今回は、江戸の三大改革のひとつ「寛政の改革」について、わかりやすく解説していきたいと思います!
- 寛政の改革とはどんな改革なのか?
- 誰が、何の目的で行ったのか?
- 結果はどうなったのか?
さらに、内容が混同されやすい江戸の三大改革の違いとは!?
そんな疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!
目次
寛政の改革とは?わかりやすく解説!
寛政の改革とは、江戸時代中ごろに行われた財政改革のことです。
江戸幕府が始まって100年がたったころに行われた享保の改革を手本として、幕府の赤字を少しでも減らそうとさまざまな取り組みがなされました。
寛政の改革が始まる前は、10代将軍・徳川家治のもとで老中・田沼意次が幕政の主導権を握っていました。
彼が行った政策はそれまでの農業重視のものではなく、商業を重視し、経済活動を活発化させるものでした。
画期的な改革が行われている反面、官僚が賄賂を受け取ることを黙認していたなど、汚職が広まり幕府のモラルは著しく低下してしまいました。
これを受け、お金に厳しく正しい政策が求められ、寛政の改革が行われることになります。
寛政の改革では、田沼意次の行った商業を重視する政策は撤回され、以前のような農業を重視した政策が多く行われました。
そのひとつが、囲米です。
これは、飢饉に備え全国の大名たちに米などの穀物を蓄えておくよう指示したものです。
寛政の改革が始まる前は、浅間山の大噴火などの自然災害が発生していました。
自然災害が起こると作物が獲れず飢饉がおき、その影響で一揆や打ちこわしも多発します。
飢饉に備えることで犠牲者を出さないだけではなく、一揆などの暴動を抑えることも目的のひとつでした。
囲米は大名への指示でしたが、同じように江戸に住む人々にも積み立ての指示が出されます。
それが、七分積み金です。
現代でいう保険のようなもので、万が一の時の備えだけでなく町内の共同施設の修繕費用などに充てられていました。
この制度は、明治時代まで長く続いていくことになります。
さらに、江戸の人口を抑えようと出稼ぎに来ていた農民を地元に帰らせる旧里帰農令が出され、人返しが行われました。
旧里帰農令に強制力はありませんでしたが、江戸だけでなく地方の農村へ労働力を分散させようとしていたのです。
人口が増えた江戸では、働き口や住む家のない人もいます。
そういった人のために作られたのが、人足寄場です。
現在のハローワークのようなところで、職業訓練を受けさせ再就職をすすめていました。
経済政策では現在にも通じるような政策がとられましたが、文化や学問の面ではさまざまな規制が行われました。
そのひとつが、寛政異学の禁です。
幕府が朱子学を公認の学問と定めることで、学問所での陽明学などの講義を禁止しました。
この方針が地方の学校にも浸透していき、徐々に朱子学以外の学問を禁止する動きが広まっていったのです。
そして、役人を採用するにも朱子学の試験を行うようになり、それまでの金や縁故による採用ではなく、個人の実力を重視するようになりました。
さらに、幕府への風刺や批判を取り締まる出版統制令が出され、本の出版などに関わった人たちが処罰されました。
その一方で、江戸時代初期の精神に立ち返ろうと、歴史書や地理書の編さん、古文書の整理や保存などが積極的に行われました。
また、享保の改革でも行われていた倹約が、寛政の改革でも行われることになります。
田沼意次時代は賄賂が横行するなど、風紀も乱れきっていました。
それは民衆の生活にもいえることで、乱れた風紀を引き締めるためにも絹織物などの贅沢品が厳しく取り締まられることになりました。
その他にも、借金に苦しむ旗本や御家人を救済するため棄捐令という法令が出されました。
この制度によって、金利の引き下げや借金をして6年以上たったものは返済しなくてよくなりました。
こうして旗本や御家人を守るだけでなく、力をつけつつあった商人たちを牽制する目的もあったようです。
では、ここで一度寛政の改革についてまとめてみましょう。
- 「寛政の改革」は江戸時代中期に行われた財政改革
- 享保の改革を手本とした
- 飢饉に備え、各大名に囲米を命じた
- 江戸に住む人々には七分積み金を命じた
- 旧里帰農令を出し、出稼ぎに来ていた人を農村に帰らせた
- 寛政異学の禁で、朱子学以外の学問を禁じた
- 出版統制令を出し、幕府の風刺や批判を取り締まった
- 棄捐令を出し、旗本や御家人の借金を減らした
寛政の改革のポイントはこのようになります。
次は、それぞれの政策が何年ごろ行われたのかを見ていきましょう。
年号
寛政の改革は、1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)まで行われていました。
改革が始まってすぐの1789年(寛政元年)に、倹約令と囲米、棄捐令が出されます。
囲米が行われるきっかけとなったのは、1782年(天明2年)から続いた天明の大飢饉でした。
天候不順による不作に重なるように、1783年(天明3年)には浅間山が史上最大の噴火します。
これが田沼意次失脚の一因にもなったほど、全国的に甚大な被害をもたらしました。
そういったことからも、出稼ぎに来た人を農村に帰すことが必要だったのでしょう。
1790年(寛政2年)には旧里帰農令が出されます。
それにあわせるように、寛政異学の禁、出版統制令も出されました。
寛政の改革が手本とした享保の改革は30年に及ぶ長いものでしたが、この改革は6年で終わってしまうという短さでした。
短いながらも現代に通じる政策の多い寛政の改革ですが、どんな人物が改革を行っていたのでしょうか?
寛政の改革を行った人
寛政の改革を行ったのは、当時の老中・松平定信です。
松平定信というと、この寛政の改革と並んで有名なのが白河藩主としての活躍です。
実は、定信は享保の改革を行った8代目将軍・徳川吉宗の孫でした。
幼い頃から優秀で、将来は将軍になるのではないかと期待されるほどだったそうです。
しかし、当時の権力者であった田沼意次を批判したために、白河藩へと養子に出されてしまいました。
これにより定信が将軍になる道は閉ざされてしまったのですが、白河藩主に就任してから大変な活躍をみせます。
藩の財政を建て直すだけでなく、飢饉でも備蓄を領民に配るなどして犠牲者を最小限に抑えました。
そうしたところから、定信は名君と呼ばれていました。
田沼意次による乱れた幕政を正す人として推薦されるには、十分な人材だったのです。
そして、先に見たような定信独自の路線で政策を行っていきました。
定信は今でも白河楽翁と呼ばれ、たくさんの人に親しまれています。
そんな名君、定信が行った寛政の改革はどんな結果を迎えたのでしょうか?
次は、寛政の改革の結果とその後への影響を解説いしていきます。
結果とその後の影響
結果から言ってしまえば、寛政の改革は失敗に終わりました。
定信も失脚してしまいます。
その原因となったのが、厳しすぎる倹約令です。
田沼意次時代、民衆は自由な生活を謳歌していました。
それが突然の厳しい倹約令を出され、多くの人が幕府への反感を抱きました。
定信が老中に就任したときには、「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」という歌が流行り、定信による清く正しい政策を期待されていたのです。
しかし、改革が期待していたようなものではなかった結果、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という歌が詠まれました。
「定信の時代は厳しいから田沼意次の時代が恋しい」というのです。
さらに、尊号一件という事件も定信の失脚の原因のひとつです。
この事件は当時の天皇・光格天皇が父親である典仁親王に「太上天皇」の尊号を宣下したいと言ったのを、定信が再三拒否したものです。
事件をきっかけに幕府と朝廷の間も緊張関係となり、将軍とも不仲になった結果、定信は失脚したといわれています。
一時的に幕府の財政を建て直し、権威も高めることはできましたが、民衆からの反感が強まり改革は定信の失脚という形で幕を閉じました。
寛政の改革が終わった後、江戸では倹約ムードがなくなり再び華やかな大都市へと戻っていきました。
そのなかで、化政文化という新たな文化が生まれ、浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などが盛んになりました。
化政文化では、読本や滑稽本なども盛んに出版されました。
これは、寛政の改革の出版統制で弾圧された洒落本や黄表紙がもととなっています。
出版統制で弾圧された本は、どんな内容のものだったのでしょうか?
次は、そこを解説していきたいと思います。
出版統制で弾圧された書物は?
出版統制令で禁止されたのは、主に社会風俗に悪影響を与えるものでした。
先に言ったような洒落本は、遊郭を題材とした小説です。
黄表紙は表紙が黄色かったことからこう呼ばれていますが、大人向けの風刺画などの絵本的なものでした。
寛政の改革は幕府への批判や風刺を厳しく取り締まっていましたので、もちろん黄表紙などは処罰の対象となります。
実際に、出版統制令の違反者として洒落本の作者・山東京伝や黄表紙の作者・恋川春町などが弾圧されました。
さらに、この当時は版元という出版元があり、弾圧された2人の本を出していた版元・蔦屋重三郎も弾圧されたといいます。
その他にも『海国兵談』などで外国の脅威を指摘していた林子平は禁固刑に処されるなど、厳しい取締りが行われていました。
さて、ここまで寛政の改革についてみてきました。
江戸時代にはこの寛政の改革の前後に、享保の改革、天保の改革という三大改革が行われました。
次は、内容が混同されやすいこの三大改革の違いについてみていきたいと思います。
江戸三大改革「享保」「寛政」「天保」の違いは?
江戸三大改革である、享保の改革、寛政の改革、天保の改革が混同されやすいのは、改革が行われるに至った時代背景が似ているからです。
似ている時期に行った改革のため、目的や内容が似てしまうのが一番のややこしいところです。
三大改革は、どれも江戸幕府が始まって100年以上経過してから行われました。
最初に述べたとおり、1700年ごろには幕府の財政は悪化しており、慢性的で深刻な財政難に陥っていました。
さらに、享保の大飢饉でもみたように、天候不順や虫害による被害で不作が発生すると、それだけで飢饉が起き、餓死者が続出します。
不作は飢饉だけでなく、米価の高騰も招きますから、打ちこわしや百姓一揆などの暴動も頻発することとなります。
これらの問題を解決しようと、それぞれの時代で改革が行われました。
改革が行われた背景は、このようにすべて似たり寄ったりです。
そもそも、状況が似ていなければ前の改革を参考にすることもできませんよね。
では、似た状況で行われた三大改革にはどんな違いがあるのでしょう?
ここでは、わかりやすく箇条書きでそれぞれの改革の違いを見ていきたいと思います。
享保の改革
- 1716年~1745年にわたって行われた長期の改革
- 主導者は8代将軍徳川吉宗
- 目安箱を設置し、町民の意見を内政に反映させた
- 漢訳洋書の輸入を緩和し、学問を奨励した
- 上米の制を定め、代わりに参勤交代を短くした
- 相対済し令により、金銭トラブルは当事者同士で解決するようにした
- 改革はある程度成功した
寛政の改革
- 1787年~1793年にわたって行われた改革
- 主導者は老中松平定信(将軍は11代徳川家斉)
- 人返しを行い、出稼ぎを制限した
- 囲米の制で飢饉に備え、米を蓄えさせた
- 寛政異学の禁により、朱子学以外の講義を禁止した
- 棄捐令を出し、旗本や御家人の借金を帳消しにした
- 庶民の反感が強まり、失敗した
天保の改革
- 1841年~1843年に行われた改革
- 主導者は老中水野忠邦(将軍は12代徳川家慶)
- 人返し令により、出稼ぎや江戸への移住を禁止した
- 株仲間を解散させた
- 江戸大阪周辺の土地を没収する上知令を出すも、反発にあう
- 厳しすぎたため、失敗した
まとめてみると、それぞれこんな感じになります。
大きな違いとしては、改革を行った年数と指導者ですね。
また、どれも幕政を立て直そうとした改革でしたが、成功したかどうかにも大きな違いがでてしまいました。
厳しすぎては反感を買ってしまうし、緩すぎては改革にならない。
なんとも難しい問題ですね。
しかし、すべてに共通するのは幕政をよりよくしようという思いと、税収を安定させたいということでした。
指導者達の地位は違えど、国を思う気持ちは同じだったのですね。
では、寛政の改革についてわかりやすく整理しましょう。
まとめ
最後に、寛政の改革についてまとめます。
- 「寛政の改革」は江戸時代中期に老中松平定信によって行われた財政改革
- 享保の改革を手本とした
- 飢饉に備え、各大名に囲米を命じた
- 江戸に住む人々には七分積み金を命じた
- 旧里帰農令を出し、出稼ぎに来ていた人を農村に帰らせた
- 寛政異学の禁で、朱子学以外の学問を禁じた
- 出版統制令を出し、幕府の風刺や批判を取り締まった
- 洒落本の山東京伝、黄表紙の恋川春町などが弾圧された
- 棄捐令を出し、旗本や御家人の借金を減らした
- 改革は民衆の反感が強まり失敗し、松平定信は失脚した
まとめたことで、少しわかりやすくなったかと思います。
本文では触れませんでしたが、寛政の改革当時の将軍は11代将軍・徳川家斉でした。
定信が失脚したあと、家斉は55人もの子供を作って派手な生活をしていた、ともいわれています。
これでは、定信が頑張って改革を行ったところで、幕府の財政は改善されなさそうですね。
老中という仕事も、いろいろツラいものだったのかもしれませんね。