古の大号令』を出します。
内容は
1.大政奉還における慶喜の将軍職返還を認める。
2.幕府配下の京都守護職・京都所司代の廃止。
当時その職について京都の治安維持にあたっていた会津・桑名藩は大きく反発し、のちの戊辰戦争で旧幕府軍につきます。
3.幕府の廃止。
4.幕府と親しい人間が多かった摂政・関白の廃止。
5.新たに総裁・議定・参与の三職を置く。
これは一橋慶喜をはじめ、幕府勢力を排除しつつ、天皇自らをトップに据えて一部の公家と雄藩による新たなる政治体制を確立させるというものでした。
新しい政権の中枢から遠ざけられた幕府勢力はついに不満が爆発、この挑発に乗る形で鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争の引き金となります。
- 大政奉還
- 龍馬暗殺
- 王政復古
とあまりにもよすぎるタイミングから、龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩という説もあります。
ですが、ここでは割愛し、次に大政奉還が本当に龍馬によって考えられたのかを見ていきます。
大政奉還は本当に坂本龍馬が考えた?
通説上、大政奉還は坂本龍馬が土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)の側近であった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)にアドバイスした案『船中八策(せんちゅうはっさく)』が元となったというのが通説。
これが後藤によって容堂に渡され、意見書である『建白書(けんぱくしょ)』として慶喜に提出され、大政奉還の案となっていきます。
内容は
- 大政奉還
- 欧米に倣って、上下両院の設置による議会政治
- 家柄にこだわらず、有能な人材を政治家として出す
- 日米修好通商条約以降の不平等条約の改定
- 憲法制定
- 海軍力の増強(これは龍馬が海援隊隊長でもあり、武器商人でもあったからでした)
- 御親兵(ごしんぺい)、すなわち天皇親衛隊の設置。(天皇がトップになるので警護を厳しくするのは当然)
- 金銀の交換レートの変更。
(開国当時、欧米人が金の多い日本の小判を自身の銀貨と安く交換し、現地に帰って小判を高く売ってぼろもうけするケースが多く、それを防ぐために幕府が大判小判の金の量を下げた結果、ものすごい物価高で人々が苦しむことになったので、それを防ぐためのものでした。)
しかしながら、そもそも『船中八策』という言葉が大正時代から使われたことからも、龍馬の創作だったという向きが多くなっています。
龍馬は筆においては教養がなかったことから、船中八策も龍馬が口で指示したものを海援隊士に書かせたといわれています。
元々議会制からして龍馬自身の持論ではなく、龍馬の師匠であった勝海舟や、幕臣の大久保一翁(おおくぼいちおう)の持論であったという説が強く、しかも一翁にいたっては『幕府勢力を維持するために、議会制を取り入れるべきだ』という持論の持ち主だったようです。
家柄ではなく実力で、というのも、勝が幕府高官の多くを占めていた由緒正しい家柄ではなく、祖父の代に幕臣の身分を金で買った『金上げ侍(かねあげざむらい)』であることから影響されています。
少なくとも船中八策の多くは、龍馬自身の意見ではなく、彼の師匠からの受け売りというところが真実のようです。
しかし大政奉還後に龍馬は『新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)』という、船中八策を簡単にしたような案を直筆で書いており、これが今日の国立国会図書館に保存されています。
この中に、『〇〇〇自ら盟主(めいしゅ。トップ)となり、天皇名義で公表するように』というくだりが出ています。
『〇〇〇』が誰かはいまだに分かっておらず、慶喜とも容堂ともいわれていますが、この表記のあいまいさが「龍馬は慶喜を引き続きトップに据えて、新政府軍を作る気だ」という考えを討幕派に与え、龍馬は幕府派のみならず討幕派まで敵に回し、龍馬暗殺につながったという説もあります。
次に、なぜ大政奉還が二条城で行われたかについてみていきます。
なぜ大政奉還は二条城で行われた?
元々京都の二条城は、徳川家康が豊臣及び朝廷を監視するために1603年に建てたものであり、のちの豊臣秀頼と家康の会談や、大坂の陣における家康の本拠点として重要な役割を果たしていました。
それ以降は主に天皇を招き入れる施設としていましたが、京都で朝廷と交渉する京都所司代は二条城の北に拠点を構えていたため、政務拠点としては機能していませんでした。
しかし、やがて幕末になって朝廷の影響力が大きくなると、慶喜は朝廷の影響力を無視できなくなり、1866年の将軍就任もこの城で行い、二条城の北で政務を行っていた京都所司代の監視をしやすくしました。
やがて1867年9月に慶喜は政務拠点を二条城に移すのです。
つまり、自身が尊皇派でもあった慶喜は、尊王攘夷の気が高まるにつれて天皇の意向を無視できなくなり、自身の政務拠点を江戸から京都に移したとみていいでしょう。
大政奉還をするうえで、非常に天皇側にも伝えやすい場所でもありました。
次に、大政奉還後の影響についてみていきます。
大政奉還後の影響は?
慶喜の予想通り、長らく政治の中枢から外されていた朝廷は、突然の大政奉還に困惑しますが、とりあえず後藤象二郎の説得もあって了承します。
しかし、長い間朝廷は異人嫌いでありながら、特に外国との交渉に携わったことはなく、定期的に雄藩と幕府の話し合いを設けるとしつつ、当分の政務と外交は慶喜に引き継がせます。
実際にこの後、諸外国に対し新潟の開港の延期、ロシアとの条約改定は幕府名義で行われております。
ちなみに慶喜自身は、大政奉還後の政権ビジョンもできていたらしく、実質的トップとなる『大君(たいくん)』を慶喜自身を含む徳川家将軍が行って、行政と司法のトップを務め、立法権を持つ議会は諸藩大名や藩士にならせるものの、大君が上院議長と下院の解散権を持つというものでした。
天皇は今と同じ『日本国民がまとまっていることの象徴』とされ、幕府がなくなっても慶喜自身が大君として政治を動かそうと考えていたのです。
しかし、これでは形だけ幕府がなくなり、その後も慶喜が引き続きトップとして多くの権限を持つということであり、討幕派は大きく反発。
摂政・関白をはじめとする朝廷上層部が幕府派の人間であることもいけないと考えるようになり、これ以降、兵を率いて京に上京。
朝廷における岩倉の赦しと京都から追放されていた三条実美らの朝廷復帰が許された後、朝廷の門を全て占め『王政復古の大号令』という形でクーデターを行います。
この後の会議で、慶喜の朝廷での地位『内大臣(ないだいじん。左大臣・右大臣に次ぐ官)』の辞任と幕府が支配していた土地をすべて返還するという『辞官納地(じかんのうち)』がまとまり、慶喜が中枢から正式に遠ざけられることになりました。
大政奉還で実質上トップに立つはずだった慶喜が、王政復古の大号令で政権の中枢から遠ざけられ、薩摩の挑発も相まって戊辰戦争を引き起こすのですが、こののちの慶喜について次に見ていきます。
徳川慶喜のその後
討幕の密勅と王政復古の大号令に激怒した慶喜は、薩摩の挑発に反応し、京都の鳥羽・伏見の戦いで激突。
しかし数で圧倒的に劣りながら、最新式の武器を持つ新政府軍に敗北します。
しかもこの時に薩長率いる新政府軍が、天皇の軍であることを証明する『錦の御旗(にしきのみはた)』を掲げたため、慶喜率いる旧幕府軍は、自分達が天皇に歯向かう悪者『賊軍(ぞくぐん)』扱いされることになり、大きく動揺します。
慶喜もまた、尊王の考えのおひざ元である水戸藩の生まれであるため、人一倍動揺が大きかったものと思われます。
旧暦では1月6日、現代の暦時法では1月30日に大阪城の兵を置いて江戸に逃げ帰った慶喜は、朝廷で慶喜追討の命令が出された中、上野の嘉永寺(かえいじ)で必死に謹慎を行い、勝海舟や大久保一翁といった面々を使って新政府軍に抵抗する意思がないことを表明し、間接的ではありますが、江戸を戦場にせず、江戸城無血開城の下地を作ることになりました。
旧幕臣であり、明治維新で立憲帝政党(りっけんていせいとう。政府の御用政党と呼ばれた)や東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん。後の毎日新聞)を作った福地源一郎(ふくちげんいちろう)は、「江戸開城で江戸幕府は滅亡した」と回想しております。
無血開城に不満を持った幕臣も少なくありませんでしたが、彼らに担ぎ出される前に脱走して、生まれ故郷の水戸でひたすら謹慎。
1869年の戊辰戦争終結後に謹慎を解かれると、家康が隠居後に住んだ駿府改め静岡に移住し、政治的野心を持たないまま趣味に没頭し、地元の人から『ケイキ様』と呼ばれて親しまれました。
しかし、旧幕府で高官を務めた家を含む多くの旧幕臣たちが、維新後ほとんど没落しても無関心で、『貴人、情を知らず(きじん、じょうをしらず。生まれついてのお殿様は、人情というものを知らないという意味)』と陰口をたたかれるようになっております。
1901年から1910年まで政府の貴族院議員(選挙ではなく天皇名義で任命されます)を務めた後、隠居。
1913年11月22日、急性肺炎を同時に起こす風邪により死去。
77歳という、歴代江戸幕府将軍の中では最年長で、かつ当時の平均寿命約48歳を大きく超えた歳で寿命を全うしました。
まとめ
- 折の長州征伐の失敗や、各藩の尊王論が高まっていく中で、幕府に力がないことを実感した慶喜が、名目上はいったん政権を朝廷に返すという形で尊王攘夷派をなだめようとした。
- 慶喜自身は政権中枢から退く気はその時は全くなく、表向きは天皇に政権を返すとアピールしつつ、その実は天皇を、現代のように飾り物として自分が政治の実権を握ろうとした。
- 大政奉還の案は坂本龍馬自身が考えたものではなく、幕臣であった勝海舟や大久保一翁の考えであって、土佐藩を介して案を慶喜に出した。
これが真実といえましょう。
しかし薩摩藩をはじめとする、幕府ら旧体制の勢力を一掃しようと考える討幕派によって王政復古の大号令がなされ、慶喜は中枢から遠ざけられた挙句に朝敵にされ、これ以降旧幕府派の神輿になることなく、明治政府の中枢からも外れていきます。
かたや龍馬の意向を受けて大政奉還を進言したとされる土佐藩主・山内容堂は、鳥羽伏見の戦いにおいて、「これは薩長が起こした不当な戦である!」と反発しつつも、岩倉に「ならば土佐は慶喜側につきなさい!」と一括されて反論できず、後に薩長と足並みをそろえたといわれています。
元々薩長同盟は土佐の龍馬が世話したうえで出来たものであり、今更幕府につくのは筋が通らないと見たのでしょう。
しかもこの時には龍馬も暗殺され、海援隊も消滅したため、歯向かう自信がなかったと思われます。
結果的には、大政奉還は慶喜の目論見からも龍馬の目論見からも外れ、名実ともに幕府消滅と、朝廷を神輿にした薩長の政権奪取という結果に終わります。
しかし、かつて徳川の領地であった東国では旧幕府の力が比較的強く、戊辰戦争を通して、薩長は彼らの力の一掃を行います。
歴史にもしもはありませんが、大政奉還という妥協案が成功し、以降も徳川が大君として政治の実質的なトップにたったら、のちの歴史はどう変わったでしょうか。
正しい答えはありませんが、これは読者の皆さんの想像にゆだねたいと思います。