今回解説していくのは京都守護職として活躍した松平容保!
彼は最後の最後まで幕府のために尽くしてきましたが、今回はそんな松平容保について
- 松平容保の生涯と会津戦争
- 松平容保の名言と家系図とお墓について
- 松平容保と孝明天皇の関係
- 大河ドラマ『八重の桜』について
などを詳しく解説していきたいと思います!
目次
松平容保の最後と波乱の生涯について考察!
松平容保は1835年に美濃の高須藩当主の六男として生まれます。
そしてその後叔父にあたる松平容敬の養子となり、会津藩第9代当主として就任することになりました。
その後は会津藩の家訓が「会津藩は宗家を守護する存在」であることが理由となり、京都守護職に就任。
京都で暴れまわっていた尊王攘夷の志士たちを取り締まる職について京都の治安を守り、新撰組を率いて長州藩士を始めとした尊王攘夷志士を捕縛していきます。
こうして京都の治安を守り、時の天皇であった孝明天皇からも信頼される存在となった松平容保でしたが、1867年に孝明天皇が崩御すると第二次長州征伐で幕府軍が負けたことによって立場は一気に逆転。
倒幕派の公家たちをどんどん擁立していき、鳥羽伏見の戦いではついに容保は天皇に逆らう逆賊の汚名を着せされてしまったのです。
もちろんそんなことは毛頭もない容保。
会津に帰ると謹慎して新政府軍に嘆願書を提出しますが、官軍の同志たちを次々と捕縛していった会津藩がそんなこと許されることはなく、、仕方なく会津藩は徹底抗戦を強いられることに。
しかし多勢に無勢。
会津戦争と呼ばれる戦争は会津藩の敗北で終わり、白虎隊の悲劇などが起こりながら終結。
新政府軍から厳しく処罰されてしまい、会津藩はお取り潰しの上に斗南藩に移封を命じられ、容保は幽閉。
その後1873年に容保は罪を許され東京に移住。
日光東照宮の宮司を務めながら1893年に東京目黒の自宅でひっそりとこの世を去ったのでした。
子孫について
松平容保は新政府から逆賊として恨まれていたため、会津戦争後の彼の子孫たちは苦難の歴史を歩むことになります。
息子である松平容大は会津藩の移封先となった斗南藩の藩主となった後廃藩置県を迎え、貴族院議員となります。
ちなみに、今の徳川宗家である徳川家広さんは松平容保の玄孫です。
イケメン説
松平容保はよくイケメンに描かれることが多いのですが、一番有名な写真を見る限り普通に男前。
この写真は27歳あたりにとられた写真だそうですが、とあるエピソードによると女官たちが密かに狙っていたというものもありました。
名言
『義に死すとも不義に生きず』
(義によって死んだとしても、不義には生きるな)
家系図
松平容保は会津松平家の人だと思われがちなのですが、彼は元々尾張徳川家の支流である高須松平家と呼ばれる家の出身でした。
兄には尾張藩主の徳川茂徳や桑名藩主であり京都所司代の松平定敬などがいます。
ちなみに、今の徳川宗家は容保の男系の子孫です。
墓について
会津藩はおろか、幕府を必死に支えた悲劇の当主松平容保は自身が治めていた会津若松市の院内墓所に眠っています。
この墓所には初代藩主である保科正之から9代藩主である松平容保までがひっそりと眠っています。
ちなみに、元々松平容保は亡くなった小石川区の近くにあった正受院というお寺に葬られ、明治維新から50年である1917年に会津の院内墓所に改葬されたんだそうです。
松平容保と新選組の関係は?
松平容保と切っても切れない関係なのが新撰組。
そもそも新撰組とは京都で暴れまわっていた攘夷志士を取り締まり、京都の治安を維持する今の警察みたいな役職でした。
その成り立ちも複雑なもので元々浪士組として結成とした中で一悶着があり、京都に残留した人が新撰組のメンバーとなったのですが
(ちなみに、この時江戸に帰った浪士の中には山岡鉄舟がいました)、
その浪士組を当時京都守護職であった松平容保は会津藩のお預かり、つまりは京都守護職の部下として登用したのです。
つまりは松平容保は新撰組の上司であったわけなんですね。
松平容保と孝明天皇の関係は?
松平容保と切っても切り離せないのが当時天皇であった孝明天皇です。
松平容保は京都守護職として京都の治安維持に当たりましたが、孝明天皇は彼の誠実さに好感を抱くようになり容保に対して緋色の御衣を下賜されます。
これだけでもかなり名誉なことなんですが、さらに孝明天皇は容保に対して宸翰(天皇自ら書いた手紙のこと。これが下賜されるのはとんでもない名誉である)が与えられ、容保は涙を流すほど感激したんだとか。
その後容保は八月十八日の政変で長州藩士を追い出したり禁門の変では獅子奮迅の大活躍。
孝明天皇はこの時にも勅賞と御剣が容保に下賜しています。
こうして孝明天皇と松平容保の間には並々ならぬ絆が築かれましたが、そんな最中に孝明天皇が崩御した知らせが届きます。
容保の最大の理解者である孝明天皇の死は容保の人生を大きく暗転させることになるのです。
孝明天皇からもらった御神巻を最後まで身につけていた?
松平容保は孝明天皇から送られて宸翰を最後まで手放すことはありませんでした。
容保は会津戦争に敗北すると東京に移住。
さらに1880年には日光東照宮の宮司に任ぜられ、ひっそりと暮らしていくことになります。
容保は晩年になるといつも首から竹筒をぶら下げていましたが、誰もその中身を知らず、また容保自身もこのことを話すことはありませんでした。
しかし、容保が亡くなり、その竹筒が開けられるとその中には
たやすからざる世に武士の忠誠のこころをよろこひてよめる
やはらくも猛き心も相生の松の落葉のあらす栄へむ
武士と心あはして巌をもつらぬきてまし世々のおもひて
孝明天皇から容保に贈られたという御製が入っていたのです。。
容保は最後まで孝明天皇から贈られたご宸翰を手放すことはありませんでした。
容保は逆賊となってしまいましたが、この孝明天皇のご宸翰こそが容保が朝敵ではないことを示す証拠でしたし、また生涯離すことができない最高の自慢だったことでしょう。
大河ドラマ「八重の桜」
幕末の動乱に翻弄された会津藩と松平容保。
そんな幕末の会津藩を描いたのが2013年に放送された大河ドラマである『八重の桜』です。
八重の桜は幕末の会津藩に生まれ、のちに同志社大学の創始者となる新島襄の妻となる新島八重の生涯を描いた大河なのですが、前半部分は会津戦争を軸に描かれています。
会津藩がどのようにしてあのような悲劇の当事者となってしまったのか?それがよく描かれている素敵な作品です。
キャスト
主人公の新島八重は人気女優である綾瀬はるかさん、今回の主人公である松平容保は綾野剛さんが演じています。
両方とも八重の桜では重要なキーマンとなっているのですが、とても感情よく演じており、当時の状況をそのまま表しているため是非一回見てみてはどうでしょうか?
それではまとめに入ります!
まとめ
- 松平容保は美濃の高須藩に生まれたが、のちに会津藩主の養子となり京都守護職も務めた
- 松平容保は新撰組の上司として京都の治安維持に当たった
- 松平容保が藩主を務めた会津藩は会津戦争で負けると斗南藩に移封となり、容保は東京にてひっそりと晩年を過ごした
- 孝明天皇は容保のことを信頼しており、御宸翰を贈ったりするなど容保の最大の理解者として彼を支え、容保は生涯このご宸翰を手放すことはなかった。
- 大河ドラマの『八重の桜』は新島八重を始め、会津戦争や松平容保のことを描いている
最後になりましたが、松平容保は会津藩の家訓を胸に幕府を最後の最後まで守った生涯を送りました。
信念の元で幕府を支えた彼の生涯は今をなお人々に愛される存在となっているのです。