今回解説するのは江戸幕府が大名を統制するために出した法律である武家諸法度!
この法律は徳川家を潰したくてウズウズしていた大名に対して徳川家が対策した法律なんですが、果たしてこの法律はどんな内容だったのでしょうか?
- 武家諸法度の代表例である元和令、寛永令、天和令とは?
- なんで幕府は殉死を禁止にしたのか?
- 参勤交代を免除、緩和された大名がいた!?
- 武家諸法度と禁中並公家諸法度の違いとは?
今回は江戸幕府が安定した最大の理由とも言える武家諸法度について見ていきましょう!
目次
武家諸法度の目的と内容とは?
「武家諸法度」とは、江戸時代に江戸幕府によって大名に対して出された法律のことです。
1603年に徳川家康によって成立した江戸幕府は、大坂の陣にて豊臣家を滅ぼすと、徳川家に刃向かう大名を抑えつけようとこの武家諸法度を発令して大名を統制しました。
まずは武家諸法度とはどんな内容だったのかを特に有名な三つの法律を見ながら説明していきたいと思います!
元和令
今の教科書では武家諸法度で統一されていますが、実は武家諸法度にも色々存在しているんですよ。
その色々ある武家諸法度の中でも一番最初に発令されたのが「元和令」でした。
元和というのは簡単に言えば元号。
平成とか昭和などと同じようなものです。
さてこの元和ですが、この元号になったのが1615年。
勘のいい方ならすぐにわかるはずですが、実はこの年は徳川家が豊臣家を滅ぼした年と同じなんです。
徳川家としたら豊臣家を滅ぼすという最大のミッションを終わらせたのですから次は武家の統率に動き出したということなんですね。
ちなみに、この時の将軍は第2代将軍徳川秀忠です。
さて、この元和令の内容ですが、主なものは城の建築と改修の禁止(一国一城令)と政略結婚の禁止です。
徳川家としたらもし刃向かった時に城が沢山あると攻略するのに面倒です。
そこで城を一つの領地に1つしか認めないとすることで簡単に刃向かえなくしたのです。
政略結婚の方も反徳川家勢力同士で連携されてもらっても困りますのでこれに対処したと見ることができます。
ちなみに、いつの場合もそうですが、この武家諸法度に違反した場合は問答無用で改易となります。
これのせいで熊本藩の加藤家や広島藩の福島家が改易処分を喰らっています。
まぁ、この両家はバリバリの豊臣恩顧の大名だったのですがね...
寛永令
次に紹介するのは寛永令。
寛永という元号は1624年から1645年まで使われていた元号であり、この時の将軍は第3代である徳川家光でした。
この寛永令という法律は簡単に言えば元和令にさらに追加要素を足したようなもの。
その通りに寛永令はさらに大名が幕府に刃向かえないようにしていきます。
そんな寛永令の代表例が参勤交代の義務化と大船建造の禁でした。
参勤交代というのは簡単に言えば大名は江戸に一年おきに行かなければいけないよというものです。
家光からしたらこの参勤交代をすることによって大名が幕府に恭順であることをチェックすると同時に藩の財政をひっ迫させることができます。
大船建造の禁とは簡単に言えばデカイ船を作ってはダメというものです。
だってデカイ船で江戸に攻めてこられては幕府としては大変ですからね。
天和令
次に紹介するのは天和令。
天和という元号は1651年から1654年まで使われた元号であり、この時の将軍は第5代である徳川綱吉でした。
徳川綱吉は生類憐みの令の発令した犬公方としても有名ですね。
さて、天和令なんですが、この頃になると徳川家に刃向かえる大名はいなくなっていました。
さらに逆に改易し過ぎたために、この元和令の内容はこれまでとは違いだいぶ内容が異なる内容となっています。
例えば、
- 藩主が死ぬ直前に養子をもらう末期養子の緩和
- 藩主が死んだ時に後追い自殺をしないようにする殉死の禁止
など、浪人をなるべく増やさないようにして治安を良くするために努力します。
また、綱吉は朱子学という学問が大好きであり藩主に対しても学問を進めようとします。
そのためこの天和令ではこれまでの場合とは違い第1条が「文武忠孝を励まし、礼儀を正すこと」として武芸を磨くのはいいけどその分勉強もしろよ?という形で命令していました。
この天和令の発令はこれまでの権力で潰すという武断政治の形から学問によって安定させるという文治政治の形に様変わりした象徴の法律だったのですよ。
さて、こうして幕府は武断政治から文治政治へと切り替わっていきましたが、次はなんで殉死の禁止をしたのかを見ていきましょう!
徳川家綱はなぜ殉死の禁止を命じたのか?
天和令では上にも書いた通り、藩主が亡くなった時に後追い自殺をする殉死を禁止しています。
でも「なんで殉死を禁止したの?別に自由じゃんそんなの」と思いますよね?
では例えば将軍が亡くなったとします。
そうなると幕府内では本当に有能だった幕府の老中たちが殉死してしまい、有能な人材がいなくなってしまいます。
そうなると幕府は無能な人物がのうのうと生きるような事態に陥ってしまい、幕府の運営が成り立たなくなってしまいます。
だからこそ徳川家綱とその家臣である保科正之は殉死は無意味として禁止したのですね。
さて、ここまでは武断政治から文治政治に変わっていった話をしていきましたが、次は武家諸法度の代表例である参勤交代について見ていきましょう!
参勤交代を免除された大名がいた!?
武家諸法度の中でも特に有名な条文といえばなんといっても参勤交代。
一年おきに一度江戸に向かうことを強制させて藩の財政をひっ迫させて幕府に刃向かえなくしました。
しかし、幕府も鬼じゃありません。
とある事情がある藩の場合ならば参勤交代の頻度を緩和、挙げ句の果てには免除された藩もあったのです。
その免除された藩が水戸藩でした。
水戸藩といえば時代劇でも有名な徳川光圀(水戸黄門)が藩主を務めていた藩です。
ただ、なんでこの藩が免除されていたのかというとなんと地理的に近すぎて参勤交代の意味がないという普通にシンプルなもの。
さらに水戸藩は徳川家康の子孫が治める御三家の一つですので裏切るわけがないだろうというわけで参勤交代は無しとなっていました。
さらに免除とはいかないものの、松前藩と対馬藩と福岡藩と佐賀藩は参勤交代の日数と頻度を下げています。
松前藩という藩は今の北海道の付け根にある渡島半島を領有していた藩であり、北海道の民族アイヌとの交易を任されていました。
そのためその交易の代表である藩主が江戸に行くことは交易の損になる可能性があります。
そのため幕府は参勤交代によって忠誠を誓わせるより交易による利益の方を追求してほしいという理由で松前藩は5年に一度でええでという形となりました。
以下の藩も同じように対馬藩の場合ならば朝鮮との貿易、福岡藩と佐賀藩(この藩たちは代わりばんこ)はオランダと清と交易している長崎の警護のために緩和されていたのでした。
その他にも、
- 藩主が病弱なら緩和
- 水戸藩と同じように関東地方にある藩なら免除か緩和
- 老中などの幕府で働いている藩主ならそもそもやる必要がないため免除
などいろいろな理由で参勤交代が無しになったり緩くなったりしていたのです。
さて次は武家諸法度に並んで有名な法律である禁中並公家諸法度との違いについて見ていきましょう!
武家諸法度と禁中並公家諸法度の違いとは?
武家諸法度と並んで幕府が発令した代表例として禁中並公家諸法度というものがあります。
一見すると同じようなものに見えますが、実はこの法律は縛り付ける相手が全然違うのです。
武家諸法度というのは武家に対する諸法度。
つまりは幕府が大名を統制するための法律でした。
その一方で禁中並公家諸法度とは禁中(天皇)と公家に対する諸法度。
つまりは公家や天皇が幕府に刃向かえなくするために出された法律だったのです。
幕府はこのように様々な種別の人にそれぞれの法律を発令して江戸幕府を安定させていったのですね。
それではまとめに入ります。
まとめ
こうして江戸幕府は武家諸法度のお陰で大名の統制に成功し、265年の間平和な時代を迎えることができましたが、ここでまとめに入りましょう!
- 武家諸法度は1615年に幕府が大名を統制するために出された法律のこと
- 武家諸法度とはいろいろな大名を統制するための法律の総称であり、その中でも元和令と寛永令と天和令が有名
- 幕府は有能な人材を失いたくなかったから殉死の禁止を出した
- 大名は一年おきに江戸に行く参勤交代を強制されたが、江戸に近く御三家の一つである水戸藩は免除されており、さらに貿易や警護のためや、藩主に特別な事情があれば緩和された
- 武家諸法度とは大名を統制する法律。禁中並公家諸法度は天皇と公家を統制する法律のこと
最後になりましたが、江戸幕府はこれまでの鎌倉幕府や室町幕府とは違い、もっとも平和で安定した幕府だと言われています。
その裏にはこのような武家諸法度みたいな法律を早めに制定したという裏側があったからだったのかもしれませんね。