今回解説していくのは江戸幕府の制度を確立させた徳川家光!
武家諸法度の改定や鎖国制度の確立など様々など様々な政策を打ち出していきましたが、今回はそんな徳川家光について
- 徳川家光は絵が趣味だった?
- 徳川家光と弟の関係について
- 徳川家光の経歴と年表
- 徳川家光の墓の場所
などなど詳しく解説していきたいとおもいます!
目次
徳川家光は絵が得意?
武家諸法度を改定や、様々な大名の改易を断行したことによってかなり苛烈な性格であったと言われている徳川家光。
しかし、彼には絵がとても好きで、度々絵を描いて家臣に与えていたんだそうです。
作品の出来はというと絵心がないとまではいかないものの、特段として上手くもないまさしくヘタウマな絵であったんだとか。
現存する意外なほどかわいい作品たち
武断派だと思われがちな徳川家光なんですが、彼が描いたとされる絵は独特的なものばかり。
特にフクロウの水墨画は男性が描いたとは思えないほどのかわいい仕上がりとなっています。
絵を家臣にプレゼント?
徳川家光は政務の傍らで絵を描いていたとされ、さらにその作品を家臣にプレゼントしていたという記録が残されています。
とてもかわいい作品なのですが、将軍の絵ということになると扱いもとても難しいものとなったと思いますね。
徳川家光の経歴と年表
1604年 江戸にて徳川秀忠の次男として生まれる
1620年 徳川家光が元服
1623年 江戸幕府第3代将軍に就任する
1635年 武家諸法度を改定 参勤交代を義務付ける
1641年 オランダ商館を長崎の出島に移して鎖国を完成させる
1651年 江戸城にて死去
徳川家光の性格が変?
徳川家光はかなり攻撃的な性格であったと言われています。
将軍就任の時に「私は生まれた時からの将軍である」と声高々に発言していったのを始め、剣術を好み、剣術家としても名が高い柳生宗矩に師事していました。
さらに、彼はあの暴れん坊将軍のように変装して夜の江戸を徘徊したとも言われており、さらに女装癖があったとも言われています。
これだけ見たら変人と言われてもおかしくないようなものですが、どうなんでしょうかね?
家光の名言
衆人みなこれをほむるは必ず美上にあらず
(みんなに好かれている人は決して立派ではない)
徳川家光は本当に春日局の子供なのか?
徳川家光が将軍になったきっかけとなった人物である春日局。
しかし、よく徳川家光は春日局の息子だと思われがちです。
実はそれは間違いで実際は崇源院(お江)という女性でした。
織田信長の妹であるお市の方の娘であり、浅井三姉妹の末子として大河ドラマにもなっていますね。
では、春日局はどんな女性だったのかというと、彼女は家光の乳母であったと言われています。
乳母というのは本当の母に代わってお乳を飲ます女性のことで、鎌倉時代以降になるとその子供の養育係としての役割も果たすことも出てきました。
徳川家光の場合だと崇源院は弟の徳川忠長を愛していたため、その代わりに養育係であった春日局が家光のことをサポートしていたのです。
弟を自害させた理由と真相
徳川家光といえば弟であった徳川忠長を自害に追い込んだことでも知られていますが、実はそれには家光なりの悩みと跡継ぎ争いがありました。
元々、徳川家光は次男でありながらも長男がなくなっていたため嫡男としての身分としての地位にいました。
例えば、家光の幼名は家康の幼名でもある竹千代と名乗っていたのです。
しかし、徳川秀忠と崇源院の間に徳川忠長(国千代)か生まれると事態は一気に変わっていきます。
家光は容姿はあまり良くなく、さらに幼少の頃は吃音に悩まされていたため、家光は嫡男ながらも将軍としては相応しくないと徐々に秀忠と崇源院から疎まれていきます。
それに比べて忠長は聡明で明るく、秀忠は忠長に将軍職を譲ろうと画策。
一種のお家騒動の事態に発展することになりました。
家光には乳母であった春日局が付いており、春日局は家光の祖父である徳川家康に「嫡男に家督を継がせなければお家騒動の元になる」と必死に説得。
大御所の鶴の一声を使い、家光を次期将軍にさせることに成功しました。
しかし、忠長からしたらこれは全く面白くない。
忠長は家光の配慮からか徳川家ゆかりの地である駿河55万石を与えられ、大納言(左大臣・右大臣・内大臣に次ぐ役職)という地位も与えられますが、彼は将軍になれなかった不満によって酒に溺れるようになり家臣を手打ちにしたり、農民に重税をかけて殺したりするなどの問題行動が目立つようになっていきます。
さらに、忠長は自分を100万石の大名にするか大坂城代にしてくれと秀忠に懇願。
ここまでくると秀忠も忠長の事を庇えきれなくなり、最終的には忠長は秀忠の死後の1634年に幕府によって自害に追い込まれてしまいます。
徳川家光に唯一愛された女性お万の方とは?
徳川家光の特徴の一つに大人になるまで全く女性に興味を持っていなかったことがありました。
戦国時代の日本では衆道関係を結ぶことが主君と家臣の間でよくあったことで秀吉のような本当の女好きは稀なことだったそうですが、特に家光は女性にも関心を持たなかったと言われています。
しかし、時の将軍が女性に興味を持っていなかったら、一番深刻な問題である世継ぎに関する問題に直面することになります。
乳母である春日局はこれを危惧して大奥の制度を確立したりするのですが、そんな家光の心を射止めたのがお万の方(永光院)だったと言われています。
お万の方は参議であった六条有純の娘として生まれ、家光に見初められるまでは伊勢の慶光院で尼さんをしていたと言われています。
家光とお万の方の間には子供は生まれませんでした。
ですが、お万の方に出会ってから家光の女嫌いは解消されたとされています。
家光は4代将軍である徳川家綱と5代将軍である徳川綱吉を出産することになったのでした。
徳川家光は伊達政宗から強い信頼を得ていた?
徳川家光は生まれながらの将軍である為に戦乱の戦国時代を知りませんでした。
そのため家光は戦国時代の生き残りともいえる真田信之、藤堂高虎、立花宗茂、そして伊達政宗などから話をよく聞いていました。
その中でも特に親しくしてもらって、家光の尊敬を得ていたのが奥州の独眼竜とも呼ばれた伊達政宗でした。
政宗は徳川家の将軍決めの時に意見を出しており、家光の側についてさらに後見人にもなっています。
普通なら将軍の影響が強いのですが、伊達家室町時代から奥州探題と呼ばれる役職に就いていた名門の家であり、さらに戦国時代には奥州に覇を唱えていた政宗はいろんな大名か尊敬の念を持たれていました。
家光自身も政宗のことを「伊達の親父殿」と呼ばれるほど親しんでいたそうです。
政宗は家光が大名を縛り付けるような様々な法度を制定した時にも第一に恭順の意を見せ、さらには「家光に逆らうものは、この政宗に申し付けくだされ」と発言したりし、家光は政宗のことを尊敬していたため、一族である御三家にも与えていなかった希少な馬を政宗に与えたり、政宗が病気になった際には医者や祈祷の手配を行ったり、実父である秀忠以上に政宗を大事にしていたとも言われています。
幼年期に天然痘にかかり右目を失明するなど苦しい思いをした伊達政宗。
幼年期の家光の境遇を分かっていたからこそ後見人として活躍できたのでしょう。
徳川家光の墓の場所は?
徳川家光の墓は今では世界遺産となっている日光東照宮の近くにある日光山輪王寺大猷院霊廟にあります。
家光は遺言において徳川家康の霊廟よりも派手なものを作ってはならぬと厳命し、落ち着いた作りとなりました。
徳川将軍家はほとんどの人が増上寺か上野寛永寺に葬られることが多いのですが、家康と家光は日光に葬られているのを見るといかに家光が徳川将軍家の中でも別格だったことがわかります。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 徳川家光は絵が趣味であったが、その絵はかなり独創的なものであった
- 徳川家光と徳川忠長は将軍職で争ったが、忠長は将軍にならなかったことに対して狼藉を働くようになった為切腹した
- 徳川家光は女嫌いであったが、お万の方に出会ってからは解消された
- 徳川家光は祖父の徳川家康と同じ日光に埋葬されている
最後になりましたが、徳川家光がきっちりと幕府の制度を確立させたことによって江戸幕府は265年もの間泰平の世を築き上げることができました。
徳川家光は将軍の中では一二を争うほど有能であったといってもいいかもしれませんね。