参勤交代とは?目的や意味を解説!実は道中で殿様が死んでいた!?

今回は参勤交代について解説していきたいと思います!

 

  • 参勤交代とは?
  • 参勤交代の目的や費用、かかる日数について
  • 参勤交代は男だけ?
  • 参勤交代を免除される藩もあった?

 

他にも参勤交代をさぼるとどうなってしまうのか?

や参勤交代は道中で殿様が死んでしまうほどの重労働だった?

 

など参勤交代の全容を細かく解説していきたいと思います!

 

まずは参勤交代とは何か解説していきますね。

参勤交代とは?

参勤交代
参勤交代

参勤交代とは江戸時代の大名統制策の一つで、原則として一年交代で諸大名を江戸と領地とに居住させた制度です。

 

  • 「参勤」:国元から江戸へ赴く事
  • 「交代」:国元に帰還する事

 

を意味します。

 

江戸と領地との往復は大名行列で移動します。

大名行列は出陣の隊形をとり、髭奴を筆頭に金紋先箱・槍持ち・徒士など前駆が続き、大名の駕籠を馬廻り・近習などが固め、草履取り・傘持ち・茶坊主・騎馬などが続きます。

 

参勤交代のルーツは鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服従儀礼として始まったものが原型と言われています。

その後、戦国時代に豊臣秀吉が天下を取り大阪城に入ると、従属する大名の屋敷を大阪城下に置き、大名の妻子を住まわせています。

 

江戸時代が成立すると、原則として1万石以上の大名は妻(正妻)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸の藩邸に事実上の人質として、常時住まわせていました。

慶長7(1602)年、前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い例です。

 

最初は、諸国の大名は将軍家に対して忠誠を誓う意味で、自主的に「参勤」していました。

ですが、徳川家3代将軍の徳川家光が1635年に「武家諸法度」を改定して制度化されました。

 

往復や江戸屋敷の経費は大名財政を圧迫したが、交通の発達や文化の全国的な交流を促すなど各方面に影響を与えました。

 

次は参勤交代の目的について解説していきますね。

目的

参勤交代の目的には2つの説があります。

 

  1. 徳川幕府と諸大名との絶対的主従関係を明確にするための軍事儀礼
  2. 大名を定期的に江戸に出仕させることで各藩に財政的負担を与え、妻子を人質に取り、幕府(徳川家)に謀反を起こさせないようにすること

 

しかし、国元から江戸までの旅費だけでなく、江戸の滞在費まで大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けることとなりました。

また、人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たしたと言われていますが、これはあくまでも副次的な結果に過ぎないのでは?というのが現在の研究者たちの考えです。

 

そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒。

なので、「大名行列は身分相応に行うべき。」と参勤交代での大名行列の数を減らすよう幕府側が大名側へ通達を出していることからも、当初幕府にはその意図はなかったのではないかということが読み取れます。

 

ですから、幕府が参勤交代という制度を定めた最大の目的は、1年ごとに壮大な軍事パレードの形をとる大名行列で江戸まで出向かせ、将軍に忠誠を誓うための挨拶をさせることで、大名たちに自分の立場を思い知らせるためのものだったという説が今の主流となっています。

 

次は参勤交代の費用について解説していきますね!

参勤交代の費用

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参勤交代の費用は大人数で長距離を移動するので、とにかくお金がかかりました。

江戸からの距離により異なりますが、参勤交代の費用は、藩収入の5%〜20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%〜75%が当てられていました。

 

『御道中日記』という参勤交代の移動日数や費用について記されている記録によると、

 

  • 東北地方の仙台藩(現在の宮城県)・伊達家:3000〜5000両
  • 北陸地方の加賀藩(現在の石川県)・前田家:5333両
  • 山陰地方の鳥取藩(現在の鳥取県)・池田家:5500両
  • 九州地方の薩摩藩(現在の鹿児島県)・島津家:17000両

 

だったそうです。

現在のお金の価値(1両=10万円として)に換算すると一回の参勤交代で、

 

  • 仙台藩:約3億〜5億円
  • 加賀藩:5億3千万円
  • 鳥取藩:5億5千万円
  • 薩摩藩:17億円

 

も使っていたことになります。

参勤交代の費用が諸大名にかなりの負担を強いていたことがわかりますね。

 

次は、参勤交代にかかる日数について解説します!

参勤交代にかかる日数

参勤交代の際にかかる日数は各藩から江戸までの距離によって異なります。

 

例えば、加賀藩・前田家の場合では、藩庁となる金沢城から江戸城までは119里(480㎞)あり、江戸到着までは13日を要したと『御道中に日記』に記されています。

 

また山陰地方の鳥取藩・池田家では180里(720㎞)で22日、九州地方の薩摩藩・島津家は440里(1700㎞)40〜60日という日数を要したと言われています。

 

江戸から遠い藩は相当辛い思いをして参勤交代をしていたことがわかりますよね。

 

では次は参勤交代の人数について解説していきます。

参勤交代の人数

参勤交代の人数は大名の石高によって異なります。

 

享保6年(1721年)の規定では、

 

  • 1万石以上:約50人
  • 5万石以上:約170人
  • 10万石以上:約240人
  • 20万石以上:約450人

 

と決められていました。

全国の大名行列の平均的な人数は100〜300人だったと言われています。

とはいえ、「加賀百万石」で知られる前田家では、5代藩主綱紀のときに最大「4000人」の行列だったと言われています。

 

幕府側も大名たちが参勤交代の費用で財政が窮しているのをみかねて、「もっと人を減らすように。」と命令をします。

ですが、大名側からしたら、「貧弱な行列を他の大名や通行人、自国の領民に見られるのは恥以外の何者でもない!」という見栄があり、なかなか減らすことができなかったようです。

 

江戸時代の大名たちは「武士は食わねど高楊枝」と言われるように、どんなに辛くても、プライドを保つために必死だったんですね。

 

次は参勤交代は男だけ?について解説していきますね!

参勤交代は男だけ?

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基本的に行列は男性のみで構成されていました。

 

しかし、藩主の身の回りの世話を行う女性たち(侍女)も参勤交代に伴い、任地に赴く必要があったことから、彼女らは藩主の通行の数日前か後に、行列とは別個に移動していました。

これは、体力的問題(連日40㎞歩行)を配慮しての措置でしょう。

 

一方で、変わった同行者もいました。

久留米藩主・有馬則維はペットとして飼っていた将軍拝領の「犬」を行列に連れていました。

有馬氏は今で言う愛犬家だったんですね。

 

では次は、参勤交代を免除されていた特別な藩についてご紹介していきますね。

参勤交代を免除された藩もあった?

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通常、大名といえば1万石以上の石高をもって大名と呼ばれます。

しかし、わずか5千石で10万石の格式とみなされ、江戸幕府から優遇を受けていた小さい藩があったのです。

その名は喜連川藩です。

 

では、なぜ喜連川藩が優遇され、参勤交代も免除されていたのでしょう。

それは、喜連川家の家柄にありました。

 

喜連川藩は下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市)にありました。

そして、室町幕府を創設した足利尊氏の息子である基氏の流れを汲んでいます。

 

足利家は清和源氏の血流であることを称しており、徳川家も源氏の血流を称していました。

そのため、同じ源氏であり将軍家まで努めた足利家に連なる喜連川家の格式を優遇したのです。

 

一応、自主的には参勤交代をしてはいたようですが、妻子を江戸に置く義務もなく、賦役も免除されていました。

そして、喜連川藩は「御所号」を許されていました。

これは藩主を「御所さま」と呼ぶというものですが、この呼び方は天皇や皇族にしか使われないような呼び方だったので、かなりの高位待遇だったということがわかります。

 

しかし、一方で、正装は素襖という六位以下が着る装束となっていて、官位もなかったようです。

大名と旗本、どちらの枠にも当てはまらない不思議な存在だったようですね。

 

他に、水戸徳川家など一部の将軍親族や老中や若年寄など幕府の要職に就いている家なども江戸に定住するものとされたため、参勤交代をしませんでした。

それに特別措置として外様大名でも藩主の代替わりや自藩内の災害・事故などの有事があれば、特別に免除されていたようです。

 

次は、参勤交代は1年おきとは限らない?について解説していきますね!

参勤交代は1年おきとは限らない!?

基本的には「1年おきに江戸へ来て、1年を江戸で過ごす」が原則でしたが、例外もありました。

例を挙げると、江戸からとても遠い藩の場合です。

 

今の北海道に当たる蝦夷地に領地があった「松前藩」は、あまりにも江戸から遠いので「参勤交代は5年おき、江戸滞在も4ヶ月」という例外措置を受けていました。

その逆で、江戸からとても近い関東の多くの大名は「半年ごとに国元、江戸を往復する」よう定められていました。

 

また、長崎警護の任を与えられていた福岡藩および佐賀藩は「2年おきに100日を交代で江戸で過ごす」よう定められていました。

対馬藩も朝鮮通信使の接待をすべて対馬藩の費用で行っていた為「3年おき、江戸滞在4ヶ月」とされていました。

 

また、幕府の財政難を背景に、一時期だけ参勤交代が短縮化されたことがあります。

享保7年(1722年)八代将軍吉宗のときに「上米の制」と呼ばれる石高1万石に対して100石の米を上納させる代わりに、江戸滞在を半年とする例外措置をとったことがあります。

この措置には幕府内に反対意見もあったり、幕府の財政再建のめどが立ったことから8年ほどで終わりました。

 

では次に、参勤交代をさぼった大名はどうなってしまうのかについて解説していきます。

参勤交代をさぼるとどうなるの?

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参勤交代をさぼったり、遅刻をするのは武家諸法度に違反したこととなり、処罰の対象となりました。

 

例えば、元和9年(1623年)に、福井藩主の松平忠直は参勤交代を怠ったことにより、隠居のうえ豊後(現在の大分県)に流罪となりました。

 

忠直は大阪冬の陣で、傭兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大阪城へ真っ先に攻め入るなど戦功をあげました。

しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていきました。

 

病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌年には自分の正室である「勝姫」の殺害を企てたり、自分の家臣を討つために軍勢を差し向けるなど乱行が目立つようになり、幕府側が処罰したと言われています。

 

さらに、寛永13年(1636年)には盛岡藩主の南部重直は到着予定より10日程遅れてしまい、約2年江戸で蟄居させられています。

 

とはいえ、藩主が参勤交代の旅路で病気になったり、川留めで遅れが出るケースは多々ありました。

こうした不測の事態では、幕府に速やかに報告さえすればお咎めはありませんでした。

 

次は参勤交代の大名行列は、かなりの強行軍だった⁈について解説していきます!

行列は実は強行軍!?のんびりなんかしてられない?

参勤交代の大名行列はかなりの強行軍でした。

 

福井藩の例で見ると、東海道が使われた場合は1日平均約9.8里。

つまり、「1日あたり40キロ程度の移動」となります。

 

朝の出発は大体午前5時から6時、途中昼食や小休止をはさみながらも「約10時間」を踏破し、夕方5時頃に宿泊先の本陣に入りました。

それに、今のように道は舗装されていませんし、通る道によっては坂や山道などもあったでしょうから、体力的には厳しいものでした。

 

なにか支障がない限り休日もなく、それぞれ割り当ての荷を背負っての行軍ですから、実際はかなりハードな強行軍だったようですね。

 

次は、道中で殿様も死んでしまう程の重労働だった?について解説していきます。

道中で殿様も死んでしまうほどの重労働?

参勤交代のスケジュールは綿密に計画されていました。

大人数の大名行列ですから、出費の内訳は人件費と宿泊費が最も多く、宿はあらかじめ予約してありました。

 

もし、1日遅れが出ると莫大なキャンセル料が発生しますし、遅れれば遅れるほど費用は嵩んでいきます。

家臣が全てを細かく取り仕切り、お殿様はそれに従って行動していたと言います。

 

お殿様は自分の藩の財政を考えると、体調が悪くても1日宿でゆっくりと休みたいとも言えないし、長時間お籠で揺られている体の負担も大変なものだったらしく、体調不良で死んでしまったお殿様もいたと言われています。

今で言うブラック企業での過労死ですね。

 

次は参勤交代をテーマにした映画についてご紹介していきますね。

参勤交代をテーマにした映画

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参勤交代をテーマにした映画で有名なのは「超高速!参勤交代」とその次作「超高速!参勤交代 リターンズ」です。

 

主人公は東北地方の小藩・湯長谷藩の4代目藩主・内藤政醇。

江戸での勤めを終えて無事帰国を果たした政醇の元に、江戸幕府大老・松平信祝から「5日にうちに参勤せよ!」との厳命が下されるのです。

 

湯長谷藩が所有する金山の調査内容に疑義があるため、というのはあくまでも建前上の理由。

その裏には無理難題を突きつけて藩を取り潰し、金山を取り上げてしまおうという信祝の魂胆が隠れていました。

 

貧乏な小藩には幕府の命令に応じるための資金も人手も時間もありません。

追い詰められた湯長谷藩が講じた奇想天外な策とは…。

 

というのがあらすじです。

参勤交代の大変さや、貧乏藩の工夫などが面白く描かれています。

時間がありましたら是非ご覧になってみて下さい。

 

最後に参勤交代についてまとめていきたいと思います。

まとめ

では参勤交代についてまとめていきますね。

 

  • 参勤交代とは江戸時代の大名統制策の一つで、原則として一年交代で諸大名を江戸と領地とに居住させた制度で、正妻と跡継ぎは江戸に定住させていた
  • 参勤交代の目的は幕府と諸大名との絶対的主従関係を明確にするための軍事儀礼だった
  • 参勤交代の日数と費用は江戸までの距離によって変わるが、加賀藩前田家は「13日で5億3000万円」、薩摩藩島津家は「40〜60日で17億円」程度かかっていた
  • 参勤交代の人数は幕府が石高ごとに規定があった
  • 平均的な人数は100〜300人だったといわれているが、諸大名は見栄を張って、どんどん人数を増やし豪華な大名行列にしてしまう傾向にあった
  • 参勤交代の大名行列は男性だけで構成されおり、藩主の身の回りの世話をする女性たち(侍女)は藩主の行列とは別個で数日前か後に移動していた
  • 水戸徳川家など一部の将軍親族や老中や若年寄など幕府の要職に就いている家や、室町幕府を創設した足利氏の血を引く喜連川藩は参勤交代を免除されていた
  • 基本的には「1年おきに江戸へ来て、1年を江戸で過ごす」が原則だったが、例外として、江戸から遠い藩、近い藩、長崎警護の任を与えられている藩、朝鮮通信使の接待を任せれている藩はそれぞれに特別措置があった
  • 参勤交代をさぼったり、遅刻してしまうと武家諸法度に違反したことになり、厳しい処罰があった
  • 参勤交代の大名行列はかなりの強行軍で、1日平均10時間、40キロ程度を移動しなければならなかった
  • 参勤交代は殿様にとってもかなりの重労働で、道中体調不良で死んでしまう殿様もいた
  • 参勤交代をテーマにした映画「超高速!参勤交代」「超高速!参勤交代 リターンズ」がある

 

まとめると少しわかりやすくなりましたかね。

 

参勤交代は、江戸時代に幕府が行った代表的制度としてよく知られていますが、詳しく調べれば調べるほど大名たちに財政的、体力的負担を強いていた事がわかってきました。

 

幕府に力があった時は良かったですが、幕末に近づくにつれて幕府の弱体化が進み、統率力が低下していきました。

そうなると、本来幕藩体制を強化するための象徴だった参勤交代制度が、積年の反幕思想の底流になっていってしまった可能性があります。

 

徳川幕府が200年続いたのも参勤交代という制度があったから実現したことですが、徳川幕府が倒されたのも参勤交代での苦しみから来る積年の想いからだったのかも知れませんね。

 

筆者である私も「超高速!参勤交代」を映画で見ましたが、時代劇や映画で何気なく見ている場面でも、歴史を学んで詳しくその事柄を知ってからだと、違う見方や、新たな発見ができるのではないかと感じました。

 

皆さんもこの記事を読んでから「超高速!参勤交代」を是非見て下さい。

より楽しめると思いますよ!

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