今回ご紹介するのは、薩英戦争です。
公武合体か、尊王攘夷かで揺れた幕末期、当時世界最強と言われたイギリス海軍と、一国の藩が戦争を起こします。
- この戦争は何が原因となって起こったのか?
- 薩摩藩がとった策は「スイカ売り決死隊」作戦だった!?
- 陰で活躍した女スパイの存在とは?
- 薩英戦争がその後の薩摩を変えた?
今回はこうした事柄ついて検証していきます!
そして気になる、この戦いの勝敗の行方は・・・!?
目次
薩英戦争とは?
薩英戦争は、1863年に起きた、薩摩藩とイギリスとの戦いです。
イギリスは、後述する生麦事件の賠償を求めており、薩摩藩は、近代化した兵力のもとで攘夷を行おうとしていたのです。
次に、この戦いが起きた原因について見ていきましょう。
原因
この戦いの原因は、1862年の生麦事件です。
生麦事件とは、島津家の行列に乱入したとして、イギリス人3名が殺傷された事件です。
実はこの年と前年の2回にわたり、攘夷派によるイギリス公使館襲撃事件が起きており、当時のイギリス国内では反日感情が高まっていたようです。
そんな中生麦事件が起きたため、イギリスはもう黙ってはいられなくなりました。
イギリス公使のジョン・ニールは、7隻の艦隊を引き連れて鹿児島にやってきて、その後島津家との交渉に入ります。
しかし、両者に意見はまとまらず、戦闘態勢に突入することとなりました。
次の章では、気になる勝敗結果について見ていきます!
勝敗結果
西洋列強の軍隊に対して、薩摩藩は東洋の小国のうちのごく一部だったわけですが、勝敗はどうだったのでしょうか?
なんと、引き分けだったのです!
もちろんイギリス軍の側には、最新式の大砲が充実しており、戦力が整っていたわけですが、いざ戦闘に移ると、イギリス側の思うようにはいきませんでした。
- 戦闘時荒天であったこと
- イギリス側の機関の故障により操艦が不自由となったこと
などが、薩摩藩の側に有利な展開を生み出しました。
この戦闘の結果、イギリス側の死傷者数薩摩側のそれより多い63人にも上り、艦隊も大きな損傷を受けました。
次の章では、薩摩藩のとった面白い作戦を取り上げます。
そこに参加していた人の中には、意外な顔ぶれも・・・!?
薩英戦争のスイカ売り決死隊作戦!?
ここで、薩摩側のとったひとつのユニークな作戦についてご紹介します。
生麦事件後の交渉の最中、その作戦は実行されました。
当時の薩摩藩主の父であった島津久光は、奈良原喜左衛門と海江田信義の2名を呼び出し、イギリス側に奇襲を仕掛けるように命じます。
この2名はなんと、生麦事件においてイギリス人を切りつけた張本人だったのです!
彼らは早速奇襲計画を練り上げます。
この計画への参加を表明した薩摩藩士は81名にまで膨れ上がったようで、彼らは8艘の舟に分かれて乗り込み、イギリス艦隊に近づきます。
うち1艘が藩の使者に偽装してまじめな交渉を持ちかけ、その交渉中に他の7艘の藩士たちが軍艦に乗り込みます。
ここで、彼らは工夫を凝らします。
7艘はなんと、スイカや他の野菜・果物を積んだ商船に偽装し、その藩士たちも百姓に変装したのです!
これで、軍艦内で交渉しているうちに、スイカなどの物資を運び込めば、大人数の藩士たちがみな軍艦に潜伏することができるというわけです!
この作戦の内容から、彼らは「スイカ売り決死隊」とも呼ばれます。
その後は陸上からの合図により、一斉にイギリス側を襲撃する、という計画だったのですが・・・。
この作戦は失敗に終わりました。
イギリス側に警戒されて、ほとんど軍艦に乗船することができなかったからです。
さすがにこのタイミングで大人数のスイカ売りが一度にやってきたら、イギリスも怪しまざるを得ないですよね。
ちなみにこの作戦には、明治期の日本で活躍することになる、黒田清隆や大山巌などといった人物も参加していたのです!
次の章では、薩英戦争後の海外の反応を見ていきましょう。
薩英戦争における海外の反応は?
それでは、今回の戦争を終えて、海外ではどのような反応が起きたのでしょうか?
今回の戦いで特筆すべきなのは、当時世界最強と言われたイギリス艦隊が、一国の藩を相手に勝利を諦めたことにあります。
特に当時のニューヨークタイムズ紙は日本を評しており、西洋人は日本人を侮るべきではないと述べています。
また、イギリス軍が鹿児島城下の非軍事地域に攻撃を加えたことに対しては、イギリス国内でかなり非難の声が出たようです。
次の章では、薩摩藩が女スパイを用意していた、という事実に迫ります!
薩摩藩は実は女スパイを用意していた?
この戦いにおいて、イギリス艦隊に対して、薩摩藩側は先制攻撃を与えることができました。
あたかもイギリス側の動向を知っていたかのように、です。
これには、薩摩藩が女スパイを用意していたためと思われます!
その女スパイの名は「おむら」です。
彼女は、生麦事件後にイギリスの将校を懐柔するために送られた女性です。
彼女はイギリス艦隊の提督に気に入られ、提督の屋敷に入ることができるようになりました。
そこでは当時、イギリス軍の会議が開かれることもあり、おむらはそこで得た情報を、薩摩藩側に流すことができたのです!
次の章では、薩摩藩を代表する人物の一人である、西郷隆盛について見ていこうと思います。
薩英戦争に西郷隆盛は参加していた?
薩摩の藩士たちが奮闘していたこの頃、薩摩藩を代表する存在ともいえる西郷隆盛は、どこで何をしていたのでしょうか?
実は西郷は、この薩英戦争には参加していません!
西郷は1862年ころ、激派の志士たちの京都焼き討ちを扇動したとして、島津久光の命で捕縛されます。
西郷には徳之島への遠島という処分が下されました。
彼が鹿児島に向けて出発した頃に、薩摩藩がイギリス軍を撃退した、という情報が入ってきたようです。
次に、薩摩藩とイギリスの関係性の変化について見ていきます。
戦争前、戦争後の薩摩藩とイギリスの関係性
前述のように、戦争前の薩摩藩とイギリスの関係は、良好であるとは言い難いものでした。
しかし、戦争が終結すると、その関係性は変化していきます。
戦闘終結直後は、両者の歩み寄りはなく、談判は決裂を繰り返してしまいますが、イギリスからの軍艦の購入などの話で同意が得られると、和解へと向かっていきます。
この交渉を経ていく中で、イギリス側は薩摩藩を高く評価するようになっていき、薩摩藩のほうも、西洋の最新の軍事力が優秀だとの結論に至り、両者は友好関係を築いていきました。
その象徴とも言えるのが、駐日公使も務めた外交官のアーネスト・サトウです。
彼は多くの薩摩藩士と交友関係があったことで知られており、伊藤博文や井上馨らと文通を行っていたようです。
次の章では、薩英戦争後の薩摩藩の状況について見ていきます。
その後の影響
この薩英戦争は、薩摩藩の外交への姿勢を変化させるものでした。
戦前の薩摩藩が支持していたのは、公武合体です。
公武合体とは、幕府と諸藩が結びつくことで幕府の再建をしようというものです。
これが戦後になると、幕府を倒そうという倒幕派の下級武士が実権を握り始めるようになりました。
この中心にいたのが、西郷隆盛です。
まとめ
それでは、薩英戦争についてもう一度振り返ってみます。
薩英戦争は、1863年に起きた薩摩藩とイギリスとの戦争です。
この原因は、イギリス人を薩摩藩士が斬りつけた、前年の生麦事件にあります。
戦闘はさまざまな要因により薩摩藩優位に進み、結果としては引き分けとなったものの、イギリス側は大きな損害を受けました。
薩英戦争に発展する直前の薩摩側の動きにも、変わった点がありましたね。
1つは、藩士たちがスイカ売りを装ってイギリスの軍艦に忍び込もうとしたことです。
もう1つは、薩摩側が女スパイである「おむら」という人物を利用し、イギリス軍の動きを把握していたことでした。
薩摩藩を代表する人物とも言える西郷隆盛は、当時遠島されており戦闘には参加していません。
この戦いは海外でも大きな反響を呼んでおり、ニューヨークタイムズ紙も取り上げていましたね。
戦後は交渉を通じて薩摩藩・イギリス間の友好関係は深まっていき、薩摩藩の中では倒幕派が主導権を握るようになっていきました。
今後の時代は薩摩藩をはじめとする雄藩が中心となって進んでいきますので、注目してみてください!