今回解説していくのは犬公方として有名である徳川綱吉!
彼といえば生類憐みの令を発令したイメージが強いのですが、今回はそんな徳川綱吉について
- 徳川綱吉の身長の真相
- 綱吉が出した生類憐みの令について
- 徳川綱吉の政治について
- 徳川綱吉と忠臣蔵の関係
などを詳しく解説していきたいと思います!
目次
徳川綱吉の身長は124センチの小人だった?
実は徳川綱吉の身長が124センチだった説があります。
この説のもととなっているのが、徳川ゆかりの地である愛知県岡崎市にある大樹寺にある徳川歴代将軍の位牌。
この位牌は実は将軍が亡くなった時の身長と同じサイズで作られているとされており、そのサイズを見ると綱吉は124センチであったと言われているのです。
これだけならまだ信憑性が低いのですが、徳川家に関する調査によって寛永寺に眠っている遺骨を取り出してみると、この位牌と遺骨の長さがほとんど同じであったという結果が出たのです。
それにより、124センチではないかもしれませんがそれに近い身長であったと考えられているのです。
犬バカ殿様というあだ名で呼ばれた理由
綱吉といえば必ず思いつくのが生類憐みの令。
この法は要するに「動物を大切にしなさい!」というもの。
ただ、これがあまりにも度が過ぎているとされており、中野には総檜造りの広大な犬小屋が建てられ、生き物を殺したら死罪は当たり前という動物と人間の価値が逆転する事態にまで発展してしまいます。
そのせいで民衆からはめちゃくちゃ不人気だったそうで、綱吉のことを犬を溺愛している将軍という意味を込めて「犬公方」と陰ながら言っていたんだそうです。
生類憐れみの令の真相
民衆から悪法という評価が絶えなかった生類憐みの令。
しかし、最近ではこの生類憐みの令はただ単に動物を保護するだけではなく、また他に別の目的があるのだという事がわかってきました。
時代は遡って江戸時代前期。
この頃はまだ戦国時代の荒々しい気質がいまだに残っており、病人や牛馬などが使えないと判断したら見捨たりするなど生き物を大切にする風習があまり根付いてはいませんでした。
この状況を見て真に平和を迎えたい綱吉は文治政治を行なって儒学を中心とした政治に戻したかったのですが、なかなか民衆たちの意識が変わることはありません。
そこで出された法律こそが生類憐みの令だったのです。
ちなみに、犬を保護した事がクローズアップされる事が多いのですが、実際には捨て子の対策がなされており人間を軽視しているだけではありませんでした。
しかし、20年も行なっていくうちに政策は徐々に過剰になっていって蚊を殺しただけでも流罪になるぐらいエスカレートしたのも事実。
果たして生類憐みの令が良かったのか?本当にその事がわかるのはもう少し後になるのかもしれません。
徳川綱吉の死因の噂と真実
徳川綱吉は生類憐みの令の苛烈さから様々な人からの嫉妬を買ってしまい暗殺されたという説があります。
記録には流行病であった麻疹の感染によって亡くなったとされています。
ですが、その他にも
- 餅を食べた時に喉に詰まって亡くなった説
- 正室の鷹司信子によって暗殺されたという説
があります。
しかし、この2つの説はどうも正確性に欠けるものであり、結局は麻疹によって亡くなったのが一番有力な説となっています。
徳川綱吉の経歴と年表
徳川綱吉は3代将軍であった徳川家光の四男として1646年に江戸城に生まれました。
幼名は徳松とされています。
その後兄であった徳川家綱が4代将軍となるとそれと同時にそ徳松は元服し、徳川綱吉と名乗りました。
綱吉は将軍にはまだなっていないものの、将軍家の中では特に優遇されている方であり、15歳の時には上野国館林25万石の大名としても取り立てられ、親藩の一つとして藩主となりました。
その後1680年に徳川家綱が亡くなると、幕府内では跡継ぎ問題が勃発。
この時権力を持っていた大老である酒井忠清は朝廷から将軍としてむかえ入れようとする案が出されましたが、これに対して堀田正俊が反対し、その代わりに館林藩主であった徳川綱吉を将軍として据えようということになりました。
そして1680年に徳川綱吉が第5代将軍として就任。
その後綱吉は文治政治という政治方針をとります。
幕府内に儒学者の林信篤を招いたり、幕臣に対して儒教の四書や易経を講義したりするなど精力的に徳についての意識を高めていきました。
しかし、1684年に堀田正俊が暗殺されると綱吉は老中の意見を無視し始め、その代わりに柳沢吉保などといった側用人を重用し始めていきました。
そして1687年に有名な生類憐みの令が発令。
最初は生き物を大切にしましょうという人道主義的な内容でしたが、無視されていくと徐々にエスカレート。
最終的にはどんな生き物でも殺したりすれば処罰されるというとんでもない状態となってしまい江戸の町は大混乱。
このような混乱を起こした徳川綱吉は1709年に麻疹の感染によって64歳の生涯に幕を閉じました。
年表
1646年 3代将軍・徳川家光の四男として江戸城で生まれる
1653年 元服して綱吉となる
1661年 館林藩主に就任
1680年 家綱が死去し5代将軍となる
1684年 大老・堀田正俊が若年寄であった稲葉正休に刺殺される。ここから側用人柳沢吉保らを重用
1687年 生類憐みの令が発令
1709年 64歳で亡くなる
家系図
徳川綱吉の父は第3代将軍である徳川家光、兄に徳川家綱がいました。
ちなみに綱吉は初代将軍である徳川家康からみたら曾孫となります。
性格
綱吉の性格を一言で表すのであれば『勤勉な人』こう表して間違いありません。
綱吉は朱子学をはじめとしていろんな文化に触れており、歴史家の中では綱吉のことを将軍の中ではトップクラスと評する人が多くいます。
名言
『我が生類を憐れむことは行き過ぎであろうとも百年後も守るべしそれが孝行である』
徳川綱吉御殿跡
徳川綱吉は動物を大切にした政治を行いましたが、実は昔綱吉は現在の東京都練馬区に鷹狩りをする場所を設けてさらに御殿を建てていたのです。
今では江戸幕府開府400周年を記念した銅銭の碑文がひっそりと立っています。
墓
徳川綱吉の墓は上野にある徳川家の菩提寺である寛永寺にあります。
寛永寺は徳川家康と親交が深かった南光坊天海が開山してから綱吉を始としため6人の将軍が眠っています。
養女について
徳川綱吉には実子はいませんでしたが、竹姫(浄岸院)という養女迎えていました。
竹姫はこの頃からしたらかなりいき遅れている24歳で島津家に輿入れすることになります。
ちなみに、この竹姫の輿入れから島津家は度々徳川宗家に娘を輿入れさせるようになり、その後天璋院篤姫が正室となる伏線となるのはまた別の話...
徳川綱吉の行った政治や改革について
徳川綱吉といえば生類憐みの令が有名ですが、彼は他にも色々な政治を行いました。
その例の一つが貨幣の鋳造。
綱吉の時代の前までは慶長小判といって金の含有率がとても高い小判を使っていましたが、金の産出が徐々に減少していくと勘定奉行であった荻原重秀を主導に元禄小判を新しく鋳造。
小判の金の含有量を減らし質を落とすことによって小判を大量に製造することができました。
さらには、綱吉は戦国時代から続いてきた荒々しい文化を徹底的に排除して徳を重んじる文治政治を推進。
儒学を重んじたその政治思想がのちに新井白石をはじめとした学者が日の出を見るようになり、彼の政治体制は天和の治と呼ばれるようになったのです。
徳川綱吉は儒学に熱心だった!
徳川綱吉といえば儒学というほど彼は儒学を愛していました。
その力の入れぶりはすさまじいもので自分だけではなく幕臣や大名に対しても儒学の本である四書五経を講義するレベルになり、さらには儒学の創始者である孔子を祀る湯島聖堂を建立して日本における儒学の普及に努めていきました。
また、将軍自ら儒教に関する本を出版するほどだったそうで彼がいかに儒学を愛していたということがわかります。
徳川綱吉は家臣の妻と娘に手を出していた?
綱吉のもう一つの特徴が女癖の酷さ。
ドラマ『大奥』における将軍は彼のことを指すのですが、実際にもこのような女癖だったらしく、綱吉が館林藩の藩主だった頃家老であった牧野成貞の正室であった大戸阿久里という女性を大奥に入れたと言われています。
(ちなみに成貞は下総国の関宿藩に入り藩主となりましたが、正室を奪われていますからね)
しかし、綱吉はそれだけでは飽き足らず、なんと成貞の娘であった安にも手を出して、大奥に入れたという説があるのです。
はっきりいって、女癖の悪さは歴代将軍の中でも指折りの存在ですが、それでも子供がいなかったということが不憫でなりません。
徳川綱吉と忠臣蔵の関係は?
徳川綱吉の治世の時に起こった事件といえば赤穂浪士による吉良邸討ち入り。
簡単にまとめると赤穂藩主であった浅野内匠頭の仇を取るために赤穂浪士が仇である吉良上野介を討ち取ったという話なのですが、この討ち入りについて幕府は大きく悩むことになります。
普段であればこんなこと死罪で当たり前の話なのですが、この討ち入り劇は江戸の民衆を感動させ、幕府の家臣の中には助命すべきだという声が上がっていたんだそうです。
しかし、幕府は悩んだ末に赤穂浪士が徒党を組んで吉良邸に押し込みを働いたとして死罪を申し付けることになります。
しかし、赤穂浪士はあくまでも『武士』として処罰する処置を取ることが決まったようで赤穂浪士は武士の面目を保つために切腹という形となり、さらには赤穂浅野家も旗本ではあるもののお家再興が認められるという寛大な措置がとられました。
徳川綱吉の時代の文化について
徳川綱吉が将軍を務めていた時代は元禄文化という町人を中心とした文化が花開いた時代でした。
この頃には人形浄瑠璃の創始者である近松門左衛門や、『好色一代男』の作者としても知られている井原西鶴などさまざまなな文化人を輩出しましたが、この元禄文化が栄えたのは大阪や京都などの上方と呼ばれる地域が中心だったそうで、将軍とはあまり関係はありませんでした。
徳川綱吉を知ることができる作品
徳川綱吉は幕府の歴史の中でも特に重要な位置にいるため、様々なところで登場しています。
今回はその中でも特に綱吉が主役である『大奥』について触れていきたいと思います。
大奥
徳川綱吉を題材とした作品といえば最近でしたら2005年に放送された『大奥〜華の乱〜』です。
この作品は大奥を扱った3つ目の作品なのですが、その中でも一番女性関係がドロドロしている作品であり、主人公を上でも取り上げた牧野安を主人公としています。
キャスト
主人公であるお安を内田理名が、今回の記事の主人公である徳川綱吉は谷原章介が演じています。
本
徳川綱吉のことをもっと知りたいと思っている人は塚本学が書いた『徳川綱吉』がオススメです。
この作品は生類憐みの令などで毀誉褒貶な評価となっている徳川綱吉の生涯に触れた作品であり、資料などを基づいて、彼の新たなる一面に触れている作品です。
興味を持ったのであれば是非一度読んでほしい本です。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 徳川綱吉は位牌や調査から124センチだと言われている
- 生類憐みの令は生き物だけを大切にした苛烈な法律だと思われがちだが、実は生き物を大切にしようとする意識を芽生えさせようというものであった
- 徳川綱吉は元々館林藩主であったが、兄であった徳川家綱の死に伴って将軍となった
- 徳川綱吉の時代には小判の質を落とした元禄小判が流通した
- 徳川綱吉の時代には赤穂事件が起こり、幕府はその処遇で悩んだ
最後になりましたが、徳川綱吉ほど評価が分かれている将軍はいないと思います。
よく思われていない人物を掘り下げてみるとまた新しい発見ができそうですね!