大塩平八郎の乱とは?原因やその後の影響について!天保の改革とも関係が?

今回取り上げるのは、大塩平八郎の乱です。

 

江戸時代の後半に、もともと町奉行で勤めていた大塩平八郎は、とある理由から、江戸幕府に対して反乱を起こします。

今回は、島原の乱以来約200年ぶりに起きた、この大塩平八郎の乱について見ていきます!

 

  • なぜこの反乱が起きたのか
  • この反乱の影響力
  • 大塩の本当の狙い

 

の3点に特にご注目ください!

大塩平八郎の乱とは?

大塩平八郎
大塩平八郎

それではさっそく、この反乱の概要について説明していきます。

 

大塩平八郎は、当初大坂町奉行組与力として働いていました。

そこでは、汚職を嫌い、不正を次々と内部告発するなどして活躍しており、市民からの尊敬も受けていたようです。

その後、関係の深かった上司の転勤に伴って、彼は与力を辞め、陽明学者へと転身を遂げます。

 

彼が反乱を起こすのは、与力の辞職からわずか7年後のことでした。

この詳しい原因については、後の章で解説していこうと思います。

 

彼は私塾の門下生を鍛え上げ、大阪の豪商、そして江戸幕府に対する反乱計画を立てます。

彼は大坂市内と近隣の村をまわって、この決起に参加するよう呼びかけました。

 

しかし、決起の直前になって離反者・密告者が出たことにより、この反乱は蜂起したその日のうちに鎮圧されてしまいます。

270人以上の焼死者を出したと言われており、大塩勢も3名の戦死者を出しましたが、相手の奉行所側は負傷者すら出なかったようです。

 

大塩自信はその後しばらく大坂に潜伏していましたが、潜伏先が特定・包囲されて、火を放って自決しました。

結果的に、この戦いは幕府軍の勝利で幕を下ろしたのでした。

 

年表を掲載するので、参考にしてください。

年表

関連年表
1793 大塩平八郎生まれる
1830 大坂町奉行組与力を辞す
1833 天保の大飢饉
1836 9月頃 砲術の演習を行う 密かに武器を準備
12月頃 檄文作成
1837 2月上旬 蔵書を売る
2月19日 決起 半日で鎮圧
3月27日 放火自決
6月1日 生田万の乱
1841 天保の改革
1843 人返しの法 上知令失敗で水野忠邦失脚

起こった場所は?

大阪の炎上
大阪の炎上

それでは、どこでこの反乱が起こったのかについて見ていきましょう。

 

大塩は、決起を開始する際、自らの屋敷に火を放ちました。

この屋敷が、現在の大阪市北区の天満橋に位置しています。

 

彼らの一党は難波橋を渡り、北船場に着くと、そこに屋敷を構える豪商たちを襲い始めます。

ここには、三井呉服店や鴻池屋などがありました。

 

大塩勢と奉行所の激突は内平野町と淡路町で起こりましたが、いずれも大塩勢が壊滅的被害を受けました。

この規模の小ささからも、大塩勢が反乱を拡大できなかったことが伺えますね。

 

次の章では、この反乱がなぜ起こったのかについて見ていきます!

起こった原因は?

それでは、なぜ大塩は反乱を起こすことにしたのでしょうか、その理由に迫ってみたいと思います。

 

陽明学者となったのちも、大塩は奉行所や幕府の人間に献策できる立場にいました。

しかし、1836年からその翌年にかけての天保の飢饉の際には、その対策として彼が持ちかけた案はことごとく断られてしまいます。

 

なぜでしょうか?

それは、彼の意見に肯定的な人物たちが離れていってしまったからです。

 

そのうちの一人である矢部定謙という人物は、栄転により大塩から距離ができてしまいます。

矢部の配下には経済学の専門家が揃っていたため、必然的に経済学に明るい人物たちはいなくなってしまいます。

 

そして、最も大塩を憤慨させる事態が起こります。

大坂東町奉行の跡部良弼が、幕府の機嫌取りを優先して、飢饉を顧みず、大坂から江戸に強制的に米を送ったのです!

彼の徹底ぶりは物凄かったようです。

 

跡部は、京都から一定量の米を買いに来た者を捕まえたといいます!

そんなわけで京都では餓死者が溢れます。

 

大塩は自らの蔵書を売り、それをもって救済活動を行いましたが、奉行所はこれすらも大塩の「売名行為」と見なし、彼に冷たい目を向けていました。

 

ここに来て、大塩は悟ります。

武力を行使することでしか問題の根本的解決は果たせないと。

 

そして、奉行所と江戸幕府、奉行所と繋がって私腹を肥やした豪商たちに対する、大塩の反乱が始まったのです。

 

次の章では、彼の反乱が与えた影響について見ていきます。

彼の反乱後、幕府と朝廷の関係にも変化が・・・!

その後の影響は?

この章では、彼の起こした反乱が与えた影響について見ていきます。

 

彼がもともと奉行所で働いていた武士であったということから、そうした経歴の持ち主が反乱を起こしたことに、全国で驚きの声が上がりました。

 

大塩は決起の前に、その決意を表明した檄文を書き、門弟や農民たちに渡していたのですが、その檄文が各地に広まり、彼の考えに共感する者が続出したのです。

 

そのうちの一人が、国学者であった生田万です。

生田の考えや反乱の標的は似通っており、「大塩門人」を称して決起しましたが、こちらも失敗に終わりました。

 

これと同様な反乱は以後各地で発生しました。

 

また、大塩の死体が本人と判別できる状態でなかったため、実は大塩が生きているという噂も流れました。

アメリカのモリソン号が日本に来ていたことと絡めて、アメリカと大塩が組んで江戸を襲撃する、という壮大な噂もあったのです。

 

ここで、大塩の反乱が与えた意外な影響について見ていきます。

 

大坂と京都が地理的に近いということもあり、朝廷の関心も高まりました。

朝廷は各地の神社に豊作の祈祷をするよう命じ、そして幕府にその祈祷の費用を賄わせたようとしたのです。

 

これに対し、幕府はすんなりと了承したのです!

つまり、過去200年絶対的な力を誇っていた江戸幕府が、朝廷の命に従わざるをえなくなった、つまり衰退の兆しを見せ始めたのです。

 

大塩の反乱は、それ自体は失敗に終わりましたが、長い目で見れば幕府の力を落とすことに成功したということですね!

 

次の章では、彼の作成した檄文に込められた、本当の意図を探っていきます。

彼は江戸幕府の滅亡まで考えていたのか、その真意やいかに?

檄文に秘められた大塩平八郎の本当の狙いとは?

大塩は決起に際して、自分の門下生や近辺の農民に対して檄文を回しました。

その内容は、豪商たちに天誅を加えるべし、天満で火災が発生したなら駆けつけるように、というものでした。

 

しかし、この檄文の本当の狙いは、やみくもに決起参加者の士気を高めようというものではなかったのです!

これは、大塩が陽明学者、つまり儒者であったことに関連します。

 

彼が真の狙いとしていたことは、朝廷への忠を前提として、主君としての江戸幕府を諫めよう、ということだったのです!

つまり、儒学の観点、すなわち忠と孝を重んじたうえで、この檄文を作成したということです。

江戸幕府がより良い政治組織となるように、その滅亡よりもむしろ、その改良を願っていたということですね。

 

次の章では、彼の反乱後に始まった天保の改革について見ていきます!

大塩平八郎の乱をきっかけに天保の改革で厳しい世の中に?

水野忠邦
水野忠邦

この章では、大塩の乱と天保の改革のつながりについて見ていきます。

 

天保の飢饉と大塩の乱は、幕府にとっても無視できない出来事でした。

そこで、老中の水野忠邦を中心として、天保の改革が始まりました。

しかし、この改革は厳しいものとなり、結局は失敗に終わってしまいます。

 

それでは、この改革はどのような厳しさを伴っていたのかについて見ていきましょう。

 

まず、倹約の観点から風俗の取り締まりが行われ、庶民の娯楽が制限されます。

歌舞伎役者の7代目市川團十郎、作家の為永春水や柳亭種彦などが処分を受けました。

当時の庶民の楽しみが大幅に減ってしまったのは、かなりのショックであったことでしょう。

 

また、株仲間解散令を出します。

この法令により経済の自由化を進めようとしましたが、これが裏目に出ます。

当時の流通システムが株仲間を中心として回っていたので、これを無理やり崩すこととなり、景気が悪くなってしまったのです。

 

さらに行った貸借金利の引き下げは、貸し渋りが起きてかえって借り手を苦しめてしまい、貨幣の改鋳は、急激に行ったため高いインフレーションを引き起こす結果となってしまいました。

 

水野忠邦の施策は、ことごとく裏目に出てしまったようですね。

 

次の章では、大塩に子供がいたのか、子孫はいるのかについて見ていきます!

大塩平八郎の子孫って?

大塩平八郎には、実の子供はいなかったようです。

 

養子として格之助という人物がおりましたが、養父平八郎の自決の際に亡くなっています。

彼は兄弟もいなかったようですので、彼や彼に近い血筋の子孫の方はいらっしゃらないようですね。

 

次の章では、大塩の残した名言を見ていきます!

現代を生きる我々にも、教訓としたいものが多くありますよ!

大塩平八郎の名言をご紹介!

この章では、大塩が残した名言についてご紹介します。

 

  • 「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」

心の底から信頼できる相手こそ、真に友達としてふさわしいことを述べています。

 

  • 「山中の賊に克つことは易しく心中の賊に克つことは難し」

これはもともと、陽明学の創始者である中国の王陽明の言葉であり、大塩自身が陽明学者であったこともあって、この言葉を大事にしたのでしょう。

 

  • 「身の死するを恐れず ただ心の死するを恐るるなり」

彼は自らの蔵書を売り払ってでも貧民の救済を目指しました。

 

たとえ自らの身が滅ぼうとも、そうした徳の高い精神だけは滅ぼすまいとしたのですね。

まとめ

いかがでしょうか。

それでは、おさらいも兼ねて、もう一度大塩平八郎の乱について振り返ってみます。

 

彼はもともと大坂町奉行で与力として働いており、辞職後は陽明学者となっていました。

その後、天保の飢饉を顧みない幕府と奉行所に憤慨し、武力をもってしか問題は解決されないと感じ、門弟に軍事訓練を施して決起を計画します。

 

しかし、決起直前に密告者が出たこともあって、彼の起こした反乱はその日のうちに鎮圧されてしまいました。

彼自身はしばらく大坂に潜伏するものの、居場所を特定・包囲されたのち自決してしまいます。

彼の起こした反乱は今の大阪市北区の辺りで、あまり規模は拡大できませんでした。

 

この反乱は、大塩がもともと幕府側の人間であったこともあり、全国に影響を与えました。

国学者生田万の反乱もそのひとつでしたね。

 

また、江戸幕府に対する朝廷の勢力増長も見られました。

彼の檄文は、江戸幕府の滅亡ではなく、儒学の立場から、むしろその体質改善を求めるものでしたね。

 

この反乱をきっかけに、天保の改革が行われましたが、風俗取り締まりや貨幣の急激な改鋳などで庶民の生活を圧迫するものとなり、失敗に終わりました。

 

なお、大塩に実子はいなかったようで、養子の格之助も平八郎とともに自決しています。

 

大塩はいくつもの名言を残しており、陽明学の影響を色濃く反映したものもありましたね。

彼の起こした反乱が実にさまざまなところに影響を与えていたのがお分かりいただけたかと思います!

 

良ければ彼の残した著作もぜひ手に取ってみてください!

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