今回解説していくのは幕府と長州藩が戦った長州征伐!
この長州征伐は幕末において幕府や長州藩のその後を左右したターニングポイントでしたが、一体この戦争はどんなものだったのでしょうか?
そこで今回は
- 長州征伐が起こったわけ
- 長州征伐で活躍した人たち
- 第二次長州征伐における長州藩
- 長州征伐の影響
について解説していきたいと思います!
目次
長州征伐とは?
長州征伐とは1864年と1866年の2回にわたって行われた江戸幕府による長州藩への征伐のことを言います。
この長州征伐において1回目は幕府の勝利に終わったものの、2度目は長州藩の圧勝に終わり、幕府の権威が完全に失墜してしまう結果を招いてしまいました。
原因
長州征伐が起こるちょっと前。
日本では尊王攘夷という『外国人なんてくそくらえ!天皇こそが一番なのだ』という考えが巻き起こり、天誅と称して外国人や幕府の要人が暗殺されるという事件が後をたちませんでした。
そんな危なっかしい考えの尊王攘夷でしたが、その中でも特に攘夷を推し進めたのが長州藩だったのです。
こうして京都を始め日本中で大暴れしていた長州藩。
しかし、こんなことをすると幕府や藩からは邪魔であり目障りだったのです。
こうして目をつけられてしまった長州藩士は八月十八日の政変によって京都から追放。
さらには京都において復権を目指そうとしていました。
ですが、その時に天皇がいる御所に向かって鉄砲を撃つという冗談じゃ済まされない大失態を犯してしまい、長州藩は逆賊となってしまいました。
そのため、幕府は長州藩を征伐することを決意。
第一次長州征伐が始まったのでした。
西郷隆盛が大活躍!?
第一次長州征伐は文字通り長州藩が主役なんですが、実はこの時西郷隆盛が大活躍していました。
実はこれには裏があり、当時幕府の軍のトップは御三家の一つであり筆頭である尾張藩が務めていました。
しかし、当時の尾張藩の当主である徳川慶勝は乗り気じゃない。
幕府はどうしても慶勝に総大将になってほしいと尾張藩に頼み込み、全権を任せることと参謀をつけることを条件にやることにしたのでした。
そう、その時につけた参謀が当時薩摩藩の有力な藩士となっていた西郷隆盛だったのです。
西郷隆盛は慶勝の命を受けて長州征伐の参謀となるのですが、隆盛はとても聡明な男。
このまま幕府を存続させても限界が近いということを悟っており、幕府をぶっ壊してでも新しい政府を作らなければならないと考えていたのでした。
結末
第一次長州征伐は幕府軍の総勢15万人という大軍で行おうとしました。
しかし、上にも書いた通り西郷隆盛がちょっとだけ長州藩になびいたこともあり、3人の長州藩の家老が切腹し、幕府にごめんなさいすれば長州征伐を行わないという条件を叩きつけたのです。
長州藩としても15万人の兵士が来られては破滅待った無しです。
長州藩はこの条件を飲んで幕府に降伏。
第一次長州征伐は戦わずして幕府が勝利したのでした。
第二次長州征伐はなぜ起こったのか?
こうしてなんとか第一次長州征伐は終結しましたが、元々長州藩という藩は関ヶ原の戦いにおいて領地を減らされた頃からの江戸幕府というものを嫌っていました。
そのため、長州藩が幕府に対してペコペコするのは長州藩士にとっては耐えられないもの。
幕府を倒すことが長州藩の悲願だったため、この長州藩の体制はあっさりと覆されてしまい、いつのまにか元通りとなってしまうのです。
次はどのようにして長州藩は再び倒幕派の藩となっていったのかを見ていきましょう。
原因
こうして長州藩がごめんなさいして一応治った長州征伐。
しかし、こうなると立つ瀬がなくなってしまうのがかつて京都で暴れていた攘夷志士たちだったのです。
その中でも松下村塾で学び攘夷志士として活動していた高杉晋作は「なんだ最近の長州藩は!こうなったら自分がクーデターを起こしてやる!」と一念発起。
伊藤俊輔(のちの伊藤博文)とともに功山寺と呼ばれる寺にて挙兵し、クーデターを実行。
幕府に従っていた保守派から実験を奪い取り、いつのまにか長州藩は元通りの尊王攘夷派の藩へと変わったのでした。
中心人物
この長州征伐における重要人物は上でも書いた高杉晋作。
この人こそが長州藩の今後を大きく左右したと言っても過言ではありません。
その通り、長州征伐において高杉晋作は自身作り上げた奇兵隊という兵隊を使い、小倉口(北九州市)にて幕府軍を圧倒したのです。
そのほかにも長州征伐の重要人物としてのちに日本陸軍を創始することになる大村益次郎。
後の初代総理大臣である伊藤博文などがこの長州征伐において奮戦していました。
結末
こうして始まった第二次長州征伐。
幕府は今度こそマジになって15万の大軍で長州藩を攻めにかかります。
しかし、結果はというと全ての戦いにおいて長州藩の優勢。
さらには幕府軍は幕府側の城を占領されるという事態までに追い込まれてしまいます。
こうして圧倒的に長州藩の優勢となったこの戦いはちょうどこの頃将軍である徳川家茂の死去もあり撤退。
第二次長州征伐と呼ばれるこの戦いは長州藩の圧勝に終わったのでした。
坂本龍馬や高杉晋作の活躍
こうして第二次長州征伐と呼ばれは戦争において長州藩は幕府に圧勝。
しかし、どうして単なる藩が幕府に勝てたのでしょうか?
実はその裏側には薩長同盟という大きな同盟が結ばれていたのでした。
薩長同盟といえば薩摩藩と長州藩が手を結んだ同盟のことですが、この同盟を仲介したのがかの有名な坂本龍馬だったのです。
坂本龍馬はこのままでは長州藩は負けてしまい潰されてしまうと考えました。
新しい日本を立てるにはこの二藩を同盟させることが一番の近道だということを薩摩藩の代表西郷隆盛と長州藩代表木戸孝允に懇願しました。
こうして結ばれた薩長同盟により、長州藩は薩摩藩の介入を防ぐことに成功。
さらに薩摩藩が持っていた当時最新鋭の武器を手に入れることができ例え15万人の敵でも押し返すことが出来たのでした。
その後の影響は?
第二次長州征伐の後、幕府の権威が失墜してしまい、倒幕運動は激化していくようになりました。
まぁ、長州藩という36万石の中堅の藩に天下の幕府様が負けてしまったのですからね。当然といえば当然です。
こうして権威を失った幕府は急速に弱体化。
一年後には二条城において大政奉還をしなければいけないほどになってしまったのです。
さてまとめに入りましょう。
まとめ
- 第一次長州征伐とは京都で暴れていた長州藩を幕府が討伐しようとしたこと
- 第一次長州征伐は参謀だった西郷隆盛がちょっと長州藩になびいたこともあり、長州藩の家老の切腹で取りやめとなった
- 第一次長州征伐の後、長州藩では幕府に恭順するようになったのだが、高杉晋作が功山寺で挙兵し、クーデターを起こしたことによって再び長州藩は倒幕派となった
- この様子を見ていた幕府は第二次長州征伐を決意.。15万の兵で長州藩を攻めたが、長州藩は薩長同盟を結んでいたこともあり、第二次長州征伐は長州藩の勝利で終わった
- 第二次長州征伐において幕府が負けたことによって権威が失墜。倒幕運動が加速することになった
最後となりましたが、長州藩士は大政奉還の後、新しく作られた明治新政府の重鎮となっていくことになります。
この戦いは長州藩のその後につながる歴史的な転換点だったのですね。